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第6話
二人で広場を走り抜け、雪に足を取られながら丘を駆け下りる。ニコラが銃をコートのポケットへ押し込んでいると、スピノーネが声を上げた。
「一体何を考えているんですか!」
「他に手があったのかよ!」
「本当に死ぬ気なのかと」スピノーネの声が一瞬暗くなる。しかし走るスピードは緩めない。「でも、何とかなるかもしれない」
「隠れ家に戻って、車で逃げるのか?」
「いいえ。そんな時間はありません。それにおそらく車にはもう細工がされている」
「じゃあ、どうするんだ」
「足が必要です」
丘を降りた二人は森の中へと入った。五分ほど走った後、ふいにスピノーネが足を止める。彼は辺りの木々を見渡し、ベストの内ポケットからあの半透明のケースを取り出した。中の糸巻きを手に取ると、糸の先を繰り出してニコラへ差し出す。
「そこの木に固く結んでください。高さはあなたの膝くらいに」
「わ、わかった」
彼が何をしようとしているのかはわからなかったが、ニコラはすぐ隣に生えていた木に糸を何周か巻きつけ、きつくくくりつけた。スピノーネはその向かい側、五メートルほど離れた場所の木に同じようにくくりつける。ぴんと張った糸は雪景色の中で見えなくなってしまった。
「隠れていてください」
そう言われたニコラは少し離れた倒木の陰へ身を隠したが、スピノーネ自身は糸を張った木々の間に立っていた。銃を構え、丘の方をじっと見据えている。
やがて咆哮のようなエンジン音が聞こえてきて、丘の斜面を四台のスノーモービルが滑り降りてくるのが見えた。バルカの姿はない。彼の部下達は斜面の途中で方々に散っていき、うち一台がこちらへ向かってくる。
その瞬間、スピノーネは森の奥へ向かって走り出した。
丘を降りてくるバルカの部下はそれに気づいたらしく、辺りを慎重に探るような運転から、狙いを定めて放たれた弾丸のような運転に変わる。雪が蹴散らされ、気の狂った獣じみたエンジン音が響き渡る。その音が丘を勢いよく降りてきて、森の地面をびりびりと揺らす。ニコラは足の裏でその響きを感じ取っていた。やがてスノーモービルがあの木々の間へ差しかかる。
するとその瞬間を待っていたかのように、前を走っていたスピノーネが振り返った。真っ直ぐ伸ばした手には銃が握られている。彼は部下の頭へ発砲――ばんという破裂音と共にヘルメットに弾が命中し、部下はスノーモービルから転がり落ちた。間髪入れず、木々の間に渡された糸につんのめった巨大な鉄塊が鼻先を下にして無様に傾く。それまで地を這っていたエンジン音が空へと舞い上がった。スノーモービルは数秒間傾いたままだったが、やがて大きな音を立てて地面へ着地した。辺りの雪が波飛沫のように舞い上がる。
ニコラは倒木の陰から出ると、こちらに戻ってくるスピノーネに駆け寄った。
「あれ、ただの糸じゃないだろ」
「えぇ。色んな用途で使用できるので重宝しています」
スピノーネは残りの糸巻きを投げて寄越してきた。受け取ったニコラは、糸を少し繰り出して思い切り引っ張る。びくともしなかった。糸巻きもコートのポケットに入れる。
スピノーネはスノーモービルに近づいて損傷具合を確かめた後、そばで倒れている部下からヘルメットを奪い取った。フェイスカバーに大穴が空いている。ニコラははっと目を背けかけたが、よく見ると男の顔に穴は空いておらず、痣と鼻血が出ているだけだった。まだ意識があるようで、呻いている。スピノーネはヘルメットで男の頭を殴って気絶させてから、それをニコラへ差し出してきた。
「それ、かぶってください」
「銃で頭を撃っただろ」ニコラはヘルメットを受け取る。「どうして死んでないんだ?」
「ゴム弾です。あなたに渡している銃にもそれが」
「何だと!」ニコラは怒鳴った。「じゃあお前は全部知ってて――」
「だとしても、あなたの行為は許せない」
突然スピノーネはこちらを振り返り、雪を踏みしめながら近づいてきた。その目の鋭さに気づき、ニコラは動けなくなる。ヘルメットもなく、実弾入りの銃もない。誰よりも無防備なはずのこの男が今や、熱を帯びた鎧を纏っているように見える。彼の白い吐息が鼻先にかかった。
「いいですか。力がないことを理由に自己を犠牲にしようだなんてもう二度と……もう二度とそんなこと考えないでください。実弾入りの銃を渡さなかったのは、私が、自分やあなたの主義を尊重したからじゃない。あなたに危害を加え得る人物は誰であろうと許しません――例えそれがあなた自身であっても」
ニコラはスピノーネの影の中でじっと身を固くしていた。言葉を発することを躊躇ってしまうほどの怒りと緊張が伝わってくる。黙り込んでいると、やがて彼は離れていき、スノーモービルへと戻っていく。
「早く乗ってください」
ニコラは黙ってヘルメットをかぶると、スピノーネの後ろへ乗り込んだ。
「掴まっていてください」
言われるがまま、彼の身体に腕を回す。スノーモービルは走り出した。
しばらく走ってやがて森を抜けると、背の低い木々がまだらに生えた斜面に出る。朝日が陽光へと変わり始めているが、北の空から分厚い雲が迫ってきていた。いずれ吹雪になるだろう。ニコラは穴の開いたヘルメット越しに辺りを見ていた。
「他の追っ手はどこに行ったんだ?」
「おそらく、隠れ家から最短距離で道路に出られるルートに二人、バルカを含めた残り二人がその次に早いルートで待ち構えているはずです」
「俺達はどこへ?」
「一番避けたかったルートへ。この先にある湖を渡ります」
「湖を?」
聞き返したその時、遠くで轟音が聞こえた。驚いて振り返ると、遠くの森から黒煙が立ち上がっている。
「隠れ家周辺と、近くの道へ地雷を仕掛けておきました。殺傷能力は低いですが、彼らの足くらいは奪えるでしょう」
スピノーネが振り返らずに言う。彼の言う「足」がスノーモービルのことなのか、本当の足のことなのか、ニコラはあまり考えないようにした。
いつしか上空は雲で覆われ、大気は雪が降り出す前の、あの奇妙な静寂と生ぬるさを帯びる。遠くへ視線を向けると、斜面を降りた先に湖が見えた。東側は森に、西側は真っ白い斜面に挟まれた大きな湖。斜面を降り、湖の手前で停止した。低いエンジン音が湖に響く。湖の水面は氷と雪に覆われて、全体的に白っぽくなっていた。
「最短の北の対岸まで約一キロ。飛ばせば十分程度で到着します」
スピノーネが前方を指差す。対岸にも森があり、そこに道路が走っているのが辛うじて見える。ニコラは道路と自分達を隔てる凍った水面へ視線を落とす。
「途中で氷が割れる可能性は?」
「大いにあります。積もった雪が断熱材となり、下の氷を温めることがあります。雪が溶け、再氷結して脆くなっているところもあるでしょう」
引き返したい気持ちが溢れ出てくる。しかしもう引き返すことはできない。自らに銃口を突きつけ、彼らを脅したあの瞬間から、もう選択の余地はなくなったのだ。ニコラは深く息を吐くと、スピノーネの背中にぎゅっと身体を押しつけた。
「行こう」
「えぇ」
スノーモービルが発進する。車体前方から飛び出している二本のスキーが氷上へ、次いで車体下のトラックベルトが乗り上げる。ニコラは息を止めて身構えていたが、スノーモービルはそのまま滑らかに氷上へ走り出し、誰も足を踏み入れていなかった白い空間に灰色の線を二本残しながら進んでいく。そして徐々にスピードを上げていった。
「よかった、割れてない!」
ニコラは思わず笑みをこぼした。
スピノーネもふっと笑ったのを感じ取る。もう大丈夫だ、きっと上手くいく。
湖の半分まで来たところだった。
遠くからたたたっという音がした。
ニコラがはっとそちらへ顔を向けると、東側の凍った水面から雪と水の飛沫が上がった。その飛沫が鮫の背びれのように迫ってくる。ニコラはただそれを見つめることしかできなかった。
飛び散った氷の欠片が身体に触れかけたその時、スピノーネが身体を乗り出して飛沫とニコラの間に割って入る。瞬間、ニコラは彼の背中越しにどんという衝撃を感じた。同時にスノーモービルが悲鳴じみた唸りを上げてバランスを失い、横滑りしながら徐々に傾いていく。まずいと思ったニコラは咄嗟にスピノーネを抱き寄せ、座席から飛び降りた。彼を抱いたまま氷上を滑り、先に横転して停まっていたスノーモービルに背中からぶつかる。強い衝撃にぐっと息が詰まり、痛みでしばらく動けないでいると、突然、ヘルメットを奪われた。
「いい判断だったぞ、ニコラ。だが、お前達はここまでだ」
見上げると、吹雪の到来を告げる風が、バルカのコートとファーを揺らしていた。彼の背後には彼のスノーモービルと、運転席に跨がったままサブマシンガンを構える部下が二人。そのうち一人はバルカのライフルも肩から提げている。
「どうしてここが……」
「どうしてか? 愚問だな。俺達がお前達をここへ導いたんだ。開けた場所、逃げ場はない、足場の悪い氷上――裏を掻いたつもりだったんだろう。なぁ、スピニー・ボーイ?」
バルカが問いかけるが、スピノーネはぐったりとして動かない。その時、ニコラは彼のオリーブ色のベストに穴が空いていることに気づいた。右胸辺りの生地が捲れ上がり、中の綿が飛び出し、周りは黒っぽく焦げている。それが何を意味するか、ニコラはすぐに気づいた。
「くそ!」
コートのポケットから銃を出してバルカに突きつける。入っているのは実弾じゃない。まともな射撃訓練もできていない。それでも嵐のような怒りが身体を駆り立てていた。
「これ以上、彼に手出しはさせない!」
「もし出したらどうする? そのゴム弾で俺を撃つか?」
「どうして、それを……」
バルカは微笑んでいた。ニコラの食いしばった歯がかちかちと鳴り始める。
「お前もついさっきまで知らなかったんだろう。だから、あんないい顔ができたんだ。改造して本物らしく見せているようだが、プロの目は誤魔化せないぞ」
バルカは煙草の匂いが嗅ぎ取れるほど近づいてきて、ニコラが握っている銃を掴むと、自らの胸に押し当てた。「さっきの場所でも始末はできたが、わざわざ逃がしたのは、俺がもっと長く狩りを楽しみたかったからだ」
薄闇に浮かぶバルカの目が、ニコラの怒りを容赦なく握り潰していく。
「ニコラ、俺はお前のことはよく知っている。そのトリガーを引けないことも、父親を憎んでいることも、あの夜、母親を殺されたこともな」
「まさか――」
銃を握る手から力が抜けていく。頭の中でまたあの日の記憶が蘇りかけるが――目の前に立つ男との圧倒的な力の差に気圧されて、上手く思い出すことができない。過去のトラウマさえ掻き消してしまうほどの恐怖が、ニコラの身体から力を奪っていた。
もう駄目だ。
その時、誰かに力強く腕を掴まれてニコラははっと我に返る。見るとその手は大きく傷だらけ。使い込まれたメリケンサックを嵌めている――スピノーネが唸り声を上げながら身体を起し、ニコラの腕を伝うようにしてバルカへと飛びかかっていった。彼はバルカの胸へ片膝をつけて乗り上げると拳を構える。しかし拳を振り下ろす直前、バルカにベストを掴まれて後方へと投げ飛ばされる。彼は氷上に叩きつけられたが、すぐさま起き上ると、低い姿勢のまま下がってバルカと距離を取る。その時、辺りで薄い氷が割れるぴきぴきという音が聞こえ、さらに湖全体に、氷の下で沈黙していた大量の水が揺らぐような重く鈍い音が響き渡る。そして振動――飲料入りの特大サイズのペットボトルを、棚の高さまで持ち上げてどすんと置いた時のボトルの震え、そして中身が重たげに揺れるあの感覚が、足元から全身へと這い上がってきた。
「どうやら、長居はできそうにねぇな」
バルカが雪を払いながら立ち上がる。その背後で部下達がスピノーネに銃口を向けた。
「やめろ。お前達は手出しするな。どうせ五分ともたねぇ」部下に銃を降ろさせたバルカは、次いでスピノーネの胸元へと視線を向けた。「なるほど、防弾ベストか」
ニコラも彼の胸元へ目をやる。出血はなく、ベストの穴から黒い金属板のようなものが覗いていた。ニコラはほっとしたが、依然としてスピノーネの表情は苦しげだった。その理由をバルカが告げる。
「ひどく痛むだろう。衝撃で肋骨が折れているはずだ。または内臓への損傷か」
「構いません。あなたをここで止められるのなら」
バルカはにやりと笑い、片手を上げて再び部下へ指示を出した。
「お前達はニコラを捕えろ。心臓が動いていれば、どこを撃っても構わん」
部下達より先にスピノーネが動く。彼は駆け出し、バルカの背後に立つ部下二人に向かって接近する。怯んだ部下達が一歩後ろへ下がった。しかしすぐさまバルカが間に入って彼と組み合う――瞬間、スピノーネは叫んだ。彼は怪物に変貌しつつあった。
逃げろ。
ニコラは足を滑らせながら立ち上がり、横転したスノーモービルを起こそうとしたが、そんな時間も腕力もなく、同じくスノーモービルに乗って追ってきたバルカの部下二人に追いつかれる。降りてきた一人に背後から身体を掴まれ、もう一人が正面に回ってきて銃を奪おうとしてくる。ニコラは渾身の力で暴れた。目をぎゅっと閉じ、片手に握ったままだった銃を滅茶苦茶に発砲する。するとばちんっという音が聞こえ、驚いて目を開けると、部下が一人、目の前で倒れていた。どうやら至近距離で数発被弾したらしい。痛みに呻いている声が聞こえた。
「この野郎――」
背後の部下の声が上ずっていた。狼狽えているのだとわかった瞬間、ニコラは彼の腕を振り払った――片腕を掴まれたが構わない。振り返って、もう片手に持っていた銃を突きつける。その時、ヘルメットのシールドにニコラ自身の顔が映った。髪を乱れさせ、額に青筋を立て、血走った双眸を見開いて銃を構えている。
「くそ!」
ニコラは自分自身に――もとい、部下へ銃弾を放った。ぼんっと低い音がしてシールドが砕け、身体が仰け反りながら後ろへ倒れる。ニコラの腕を掴んでいた手もするりと離れた。弾切れになった銃を投げ捨てたニコラは、吐き気を催すような速度で鼓動する心臓と息苦しさに耐えながら、部下の一人が乗って来たスノーモービルを一台奪って乗り込む。震える手で何とかアクセルを握って出発する。
数秒後、背後からまたエンジンの音が迫ってくる。さらに身体のすぐ横を、銃弾がひゅんひゅんと空を切って掠めた。足元で氷が飛び散り、小さな破片が顔を打つ。
くそくそくそ!
振り返ると、部下達は一つのスノーモービルに二人乗りして追って来ている。一人乗りのニコラなら軽いため、このままスピードを上げれば逃げ切れるかもしれない。
スピノーネを残して。
ニコラはハンドルを切ると、スノーモービルの鼻先を後ろへ向けた。迫って来る部下二人を見据えた後、ニコラはポケットから糸巻きを取り出し、スノーモービルのハンドルに糸を巻くと、次いでアクセルにもくくりつけた。糸の端を握って運転席から降りると、顔を上げ、雪を蹴散らしてやって来る彼らを見た。額に汗が伝う。
まだ。
まだだ。
「今だ」
糸を思い切り引っ張り、そして離す。アクセル全開で固定された無人のスノーモービルは、唸りながら部下達のスノーモービルへと猛進した。それに気づいたらしい後部に乗っていた部下は間一髪で飛び降りたが、運転手はハンドルを離しきれなかった。
がんっと、大きな音が響く。
有人のスノーモービルは無人のものよりもちろん重く、ぶつかっても横転することはなかった。しかし無人の方は、その軽やかさを凶器へ変える。相手のスノーモービルの鼻先に乗り上げ、車体の下で回転するトラックベルトで運転手にのしかかった。
「うわああ!」
運転手は悲鳴を上げながら、鉄塊の下敷きとなった。
それを見届けたニコラは踵を返し、対岸へと走り出す。はぁはぁと繰り返す呼吸の間に嗚咽が混じる。くそくらえ。とにかく走った。対岸の森はもう目と鼻の先だ。
その時、右腕をどんと押されて倒れ込む。氷上へうつ伏せになったが、冷たさを感じない。何が起きたのか理解する前に、右上腕部から炸裂する熱と激痛に意識が支配される。悲鳴が喉を駆け上がって飛び出してきた。
「ああぁ!」
汗が噴き出した。震える左手で右腕に触れると、掌が血に塗れる。その血から湯気が立っていた。撃たれた――突然、視界が霞み始める。駄目だ、失神するな。今は駄目だ。逃げないと。立って走れ。血に汚れた左手で氷をがりがりと引っ掻く。
その時、誰かが背中を踏みつけてきて、ニコラの意識は明瞭さを取り戻す。
「ぐあっ」
ブーツ裏の鋭い滑り止めが、コートの生地越しに背中へと食い込んでくる。肩越しに振り返ると、サブマシンガンの銃口が目元に突きつけられていた。スノーモービルから先に飛び降りた部下が、ヘルメットに空いた穴の奥から、血に汚れた顔を覗かせている。
「くそったれ!」
罵ると、後頭部を掴まれて氷に叩きつけられた。髪を掴まれて起こされると、鼻から熱い血が噴き出してきて顎先まで伝っていくのを感じた。
「黙って見物してろ」
身動きが取れないニコラは正面を見続けるしかなかった。
前方の氷上にはスピノーネとバルカがいる。牙を剥き合う彼らは、もはや人間としてのオーラを捨てていた。スピノーネが殴りかかると、バルカは腕を上げてその拳を受け流し、さらに彼の腕の外側を辿って迫ると、横顔に拳を叩き込んだ。どっ、という音が重たい音が響き、スピノーネの顔が勢いよく横を向く。氷上に血が飛び散った。スピノーネはよろけるが、すぐさまバルカの方へ向き直る。脳震盪は確実。身体はふらつき、片目には血が溜まっていた。髭やシャツ、ベストも血で汚れているが、スピノーネは構わず拳を突き出し続ける。空気を切る音が聞こえるほど素早い拳が、ついにバルカの腹部を捕えた。バルカは身体を二つ折りにして呻いた。彼の頭が低い位置まで降りてくると、スピノーネはすかさず拳を振りかざす。しかし拳がまだ空中にあるうちに、バルカがタックルを仕掛けてきた。スピノーネは氷上に押し倒され、バルカに馬乗りにされる。彼はすぐさま上体を起こして殴りかかった。その拳を避けようとバルカが身体を仰け反らせた時、二人の身体に隙間ができたのだろう、スピノーネはバルカの身体の下から足を引き抜き、彼の胸を蹴って、その反動で氷上を滑ってまた距離を取る。
風が唸り、空気に雪が混じり始めていた。
バルカが立ち上がる。その額には青筋が浮かんでいた。
「ふざけるのもいい加減にしろ! 遊んでいるつもりか? そんな戦い方を教えた覚えはないぞ! 殺す気で来い! お前の身体はまだ殺しを拒むのか? ドメニコとの契約のせいか!」
スピノーネは返事をしなかった。血に濡れて垂れ下がった前髪が目にかかり、その表情は読み取れない。彼は濁った唸り声を上げると、倒れ込む勢いで身体を屈めて駆け出す。
一方、バルカはその場に立ち尽くしていた。彼はもう戦いに備えていない。落ち着きを払い――退屈しているようにも見えた。彼はコートの内側をまさぐると、片手の指の間に黒い球体を挟んで取り出し、それをスピノーネの足元へ投げつける。
瞬間、爆発が起きた。
高い水柱と共にスピノーネの足元の氷がばきばきと割れ、牙のような氷片と共に彼の身体はあっという間に水の中へと落ちていった。彼の姿が完全に氷上から消え失せた。爆発地点を中心にして、辺りには放射線状の亀裂が走っている。
「あぁ、そんな!」
ニコラは片手で氷上を掻く。今すぐそばへ行って引き上げたかったが、背中を踏みつけられているせいで動けない。やがて、波立っていた水面が静かになった。
「嫌だ! スピノーネ!」
脳裏に、彼の身体が血の尾を引きながら、冷たい水底へと沈んでいく様が浮かぶ。
するとバルカが穴に近づいて行った。彼は黙って穴を覗き込む。無情なほどの静けさが湖全体を包み込む中、ニコラも黙って彼の様子を見ていた。もしかしたらスピノーネを助けてくれるかもしれないという、あまりに軽薄な願いを胸に抱きながら。
しばらくしてバルカは振り返った。
「終わった。ニューヨークへ向かう」
「くそ野郎! 彼を殺したな!」
震える喉の奥から血の味が込み上げる。ニコラは腕の痛みなど忘れてバルカを睨みつけた。もう恐れなどなかった。胸の中には、猛回転するモーターのような怒りと敵意、そして殺意が渦巻いていた。どうして――これだけの殺意があるのに、どうして殺気だけで人は殺せないんだ。
「殺してやる!」
ニコラが叫んだ直後、静かだった水面が突然飛沫を上げた。
びしょ濡れのスピノーネが穴から飛び出してきたのだ。彼は上半身を氷上に乗り出すと、そばに立っていたバルカのブーツに噛みついた。
反射的に身を引こうとしたバルカは前髪を一筋乱れさせ、やがて硬直してスピノーネを見下ろした。誰もが、墓から蘇った怪物のようなスピノーネを見ていた。ニコラも瞬きすらできなかった。あれは誰だと自問する。あれは人間か? 髪や髭が凍りかけているその生き物は、バルカのブーツに食らいついたまま低い唸り声を発している。
ニコラは心は叫ぶ。あれはスピノーネだ! 彼は生きてる!
「銃を寄越せ。お前達は先に行け」
バルカはスピノーネから目を離すことなく、手だけをこちらに差し出してきた。ニコラの身体を押さえていた部下が、自分のサブマシンガンを投げて寄越す。同時にニコラは引っ張り起こされ、撃たれた右腕を捻り上げられた状態で拘束された。痛みに悲鳴を上げた時、顔に垂れてきた髪の隙間から、対岸の道路に黒いジープが停車しているのが見えた。きっとあれに乗せられる。腕の痛みにも、身に迫る危機にももう興味などない。引き立てられるニコラは必死に振り返った。
「バルカ、やめてくれ! 彼を殺すな! 俺はもう抵抗しない、言う通りにする――」
「早く連れていけ」
バルカはこちらを見ることなく、銃口を、自分のブーツへ噛みつく犬へと降ろす。
「よせ! 駄目だ! スピノーネ――ぐあっ!」
突如、後頭部に強い衝撃が走る。失神する寸前、ニコラは銃声を聞いた。
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