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第7話

 揺さぶられた感覚に、ニコラ・スティヴァレッティは目を覚ました。横向きに傾いた視界の中、薄闇に運転席と助手席が見える。フロントガラスに雨が叩きつけ、ワイパーが忙しなく左右に動いていた。エンジンの唸り、タイヤが路上の水溜まりの上を通過して、水を跳ね散らす音も聞こえてくる。どうやら車内後部の荷物入れのスペースに横たわっているようだ。腕は後ろ手に拘束されている。軽く動かしてみると、皮膚にロープが擦れてわずかに痛んだ。両足も同じように縛られているようだ。せめて足だけでも自由にならないかと爪先を擦り合わせていると、突然車体ががたんと跳ねて、衝撃が後頭部と右腕に鈍く響いた。悲鳴を辛うじて噛み殺したニコラは、次にやって来る衝撃を和らげるため、身体の力を抜いた。すると車がまたカーブに差し掛かる。ニコラの身体は右に傾く。次は左へ、そして真っ直ぐ進んで坂を上り始める。ここから数メートル先の道に小さなくぼみがあるはずだ。あそこにタイヤがはまるとひどく車体が跳ねるんだ――はっとなる。身体が無意識に構えていた。自分はこの道を知っている。その時、タイヤがあのくぼみにはまって激しく跳ねた。咄嗟に身体に力が入ってしまい、衝撃がもろに傷に響く。 「ぐあっ」  ニコラはついに我慢できず呻き声を上げる。助手席に座っていた男が振り返った。 「目が覚めたか。いいタイミングだな」  車のタイヤが砂利を踏みしめて停まった。運転席と助手席にいた男達が車から降りる。ニコラは横たわったままでいたが、突如足元で両開きのドアが開き、両足首を掴まれた。 「さぁ、来い!」  乱暴に車外へと引きずり出された。両足を縛られているせいでバランスを崩し、冷たい地面へ倒れ伏す。砂利が服越しに皮膚に食い込んでくる。顔をしかめていると、男達に両脇を支えられて引っ張り起こされた。撃たれた右腕が鋭く痛んで歯を食いしばる。 「具合でも悪いのか? ははは!」 「止血してやったんだ。ありがたく思いな。ほら、久しぶりの帰郷だろ。そんな顔してねぇでもっと喜べよ」  その言葉にニコラは顔を上げる。目の前に大きな屋敷がそびえていた。見覚えのある場所――忘れたくても忘れられなかった。三階建てで、横幅が広く、火事の痕跡を徹底的に消そうとしてか、外壁は神経質なほどに白い。手入れされた広い庭園や、彫刻が施された噴水、アーチ型の玄関ポーチ、窓から漏れる光――ニコラはそれら燃え盛っているように見えた。  二度と帰るまいと誓っていた。全てを失った場所。  ニコラは男達に連れられてエントランスホールに入る。そこには二メートル近い身長の巨漢が二人、門番のように立っていた。彼らの背後には白亜の空間が広がっている。ニコラの記憶ではこのホールはいつも清潔に保たれ、鼻につかない程度の消毒液と、ポプリの香りで満たされていた。しかし今や硝煙と鉄の臭いが充満している。床には薬莢が散らばる血溜まりができており、その中でスーツ姿の男達が何人も倒れていた。スティヴァレッティ・ファミリーの構成員だと気づいて唖然としていると、ふと足元で呻き声がして視線を下げる。見覚えのある顔がこちらを見上げていた。 「レミージョ! お前か!」 「ニコラ様……あぁ、そんな」彼は眉間に皴を寄せ、か細い吐息に嘆きの言葉を乗せた。「申し訳ございません、御父上様は……ドメニコ様は……」 「もういい。もういいんだ。それ以上喋るんじゃない。じっとしてるんだ」  他人を気遣う余裕など底を突いていたが、それでもニコラは彼を説き伏せた。二十年以上ドメニコに仕えている構成員の顔なら全員覚えている。途端に、辺りを見渡すのが恐ろしくなった。身体の力が抜けかけるが、男達にぐいと腕を引っ張られて再びニコラは歩き出す。ホール奥の階段から二階へと上がっていった。ふと一階のフロアをちらりと見下ろした時、屋敷自体が巨大な集団墓地と化したように見えた。そして自分も今、その中に加わろうとしている。  階段を登りきると、廊下の突き当たりにある部屋の方へ身体の正面を向かされる。  あそこには行きたくない。  ニコラは咄嗟に踏み留まろうとしたが、腕の痛みのせいで上手く力が入らない。なすすべもなく引きずられていき、ついに目の前で扉が開かれた。中に突き飛ばされたニコラは、毛の長い絨毯の上で膝を揃えるような体勢で座り込む。俯いていると、視界に、ぴかぴかに磨かれた革靴の爪先が現れた。 「君がニコラか。ようやく会えたね」  爪先から脚へと辿って視線を上げると、ネイビーのスーツを着た細身の男と目が合った。四十代前半くらいだろうか。肌つやがよく、ブロンドヘアは整髪剤できちんと整えている。ぱっと見はやり手の証券マンといったところだが、天井から吊るされたシャンデリアの光を浴びて陰になった顔――その中で双眸がぎらついている。まるで蛾の羽に現れた目玉のような模様だ。人間味を欠いた目をしている。 「ギデオンだな」ニコラは唸るように言う。 「その通り。嬉しいよ、この私のことを知ってくれていて」白い歯を見せてにっこりと笑った。「君の実家に勝手にお邪魔したことを許してくれ。それにしても、なかなかいいお屋敷じゃないか。ここを離れたなんて、ずいぶん自立心が高いようだね。立派なことだ」  ニコラは素早く辺りに視線を走らせる。この場所はあの火事以来、一度も立ち入ったことがない。ドメニコとセラ、ニコラが家族の形を保っていた頃、共に静かな時間を過ごす部屋だった。西の壁には西洋画が飾られ、その下には大きな暖炉がある。暖炉に横づけるようにソファと安楽椅子が置かれ、ドメニコはよく安楽椅子に座って葉巻を吹かしていた。ニコラは母と一緒にソファに座って、母の体調がよければ彼女の膝に頭を預けて暖炉の炎を眺めているのが好きだった。東の壁側にはバーカウンターとソファ、そして奥の壁には背の高い本棚が埋め込まれている。南側には大きな窓とバルコニーがあった。  全て焼け落ちたはずだ。  ぞっとしてニコラは目を見開いた。ここの内装が、あの頃のものと瓜二つだった。完璧に再現されている。ドメニコが吸っていた葉巻や、セラの香水の匂いすら漂っていた。故に、数少ない幸せな幼少の記憶に、突如ギデオンという異物が現れたように感じる。ギデオンの他にも周りには筋骨隆々な者、ラッパーみたく金のチェーンを首からさげた者、不格好なタトゥーを入れた者など十数名いた。寄せ集め。金で雇われただけのアウトロー。 「大変な旅だったと聞いている。さぞかし疲れただろう?」  ギデオンはバーカウンターへと近づき、ウイスキー入りのガラス製デカンタを取り出した。中身をグラスに注ぐと、デカンタをカウンター上にごとんと置く。彼は満たされたグラスを持ち上げ、向かい側にあるソファを指し示した。ニコラは部下達に引きずられてそこへ近づく。ギデオンは不気味な笑みを浮かべていた。まるで自分の贈り物の趣味が悪いと知りながら、相手の反応を見たいがために様子を窺っている悪ガキめいた笑み――その笑みの真意は、ソファの表側を覗き込んでわかった。 「あぁ、まさか」  ソファには先客がいた――スーツを着込んだドメニコが肘掛けに頭を乗せて横たわっている。意識はあるようだがぐったりしており、口の周りは血で汚れていた。彼の両手足もロープで拘束されている。ギデオンがウイスキーを飲む音がやけに大きく聞こえた。 「言っておくが、その血は私達のせいじゃないぞ。彼は末期の肺がんだ。私は彼の主治医に金を渡して、処方薬の情報を流させていた。私も薬を扱う人間の端くれだ。もう長くないことはすぐにわかった。まさか、実の息子なのに知らなかったのか?」 「そんな……」  ニコラは父の隣へ無理矢理座らせられた。すると、血管が透けて見える父の瞼がゆっくりと持ち上がり、濁った瞳がニコラを捉えた。 「ニコラ……どうしてお前が、ここに」 「捕まったんだ。二人で逃げていたけど――」 「『棘の犬』は……スピノーネはどうした。一緒じゃないのか」 「その……彼は――」  言いかけた時、しゅるしゅると奇妙な音がどこからか聞こえてきた。音の出どころがわからず思わずドメニコを見やった瞬間、彼の両足が目の前で不自然に持ち上がった。彼は喉を絞められたような呻き声を残し、頭を逆さにして宙を昇っていく。 「何だ!」  見上げたニコラは気づいた。天井に埋め込まれた照明を吊すための金具――そこへロープが通され、先端のフックがドメニコの足を拘束するロープに繋がっていた。ドメニコを吊しているものの隣にもう一つ、すでにロープが通されている金具がある。ニコラが呆気にとられて見上げていると、ギデオンが指をぱちんと鳴らすのが聞こえた。はっと視線を戻すと、すでに彼の部下が目の前までやって来ていた。その手にはフック付きのロープがある。 「やめろ! よせ!」  抵抗しようと身をよじると、容赦なく顔を殴られてソファに倒れ込む。足を引っ張られた次の瞬間、ぐんと重力から引き離され、景色が百八十度反転していた。身体が左右にぐらぐら揺れ、頭の重みで首筋が伸びて喉元が晒される。長い白髪が床に向かって垂れていた。顔を横に向けるとドメニコが見えた。二人揃ってまるで冷凍室で加工されるのを待つ肉のようだ。 「ニコラ、君は私についての評判を聞いたことはあるかな?」  逆さまの世界で、ギデオンはカウンターにグラスを置くと、シャツの袖口ボタンを外して捲り上げた。右手の甲には組織のシンボルである蛾のタトゥーが掘られている。大きな眼球のような模様がある羽を広げ、節の入った醜悪な胴体を晒している。 「人々はこう言う。私は家族殺しを好む変態だと。だがそれは誤解だ。親しい者共々死なせてやろうという慈悲さ。そうだ、私は慈悲深い男なんだよ。わかるか?」  彼はカウンター裏へ手を伸ばして果物ナイフを取り出すと、ゆっくりと目の前まで歩み寄ってきた。光を鈍く反射するそれからニコラは目を離せない。どうにか恐怖によるパニックを抑えようと、鼻から大きく息を吸って吐き出す。しかしギデオンのコロンの香りが吸い込む空気に混じり、さらにはナイフの冷たい背が頬に押し当てられると、ひっと息が止まった。ナイフは頬から額へ、そして髪へと移動していく。刃で撫でられた髪がさらさらと鳴った。 「なぁ、わざわざこんなに長く伸ばしているのか?」 「触るな……」 「こら、父親みたいな怖い顔をするんじゃない。せっかくの綺麗な髪が台無しじゃないか。あぁ、それとも、その顔に似合う髪型にしてやろうか」 「よせ!」  叫んだ瞬間、乱暴に髪を掴まれた。抵抗しようと咄嗟に頭を振ったが、首の付け根が痛むほど強く下に引っ張られて息が止まる。 「やめろ!」  ざくざく、ざくざく。  ずっと自分と繋がっていたものが切り落とされる。ニコラは絶叫した。刃が押し引きされるのと同じ動きで頭が揺さぶられ、切られた髪の束がぱさぱさと床に落ちる音が聞こえる。その音は、いくら叫んでも怒鳴っても止まらなかった。 「ははは、すっきりしたじゃないか!」  ギデオンが掌に貼りついた髪を見せつけてくる。それまで頭に感じていた重みが消えていた。下を見ると、床やソファに白髪が散乱していた。ギデオンの高笑いが響き渡る。ニコラは歯を食いしばると、腹筋に力を入れて身体をしならせ、彼の顔面に頭突きを喰らわせた。 「ぐあっ」  額に固い感触があった。ギデオンは鼻を押さえて後退りし、やがて血で汚れた己の手を見下ろす。ざまぁみろだ。ニコラは乾いた笑い声を漏らした。しかし、彼の手に握られたナイフがぎらりと光を反射した瞬間に笑顔は凍りついた。 「ふざけやがって!」  目を血走らせたギデオンが、ニコラの頬を乱暴に掴み上げてきた。先程の余裕綽々な態度から一変、地獄の炎のような光をその目に宿している。「この私をコケにしたな! お前の生意気な面の皮を剥いでやる! たっぷり泣いて、命乞いするがいい!」 「ギデオン! 息子に手を出すな!」  突然、ドメニコが叫んだ。ニコラは驚いてそちらへ顔を向ける。父の視線は真っ直ぐギデオンに向いていた。 「やるなら私をやれ。お前が一番殺したいのは私だろう。個人資産を明け渡してもいい。場所も金庫の解除番号も教える。その金で息子の命を買わせてくれ。だから手を出すな。彼はこの件に何の関係もないんだ」 「黙れ! お前の個人資産のことなどとっくに知ってる!」ギデオンは苛立った口調で言った。「この大事な大事なくそ息子のために長い間溜め込んできた金だろう。隠し場所はお前のお抱え娼婦が働いていた娼館の地下さ。今はお前のホテルになってるがな。すでに部下を行かせてある。金庫の解除番号が息子の誕生日だと聞いた時には、思わず泣きそうになったよ……ははは、本当、泣かされたよ」突然ギデオンは笑い出した。この男は情緒面に問題があるはずだ。それかラリっているか。彼は表情と声音を忙しなく変えながら語り始めた。「私はずっとお前に抑圧されてきた。もっといいブツを流してやれば莫大な儲けが生まれるというのに、お前は古いやり方を突き通して私の邪魔をする。出る杭は打たれるというやつだ。この街を守っているだと? そんなものただの偽善だ。罪滅ぼしにもならない。私は古い時代を灰にし、新しい時代をこの街に迎えさせてやる――それどころか天国にしてやるさ。支配者は私だ。準備は整った。金の心配もなくなったよ。お前の遺産相続人だった息子は、今ここで死ぬんだからな!」  ギデオンがナイフを振り上げたその時、背後で扉がばんと開かれる音がした。  身構えていたニコラはふと、部屋にいた全員の身体の向きが変わったのがわかった。大勢の足が床を踏む音と、銃を構える音。そして場の空気が一気に緊張したのを感じ取る。ギデオンはナイフを振り上げた体勢のまま固まっており、部屋の入口を凝視しながら、徐々に手を下げていった。 「バルカ、遅いぞ! 何をしてたんだ!」 「すまん、すまん。取り込み中かと」  ごつごつと、厚いブーツの底が床を踏みしめる音が近づいてくる。やがてニコラの視界に現れたバルカは、肩に大きな黒い袋を担いでいた――大きさはちょうど人間一人ぶんくらい。袋の中の物体はバルカの肩辺りで二つに折れ、その両端が彼の背中と腹の前で垂れ下がっている。  バルカはそれをバーカウンターの上にどさりと置いた。 「誰の死体だ?」  ギデオンが尋ねると、バルカは無言で、袋の端からファスナーを半分ほど開けた。見えてきたのは赤い巻き毛、同色の髭、白いシャツにブラウンの蝶ネクタイ、そしてオリーブ色のベスト。 「は……そんな……」  ニコラの頬を涙が逆さまに流れていく。 「こいつがあの『棘の犬』か?」  ギデオンが歩み寄って袋の中を覗き込む。すると、バルカは突然腕を大きく広げた。 「こいつはたった一人で、ドン・スティヴァレッティの息子の護衛にあたっていた! 最初の襲撃に向かわせたあんたの部下五人は、この男一人にやられたんだ。さらにこいつはニコラを連れてカナダにも侵入。先回りしていた部下達をも制圧し、一人を拉致して欲しい情報を入手していた。さらに俺についてきた部下達も地雷で――」  バルカは拳を作ってギデオンの顔へ近づけると、「どかん!」と叫んで拳を開いて見せた。彼がびくりと震えるとバルカは愉快そうに笑い、やがて袋に入ったスピノーネを見下ろす。 「俺が鍛えただけある。途中からあんたの作戦じゃないことも見破ってたぞ」 「だが、死んだ!」  ギデオンは持ったままだったナイフを、袋のすぐそばのカウンターへ突き立てた。そしてバルカを睨み上げる。「誰がお前の雇い主だ? 私に恥をかかせるな!」 「あぁ、悪かったよ」  バルカは降参するように両手を上げたが、ふいに冷たい視線で雇い主を見下ろす。 「さぁ、俺の仕事は終わりだ。早急に残りの報酬を振り込んでくれ」 「あぁ、そのことなんだが――」  ギデオンが笑い混じりにそう言うと、彼の部下全員が一斉にバルカへ銃口を向けた。 「武器を全て捨てて跪くんだ。コートも脱げ。両手は頭の後ろへ」  ギデオンもスーツの懐から銃を取り出してバルカに突きつけた。バルカは周囲を見回し、最後にギデオンを見やった後、仕方ないなと言うように肩をすくめた。彼はコートを床に脱ぎ捨て――コートらしからぬ重たい音がした――ショルダーホルスターを外し、ベルトポーチも外して床に降ろす。黒のインナーシャツとカーゴパンツだけになった彼は、バーカウンターを背にして跪き、両手を頭の後ろへつける。するとギデオンの部下がそばまでやって来て――かなり緊張している様子だった――床に散らばった彼の持ち物を回収して部屋の隅へと放り投げた。 「悪いが、君に支払う金はない」とギデオン。彼は部下達の後方へ下がり始めていた。 「何が問題だったんだ? 仕事はちゃんとやっただろ?」 「あぁ。だが君は請求額が高すぎる。支払いを断れば私を殺すしな。そうだろう?」 「ようやく俺のことがわかってきたな。だがこっちも色々と入り用でね。妥当な額だと思うぜ。このまま踏み倒す気か?」 「脅威は早いうちに摘み取る主義なんだ。残念だよ」 「そうか……」  バルカは溜息をつくと、観念したようにがっくりと俯いた。  静寂が訪れる。誰もが銃声が聞こえるのを待っている。期待のこもった冷たい鼓動が聞こえてくるようだ。ニコラの心臓も高鳴っていた。ただし、周りの人間の胸の中で打っている鼓動とは少し種類が異なる。ニコラは見ていた。俯くバルカの口の端が徐々に吊り上がり、あの鋭い犬歯が剥き出しになっていくのを。 「ブリング(持ってこい)!」  突然、バルカが吠えた。同時にバーカウンターの袋から、サブマシンガンを両手に持った腕がにゅっと現れる。手を頭の後ろに組んでいたバルカは振り返ることなく、その腕から銃を受け取ると、素早く正面へ向けて発砲を開始した。  ニコラは固く目を閉じる。骨までもを痺れさせるような破裂音の随に、薬莢が落ちる音が聞こえた。しかし自分に弾は当たらない。恐る恐る目を開けた時、身体の左右を通過する銃弾の雨――その中央の晴れ間にスピノーネが立っていた。カウンター上にいた彼は足元に突き立っていたナイフを引き抜くと、飛び降り、こちらに駆け寄ってきた。しかしニコラは咄嗟にドメニコの方へ視線を送る。それに気づいたスピノーネはまず彼の方へ行き、ロープを切ると、ぐったりとした身体を抱き留めてソファへと降ろした。次いでニコラのそばへやって来てロープを断ち切る。彼に抱き留められたニコラはようやく叫んだ。 「プレイ・デッド(死んだふり)だと!」怒りと涙と笑顔が同時に込み上げてきて、抑えきれなくなる。「本当に死んだかと!」 「残念ながら、死に損ないました」スピノーネはにやりといたずらっぽく笑った。  床に降ろされた後、手を縛っていたロープからも解放される。その時、バルカが放つサブマシンガンの銃声が止み、最後の薬莢が落ちるちゃりんという音で締めくくられた。訪れた静寂はまだ痺れを帯び、辺りを振り返ると、硝煙の匂いが立ち籠める部屋にギデオンの部下達が大勢倒れていた。 「さぁ、掃除は終わったぞ。あー、すっきりした」  バルカは弾切れになったサブマシンガンを投げ捨てると、部屋の隅に放られていた自分の持ち物の方へ歩いて行く。それらを拾い上げて流れるように手早く身に着けると、最後に上からコートを羽織った。  ニコラはふらつきながらも立ち上がると、バルカの背中に近づいて尋ねた。 「どうして俺達を助けた?」 「そんなことより、お前いつの間に散髪したんだ? ひでぇ髪型だな」 「誤魔化すな。お前はギデオンに雇われていたのに、どうして――」 「理由はさっきわかっただろ。支払いを拒まれたからだよ」 「俺達を生かした理由にはならない」 「やれやれ。参ったな」  振り返ったバルカの顔には笑みが浮かんでいた。ニコラは思いがけず戸惑った。彼の笑みからは捕食者のような不気味さが消え、まるで我が子の成長を愛しむ父親のような充実感に満ち満ちていたからだ。 「……強いて言えば、面白いものを見せてもらったからだ」 「面白いもの?」 「あんなに必死になったあいつを、俺は見たことがない」  バルカがくいと顎を上げた。ニコラが振り返ると、そこにはドメニコのそばに立ち、怪我はないか、気分はどうかとしきりに尋ねているスピノーネがいる。つい数時間前、カナダの凍った湖から這い出てきて、バルカのブーツに噛みついていた男には見えない。彼は今、主人であるドメニコから「大丈夫だから心配するな」と説き伏せられている。  ふと、ニコラはドメニコと視線が合った。気づけば歩き出し、倒れ込むように父を抱き締めていた。あまりにも薄い身体だった。背中に回ってきた手の力は弱々しい――躊躇いもあっただろう。途端に胸に後悔の波が押し寄せる。母を失ったあの日に寄り添えていれば。互いの存在を、悲劇を思い出しかねないトリガーだと決めつけなければ。葉巻をやめろと言っていれば。一度でも家に帰っていれば――  その時、頭に手が触れてきた。骨張った手が、ニコラの乱れた髪を整えようと撫でている。その手の震えが、温もりが、ニコラの中に巣食っていた後悔を解きほぐしてしまう。 「すまない。またお前を巻き込んでしまった。同じことは繰り返すまいと誓ったのに」 「わかってるよ、父さん。だから彼を寄越したんだろ」  ニコラは顔を上げ、父と共にスピノーネを振り返った。二人の視線を受けたスピノーネは目を大きく開いてそこに立っている。 「スピノーネ、お前とは一つ契約を交わしていたな」  ドメニコが正面から向き合うと、スピノーネは緊張した面持ちで答えた。 「命を賭して護れ。されどその道、屍で汚すなかれ」 「そうだ。それが『不殺の契約』だ。だが多くの人間は、この契約内容を誤解している」  そう話すドメニコの目には、ファミリーのドンとしての光が戻っていた。過去に失ったものは多く大きい。その傷と痛みを宝のように抱えつつ、なおも未来に向かって歩み続けてきた男の顔立ちだ。 「ここで告げよう。現時刻をもって、お前との『不殺の契約』を――」  瞬間、空気が破裂した。  ニコラの目の前でドメニコの身体がぐらりと揺らぎ、膝から崩れ落ちていく。シャツの脇腹辺りが赤く染まっていくのが見えた。ニコラは動き出せない。じれったい悪夢の中にいるように四肢が重たかった。やがて彼の膝が床についたどんという音で我に返る。ニコラが慌てて跪いて父の身体を抱き留めた時、スピノーネも反対側から支えていた。 「ふざけやがって!」  声のした方に目を向けると、暖炉前の安楽椅子の陰から、右手に銃を構えたギデオンが顔を出していた。左手にはスマートフォンを持ち、顔の横に押し当てている。「まだ終わっちゃいないぞ!」 「いいや、俺はもう終わりたいね」  バルカが自前の銃を片手に構えてすぐさま発砲した。弾はギデオンの右手に見事命中し、彼の手から指と銃を奪い取る。彼は悲鳴を上げて安楽椅子の裏へ倒れ込んだ。 「皆殺しにしろ!」  右手を抱えるギデオンは床に頬を押しつけ、そばに落ちたスマートフォンに向かって絶叫する。すると、それが蘇りの呪文だったかのように、倒れていた部下達が起き上がり始めた。  ニコラは驚き、父の身体を抱き寄せて身を強張らせた。さらにエントランスホールで門番を務めていたあの巨漢達が、どかどかと部屋に入って来た。ギデオンから連絡を受けたのだろう。 「どういうことだ、こりゃあ」  バルカは唸り、隣にやって来たスピノーネを睨みつけた。 「まさか袋の中で弾をゴムにすり替えたのか? 冗談じゃねぇぞ!」 「ギデオンから支払いを拒まれるのはわかっていたでしょう。私はあなたが報酬を得るチャンスをつくったんです」  スピノーネの口調は冷静だった。 「どういう意味だ?」 「今夜だけでいい。ドメニコ様に仕え、彼のために仕事をするのです。寛大なお方ですから、日雇いだとしても、いくらかの報酬は用意してくださるでしょう。そのためには彼と契約を結び、ルールを守る必要がある」 「くそったれめ……俺は銃を手放す気はねぇぞ。とにかく死んでなきゃいいんだろ?」 「えぇ。心臓が動いていれば」  二人はニコラとドメニコの前に並んで立ち、ギデオンとその部下達と対峙する。  バルカはさらにもう一丁銃を取り出し、両手に携えた。 「この際だから言っておくが、派遣先の戦場で、名前も何もかも忘れちまったお前を拾ったこと、後悔してないぞ。そりゃ、ガキの頃のお前は触れるもの皆傷つけた。俺が目を離した隙に他のメンバーにいたぶられ、その仕返しで莫大な損害を出した。俺の殺しの教えを拒絶した――だがな、つまるところ、愛してるぞ。人を殺さずとも逆境を生き抜く才能を持つお前をな」 「だけど数時間前、あなたに殺されかけた」 「スピニー・ボーイ。俺はお前にとっての逆境じゃない。そんな生易しいものじゃないぞ、もっと悪いものだ。越えようなんて思うな。素直に頼ってくれればいいんだ」 「なら、また共に戦っていただけますか。彼らを守るために」 「いいだろう。何なら先に祝杯を挙げるか? そこのウイスキーでよ」  スピノーネがメリケンサックを拳へ装着する。金属の突起はその面影だけを残して磨り減っているが、彼の大きな拳は、その役割以上の威力を持っていることをニコラは知っている。その手の温かさも、優しく撫でてくる感触も知っている。 「やるか!」  バルカが銃口を正面に向けた。放たれた銃弾は集団の両端に立っていた部下二人の足を撃ち抜き、彼らの喉から悲鳴を絞り出させた。それとほぼ同時に、スピノーネが背後のカウンターからデカンタを取り上げて宙に放り投げると、足を高く上げてガラスの底を鋭く蹴りやる。ウイスキー入りの砲弾は芳しい香りの尾を引きながら、前方の男の顔面へと着弾。ガラスの破片と琥珀の液体に塗れながら男は後ろへ吹き飛んだ。 「ふぅーっ」  バルカが興奮気味に叫んだ。そんな彼の横を駆け抜けていったスピノーネは別の男へと接近する。その素早さに怯んだ男の懐へ入り込むと、顔面を右から、次いで左から、そして顎下から突き上げる。よろけた彼の腕を比較的紳士的に掴むと、タンゴを踊るかのように滑らかに、その腕を背中に回してひねり上げる。腕の骨を折られた男は絶叫して銃を取り落とした。スピノーネは戦闘不能になった者を投げ飛ばして舞台上から掃かせると、次なる挑戦者を迎え入れる。現れたのは、あの巨漢二人組だった。 「スピノーネ! 俺にも一人残しとけ!」  比較的小柄な者達の相手をしているバルカが怒鳴る。 「早い者勝ちです!」  スピノーネは巨漢の一人の腹へと拳を叩き込む。右、左と二発喰らせた時、ばきんっと何かが折れる音がした。巨漢の肋骨が折れたのかと思った。しかし彼は壁のようにびくともせず、表情すら変えていない。スピノーネがはっとした表情で自身の手元へ視線を落とす。彼の拳の隙間から、残骸と化したメリケンサックがばらばらと落ちていった。咄嗟に裸の拳を握ったが、その瞬間、丸太のように太い腕が横向きに迫ってきて、喉に重たい一撃を食らう。スピノーネは床に叩きつけられた。 「スピノーネ!」  スピノーネはげほっと咳き込み、起き上がろうとして身を捩った。しかしまた巨漢の腕が伸びてきて、今度は胸ぐらを掴まれる。彼の身体が宙に浮いた。抵抗する間も与えられず投げ飛ばされ、五メートルほど先のテーブルにぶつかると、天板をぶち抜いて落下する。まるで乱暴な持ち主に買われてしまった哀れなぼろ人形だ。 「いい加減買い換えろって言っただろ!」  呆れ顔でバルカが怒鳴る。彼はもう一人の巨漢や、その他の残党達に銃を撃って牽制しているところだった。彼の元へ駆けつける余裕はなさそうだ。  ニコラは身を乗り出す。スピノーネは頭を強打したのか、倒れたまま動かない。そこへまたあの巨漢がのしのしと近づいてくる。助けなければと立ち上がりかけた時、ふとスピノーネの目が開いていることに気づく。大きな目がじっとニコラを見つめていた。 「これからとっておきの特技を披露するから見ていて」と瞳で語っている。  不安もあったがニコラが頷くと、スピノーネの視線はそばに倒れているラッパー風の男へと移った。  ついに目の前までやって来た巨漢が、岩のような拳を振り下ろす。その瞬間にスピノーネは床を転がって避け、ラッパー風の男の首から金のチェーンを奪い取った。身体を起こすと、手首を鋭く振ってチェーンを握り込み、近くのソファへ足をかける。そして隣のサイドテーブルへ駆け上がり、壁際まで接近すると飛び上がった。壁を蹴って、空中で身体をひねる。  ニコラは顔を上げ、目を見開いた。  スピノーネの身体は巨漢の頭上へと浮かび上がっていた。シャンデリアの逆光を浴びながら、彼は黄金に輝く拳を巨漢のこめかみへ打ち込む。バターの固まりを床に落としたような重たい音が響いた。スピノーネは足から静かに床に着地し、その背後で巨漢がどすんと倒れ伏して動かなくなる。 「はっ! いいぞ! 次は俺だ!」  バルカは弾切れになった銃を捨て、ソファの陰に隠れた巨漢に向かって走り出した。その背をスピノーネも追う。まるでチームで狩りを行なうライオンだ。  銃声と、肉がぶつかる音、骨が折れる音、悲鳴――ニコラはドメニコを抱えてバーカウンターに寄りかかった。血に塗れた父の脇腹を一緒に抑えながら、彼の息遣いを身体に感じ取る。信じ難いことだが、ニコラはリラックスしていた。父もだ。呼吸は穏やかだ。そんな経験はなかったが、まるで二人で映画を観ているような気分になった。 「俺達は守られている。銃弾も拳もナイフも、ここへは絶対に届かない」 「あぁ、わかっているとも」  父の呼吸音に耳を傾けていたニコラは、ふと別の呻き声を耳にして辺りを見渡した。すると部屋の隅の床を四つん這いで移動しているギデオンを見つけた。彼は目の前で繰り広げられる戦場から逃げ出そうとしているらしく、吹き飛んだ右手を庇いながら奥へと向かっている。  ニコラは彼を見ていた。ふと、指を失くした手の甲にとまる蛾のタトゥーが目に入る。  その瞬間、心臓が鋭い氷片で貫かれたように感じた。呼吸が浅くなり、肌が粟立ち、全身の毛が逆立つ。皮膚下に巡っている全ての神経が、乾いた風に吹かれた枯れ葉が渦を作るようにざわざわと疼き始めて止まらなくなる。どうしても、あのタトゥーから目を離せない。  そうだ。そうだ。  なぜ気がつかなかったんだ。  吊られていた時はわからなかった。  だが、今ならわかる。 「ニコラ?」  戸惑うドメニコの声が、ずいぶん遠くから聞こえてくる。ニコラは立ち上がっていた。そばに落ちていた銃を拾い上げ、実弾入りのずっしりとした重みを確認する。まだ硝煙の匂いもしていた。少し前までは触れることすら恐れていたこれに、今は見入っていた。この手にしっくり収まっているように感じる。  床を這っていたギデオンが立ち上がり、バルコニーへと続く扉を開けて出て行った。 「よせ! 戻るんだ!」  父の声を無視し、ニコラはバルコニーへと駆け出した。扉を勢いよく開けて辺りを見回す。部屋から零れた光の中にも、前方に伸びた自分の影の中にも、ギデオンの姿はない。バルコニーは広く、ニコラの動きを感知したセンサーが赤い光を灯すが、その両端はまだ闇へ浸っている。ニコラは雨の下へ踏み出し、バルコニーの手すりへ触れた。冷たいステンレスの手すりを雨が打つ細かい振動を掌に感じる。  ふと、西側から大きな揺れがやって来た。  ニコラはそちらを向き、銃を片手に歩き出した。進む度に、等間隔に設置されているセンサーが反応して、目の前の闇が赤い光へと変わる。光の中、雨が針のように降り注いでいる。  その冷たさが、気にならなかった。  頭の中で炎が揺らいでいる。その炎の周りで、あの蛾がやかましく羽ばたいていた。  バルコニーの最西。ギデオンが手すりを背にして立っていた。整えられたブロンドは今や濡れて乱れ果て、顔の前にばらばらと垂れている。その隙間から覗く目が、ニコラの姿を捉えた。 「ニコラか! はっ、いいものを持ってるな。だが、お前は撃てないだろ!」 「試すか?」  ニコラは立ち止まって濡れた髪を片手で掻き上げると、銃でギデオンの右手を指し示した。雨が血を洗い流し、タトゥーの絵柄がはっきりと見えている。 「思い出したんだ。思い出したくなかったことを」  ギデオンが目を大きく見開く。その目はまさに、蛾の羽の模様のようだった。蛾は光に向かって飛んでくる。それはニコラの怒りの炎へと飛び込んできた。炎は、羽をひと撫でするとあっと言う間に燃え広がる。炎に焼かれたものは灰となり、最後には骨だけが残る。ギデオンの右手の甲に掘られた蛾のタトゥー――その胴体には骸骨が描かれていた――あの襲撃の夜、母を殺した男の腕に描かれていたものと全く同じ骸骨が。 「お前が母さんを殺したんだ」  そう言うと、ギデオンは床へずるずると座り込んだ。ニコラは彼を見下ろす。そして自分でも違和感を覚えるほど至極落ち着いた声音で尋ねた。 「どうして今まで言い出さなかった? ドメニコの妻殺しなんて相当なハクが付くだろう。自然とその道のプロがお前の下につくはずだ。賢く立ち回っていれば、ギャングの端くれやチンピラ、刑務所上がりの男達なんて雇わずに済んだだろう」 「あ、あ、あの女のせいだ!」ギデオンは裏返った声で叫ぶ。「あの夜は、私にとって初めての仕事だった! 当時のリーダーについて来ただけだ! なのに、あの女、私に何を言ったと思う!」  それからギデオンは、梁の下敷きとなったセラの最後の言葉をニコラに告げた。ただ、彼の声はあまりにも耳障りだっただめ、ニコラは彼の言葉を母の声に変換しながら頭へ流し込む。セラは銃を突きつけられても、じっとギデオンを見据えていたそうだ。 「殺しなさい。元より先は長くないもの。死んだ後も退屈しないでしょうね。ニューヨークの闇を支配する男の妻を殺したあなたのために、あの人が何をしてくれるのか地獄から眺めていられるから。すごく楽しみにしてるのよ。いつかあなたが悲鳴を上げて私の元へ堕ちてきたら拍手して迎え入れてあげる。ただし――」  セラはそこで一度言葉を切り、死の影を宿した目で睨みつけてきたという。 「もし私の息子に手を出したら、その時はこの手でお前を地獄へ引きずり込んでやる。私は地獄からこの子を見守ってる――さぁ、撃ちな! 坊や!」  そこでニコラははっと目を見開く。セラの声はいつしか、ギデオンの震えた声に戻っていた。 「あの女が撃たせたんだ! 彼女が何も言わなければ、私は何もせずにそのまま退散するつもりだったのに――」 「お前は恐れたんだ」  ニコラが言うと、ギデオンは喉を絞められたように言葉を途切れさせた。 「セラも、ドメニコも、二人の血を引く俺もお前は恐れた。臆病者らしく、そのまま手を出さなければよかったものを……だが、寄せ集めの輩を雇い、見よう見まねで不格好な矛と盾を作り上げて、自分は守られていると錯覚した。お前はその慢心から、進むべき方向を誤った蛾なんだよ」  ニコラは銃のスライドを引き、銃身に当てていた人差し指をトリガーへと移動させる。銃口をギデオンの眉間へ向けた瞬間、バルコニーの赤い照明がふっと消えた。闇の中、自分の心音が聞こえなくなる。雨音も、ギデオンの荒い気遣いも聞こえない。自分は怪物に変わろうとしている。それでも構わない。この瞬間のために、生きてきたに違いない。  トリガーに掛けた指に力を込めた。  すると、バルコニーに光が戻った。  銃を構える手に、別の手が重なっていた。 「……離せ、スピノーネ」  ニコラは振り返ることなく命令する。  後ろから抱きついてきたスピノーネは、片手でニコラの手を覆って動きを封じるだけでなく、トリガーの隙間に指をねじ込んで引かせないようにしていた。もう一方の手は銃を持っていない方の腕を掴んでニコラの背中に押しつけている。そのせいで彼を振り払うことができない。 「離せと言ってるんだ。邪魔をするな」 「駄目です。これ以上、奴にあなたのものを奪わせてはいけない」 「俺にはもう何も残ってない。だから今、奪うのは俺だ。あいつを殺してやる」 「それは違う。あなたにはまだ、大切なものが残っています」 「お前に何がわかる!」  ねじ込まれた指を押し潰す気で指に力を込めるも、まだトリガーは引けない。 「ニコラ」  呼び声が空気を震わせ,思考を失った脳に響いた。 「あなたは私に多くのことを教えてくれた。殺し方や戦い方でも、人間らしく見せかけるための所作でもない――平穏を生きる心地よさです。それにずっと焦がれていたことを思い出させてくれた。そしてその脆さも知った……だがあなたは平穏を願うことをやめなかった。絶対に失くしてはならないものは、まだあなたの中にあるんです。それを、あんなくそ野郎のために手放すことは俺が許さない!」  スピノーネの叫びの残響に、ニコラは自分の心音を聞いた。荒い呼吸、身体の震え、肌を打つ雨の冷たさ、背中や手に感じるスピノーネの体温を思い出していく。 「あぁ、スピノーネ……俺は……」 「いいんです。もう大丈夫です」  全身ががくがくと震えて立っていられなくなる。銃を取り落としたのと同時に、ぐるりと後ろを向かされて抱き締められる。一月の冷気を掻き消す炎のような彼の体温が、凍りついていた心を溶かしていく。おずおずと腕を回すとさらに強く抱き締められ、途端に涙が溢れ出した。 「ありがとう、ありがとう……すまなかった……俺はもう少しで、俺は……」 「いいんですよ。大丈夫です……よく頑張りましたね。偉いです」 「……あ、お前、指は――」 「なんてことないです。あなたになら潰されてもいい」  短くなった髪をスピノーネが撫でてきた。涙の発作が治まりつつあった時、ニコラはスピノーネの肩越しに、こちらに近づいてくる二人の影に気づいた。 「じゃあ三十でどうです? なかなかいい働きをしたと思いませんか?」 「はぁ、あのくそガキの気持ちがようやくわかった」  バルカとドメニコだった。バルカはコートのファーを血に染め、泥遊びを堪能してきた子どもみたく笑いながら、片手に持った銃をぶらぶらと揺らしている。彼に支えられながら歩くドメニコも片手に銃を持っている。バルカほどではないが、彼のしかめ面も血で汚れていた。 「うちの息子と護衛を襲っておきながら、よくもそんな額を口にできるな」 「痛いところを突いてきますね。では二十でどうですか?」 「十だ」 「ルールは守りましたよ、最低限は。十五でどうです?」 「いい加減にしねぇと、釣りなしで、その腹に鉛玉を支払うぞ。十だ」 「よし、それで手打ちとしましょう。ところで、もう殺していいですか?」 「構わん。お前との契約はこれっきりだ」  二人はニコラとスピノーネの横をすっと通り過ぎると、ギデオンの前に立ちはだかる。それぞれが手慣れた様子で銃のスライドを引いて構える。 「立て」  ドン・スティヴァレッティが命令する。  ギデオンは背後の手すりを伝ってふらふらと立ち上がった。何か言おうと口を開きかけたが、白い息が吐き出されるよりも早く、二発の銃弾が彼の胸を貫いた。実弾だと音でわかった。彼の身体は大きく仰け反り、手すりを越えて階下へと落ちていった。階下で鈍い音が聞こえると同時に、強い風がびゅうと吹きつける。雨が止み始めていた。  戦いが終わったのだ。全て終わった。 「さて、すでに知り合いの清掃業者と、病院には連絡をしてある」  銃を懐にしまいながらドメニコが振り返った。「彼らはあと十分で到着するが、警察もじきにやって来るだろう。上手い言い訳を考えておかなければならない。まったく、この男が派手に暴れたせいだ。上品さの欠片もない。部屋を見てみろ。せっかく直させたのに。まるで爆撃に遭ったようだぞ」 「あんたも歳のわりには、しっかりやってたじゃないか」  へらへら笑うバルカを睨んだドメニコは、次いでスピノーネへと視線を移した。 「さぁ、スピノーネ。さっきの続きだが」 「はい」  スピノーネが表情を少し強張らせると、ドメニコはふっと笑みを浮かべた。 「現時刻をもって、『不殺の契約』を永久継続とする。だが、今後私からお前に仕事を頼むことはない。この世界の外に出たとしても、お前は生きていけるからな」 「つまり――」ニコラは二人の顔を交互に見た。「彼はもう誰かの盾になって銃弾を受けなくてもいいってことか?」  ドメニコは頷くと、差し指を一本立てて見せる。 「私の『不殺の契約』は、単に人を殺すなというものじゃない。自分を殺すな、死ぬなという契約でもある。スピノーネ。お前は生きて、息子の命と心を守り抜いた。私にはできなかったことをやり遂げたんだ」 「……恩に着ます」  スピノーネは控えめな声音でそう言ったが、彼に抱かれているニコラは鼓動の高鳴りを感じていた。とうとう首輪が外されたのだ。彼を縛りつつ、生かしていた首輪が。 「なら、さっさとずらかるぞ。スピノーネ」とバルカ。 「どうしてだ?」ニコラは声を上げた。 「お前には悪いが、俺達みたいな人間は雇い主から解放されたからと言って、はいさよならよって世界に生きてないんだ。ダイナーのバイトとはわけが違う。ちょっとした手続きがいるんだよ――つまり、けじめだ」  どうにか言い返したかった。ニコラは助けを求めてスピノーネを見たが、彼は黙っていた。ニコラも黙り込んでしまう。彼がニコラの手の届かない世界に生きていることは知っている。だが引き下がるにはあまりにも―― 「少し、時間をくれませんか」  スピノーネが沈黙を破った。肩を強く抱き寄せられてニコラは驚いて彼を見る。その目は真っ直ぐにバルカを見つめていた。バルカも黙って彼を見つめ返す。その瞳に映る何かを見定めるように。やがてバルカは口の端を上げ、役者じみた仕草で頭を下げると身を引いた。 「どうも」  スピノーネは礼を言うと、ニコラに視線を移した。 「歩きましょう」  ニコラは肩を抱かれ、二人で寄り添ってバルコニーの東側へと歩いて行った。背後でドメニコとバルカが何やら話しているが、今は気にしないことにする。雨に濡れた手すりを掴み、闇が洗い流されたように輝く星空を見上げる。寒かったが、そのぶん、スピノーネに触れられている場所の温かさが際だった。 「身体は痛むか?」 「いえ、別に」 「嘘つくな。死にかけって顔してるぞ」 「まぁ、実際、死にかけましたし」  肩をすくめるスピノーネを見てニコラは笑い出した。スピノーネも押し殺した声で笑う。そんな彼を見てニコラはまた笑い、やがて前屈みになって手すりにもたれる。背中を丸めて震えていた。滲み出る涙を押し戻そうと、手で目元を覆い、震える唇をぎゅっと噛み締める。 「泣かないでください」 「泣いてない」ニコラは顔を上げるついでに掌で涙を拭う。「お前こそ泣いてるだろ」 「泣いてないです。雨のせいです」 「もう止んでる」 「えぇ……ただ、すごく胸が痛い」 「撃たれたからだよ」 「はは、そうですね」 「……俺も痛いよ」  独り言のように言い、闇ばかりを見つめる。スピノーネの方を見ることができない。 「心配しないでください。きっとまた会いに来ます」 「きっとじゃ駄目だ!」ニコラは反射的にスピノーネの方を向いて睨んだ。目の端から涙がつうと流れて落ちていく。「それに、会いに来るんじゃない。お前は帰ってくるんだ。必ず」 「そうですね……」  スピノーネは静かに頭を擦り寄せてきた。 「必ず、あなたの元へ。どこへいようとも……信じて。探さないでください」  泣き出してしまいそうでニコラは返事ができない。だが頷き、額を突き合わせて目を閉じる。  彼の吐息がふっと唇にかかった。  そして冷たくなった唇同士でキスをする。  口を少し開け、彼の吐息の熱さと唾液の味を舌に覚え込ませる。  血の味がする、長い、長いキスだった。  やがて唇が離れる。吐き出した息が情けないほど震えた。  嫌だ嫌だと思いつつ目を開けると、やはり、そこにスピノーネの姿はなかった。  バルコニーの照明が消える。

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