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第8話

 スピノーネとバルカが夜の闇に姿を消して間もなく、屋敷正面の庭へ黒いバンと、赤と青の光を忙しなく放つ救急車が滑り込んで来た。バルコニーからその二台を見下ろしていると、それぞれの車両からぞろぞろと人が出てくるのが見えた。 「下へ行こう」とドメニコが言った。  ニコラは彼を支えながら一階のエントランスへ降りた。するとホールには黒いツナギを着た清掃業者と、制服を着た救急隊員が合わせて二十人ほどが集まっていた。集団の前にはリーダーと思しき男達――清掃業者を従えるのは帽子を目深に被ったツナギ姿の男、救急隊員を従えるのは淡いブルーのポロシャツを着た小太りの男――が一人ずつ並んで立っている。ニコラが呆然と彼らを見ていると、ふいにドメニコが支えを手離して一人で歩き出した。彼は集団の前に立つ二人に握手し、肩を軽く叩いて挨拶をする。そしてはっきりとした口調で指示を出し始めた。清掃業者には死体の数と清掃を必要とする部屋の数を、そして救急隊員には生き残った者への対応を依頼すると共にこう言った。 「息子を頼む」  そこからあっという間だった。救急隊員が三人ほどこちらを見たかと思うと、次の瞬間には彼らに身体を支えられ、後ろを振り返る時間すら与えられず、救急車へと乗せられていた。ストレッチャーに横たわった時、強烈な不安に襲われてはっと頭をもたげる。足元で閉まりかけている扉の隙間から、赤と青の光を浴びる父の背中が見えた。ニコラは上半身を起こそうとしたが、救急隊員に押さえつけられる。途端に胸の中で焦りが膨れ上がり、必死に暴れて抵抗した。父を先に病院へ連れて行ってくれ、彼は肺がんを患っているんだと訴えようとした。しかしすぐさま意識を失ってしまう。鎮静剤を打たれたのか、自ら失神したのかはわからない。  次に目が覚めた時には病院のベッドにいた。右腕の銃創、鼻の骨折、どれもガーゼと包帯に覆われて処置されている。撃たれた腕のリハビリのため、しばらく入院することとなった。そこは市内の病院で、マフィア御用達の闇病院ではない。銃撃や抗争とは無縁の人々が、病気や怪我という予期せぬ非日常に偶然迷い込んでしまい、そこから抜け出そうと懸命に生きている。入院中、案の定ドメニコは姿を現さなかった。代わりに、事情聴取のために警官が二人やって来た。今回のスティヴァレッティ・ファミリーとファレーナ・ダストの抗争はかなり規模の大きなものだったらしく、市警がことの収集に当たっているとのこと。ドメニコは逮捕を免れることはできなかったが、ファレーナ・ダストの残党逮捕への全面的な協力、さらには彼らが流通させたドラッグの中毒者の保護や治療などにも尽力することで刑務所行きを免れた。  ニコラは驚かなかった。それよりもほっとしていた。父は生きているのだ。  病室のベッドで、枕に背中を預けて座るニコラは警官達にこう伝える。 「スティヴァレッティ・ファミリーとファレーナ・ダストの抗争に、俺は関与していない。巻き込まれただけだ。父ともずいぶん昔に縁を切っている」 「あなたは誰かと一緒だったと、ダイナーの店員は言っていましたが」 「俺は一人で逃げ出したんだ。誰かがいたとしても……逃げるのに必死でずっと気づけなかったのかもしれないな」  父が一度も病院へ来なかったのはこのためだろうとニコラは気づいていた。さらに、母を失った十歳以降は父ではなく乳母に育てられたこと、ニューハンプシャーでの長い独り暮らしや、ダイナーでの勤務履歴のおかげで、事件への自発的な関与の可能性は低いと判断された。命を狙われるという極度のストレスに晒された結果、軽度の記憶障害を起こしているという医者の見解――この医者は、白衣の下に淡いブルーのポロシャツを着ていた――も重なり、ニコラは同情すべき不運な被害者となった。  警官達が去った後も、ニコラは父に連絡はしなかった。だが、リスクを承知で一度だけ実家に連絡したことがある――スティヴァレッティ家御用達の床屋を呼んでくれと。このざんばら髪を何とかしてもらいたかった。  季節は少しずつ温度を上げていく。  右腕のリハビリはきつかった。痛みに耐える時は、口内で罵り言葉を噛み殺さなければならなかった。だが次第に痛みは意識の支配下につき、少しずつコントロールできるようになった。無茶をしなければ苦しめないという約束の元、痛みはわずかな疼きとなり、ニコラの右腕に落ち着くことにしたようだ。腕を反らして、少し伸びた髪をうなじ辺りで結べるようにもなった。  冬の寒さを思い出せなくなる五月のある日。退院まであと数日となったニコラは、病院内を歩いて待合室にある壁掛けテレビの前で立ち止まった。アナウンサー曰く、これから一週間は穏やかな天気が続くらしい。何となく眺めていたその時、突然、画面に「速報」という大きなテロップが飛び込んできた。 『ニューヨークのマフィアボス。ドメニコ・スティヴァレッティが肺がんで死去』  全てはニコラの退院翌日に行えるよう、レミージョが手配していた。  葬儀はまるで豪勢なパレードのようで、教会から墓地へ向かう道路は多くの車や人々で埋め尽くされた。花を積んだ車、葬送者の車、百人近く配置された警察官、地域住民や、ホームレスの姿もあった。ニコラは初めて知った。ドメニコが表向きの仕事として、市内でホテル経営を行なっていたことを。失業者やホームレスを積極的に雇用し、炊き出しを行なっていたことも。ドメニコはこの街を愛していた。ギデオンはその愛につけ込んでドラッグを蔓延させたのだ。あの男の死体がどうなったのか、ニコラは知らされていない。知りたいとも思わないが。 ニューヨークを陰から支えた男はクイーンズのセント・ジョンズ・セメタリーへとその身を横たえた。隣には、妻セラフィーナの墓が寄り添うように並んでいる。  葬儀の後、スティヴァレッティ邸では食事会が行なわれた。喪服の黒いスーツを着たニコラは、会場である一階のフロアでただ立ち尽くしていた。 「君のお父様は立派だったよ」 「私は彼に助けられたわ。本当に感謝してもしきれなくらい」 「彼のおかげで今の私があるんだ」  初対面の老若男女に挨拶され、顔を覗き込まれ、肩を叩かれる。ニコラは何も答えられなかった。ドメニコの思い出を語る彼らが羨ましくて堪らない。息子である自分には、父を語れるほどの思い出がなかった。これが以前の自分が抱いていた望みの果てなのかと考えると、どんどん気持ちが沈んでいく。  午後七時を過ぎた頃、ついにニコラは二階の寝室に逃げ込んだ。喪服を脱ぐのも億劫で、薄暗い部屋でベッドに腰掛ける。このまま眠ってしまおうと思ったその時、遠慮のない力で扉をノックされた。男性の咎めるような声も小さく聞こえてきた。しかし声に構うことなく、ノックはまたもや遠慮なく続く。しばらく躊躇った後、ニコラはふらふらとベッドから立ち上がって扉を開けた。そこには黒いワンピースを着た五十代くらいの女性が立っていた。きりっとした顔立ちには威厳があり、年齢を感じさせないボリュームのあるスタイルをしている。彼女は太く逞しい腕に小さなバックを提げていた。その傍らには困り顔のレミージョ。 「困ります。マダム・ブルネッラ。ニコラ様はもうお休みに――」 「あなたがニコラね。私はブルネッラ」  マダム・ブルネッラはレミージョの言葉を無視し、手を差し出してきた。ニコラが慌てて握手をすると、強い力で握り返される。 「セラが働いていた娼館の元支配人よ。今はホテルの経営と、ドメニコの資産管理を担当してる。こっちでもいろいろあったのは知ってるわね?」 「はい、マダム」  ニコラは頷いた後、レミージョに目で「大丈夫だ」と伝えて下がらせた。そしてブルネッラへ視線を戻す。あの日、ギデオンの部下達から襲撃を受けたのは屋敷だけでない。ドメニコがオーナーだったホテルもかなりの損傷を受けたと聞いている。その話だろう。 「ホテルの修繕費なら、父の遺産から必要なだけ使ってもらって構いません。俺のための金だとしても使い道がない……」 「そういう話をしに来たんじゃない。あんたに渡すものがあるの」  彼女はそう言って、持っていたバッグから何かを取り出すと、ニコラに突きつけた。  古いモノクロ写真だった。二つ折りにされていたそれを慎重に受け取ったニコラは、両端を持ってゆっくりと広げる。今にも破けてしまいそうだ――ニコラは目を見開いた。そこに映っていたのは一組の男女。男はきりっとした眉毛とがっしりとした大きな顎を持ち、顔立ちがかなり強面であることがわかる。だがその厳めしさはなりを潜め、写真の中では顔をくしゃっと崩して笑っている。その隣の女は風に吹かれるまま流している豊かな白髪の中で、無垢な笑みを見せている。 「……父さんと、母さん?」 「えぇ。あんたが生まれる前の二人よ」  父と母の笑顔の隙間に見えるのは険しい崖と、その上に積み重なるように軒を連ねる家々、入り江、ビニールシートをかぶったボート――どこか外国の港だろう。しばらく考え込んだ後、ニコラは呟いた。 「イタリアだ」 「そうね。場所は?」  ニコラはまた少し考えた。 「……チンクエ・テッレ」 「それは五つの村の総称ね。写真に映ってるのはどこの村?」  写真を見つめていたニコラは、弧を描くような、特徴的な形の入り江に気づく。 「マナローラだ」  イタリア北西部――ブーツで言えば脛の辺り――にあるリグーリア海岸沿いには五つの村がある。モンテロッソ・アル・マーレ、ヴェルナッツァ、コルニリア、マナローラ、リオマッジョーレ。どこも観光地として有名だが、マナローラは特に人気の村だ。 「写真の裏をご覧なさい」  ニコラは写真を裏返した。  シルヴァーナ・パレンバーグ。 「母の字だ」だが、ニコラは眉間に皴を寄せる。「でも知らない名前だ」 「その村に、セラの妹が住んでるわ」 「母に妹が?」  ニコラは驚いてブルネッラを見る。彼女は鋭い眼差しをわずかに伏せた。その瞼にはアイシャドウのように憐憫の色が乗っている。 「あんたはイタリア系アメリカ人のマフィアと、高級娼婦について知りたいわけじゃない。葬式が始まってからずっとそう顔に書いてあったわ。で、どうするの?」  ニコラは即座に返答した。  その後、ニコラは一度、ニューハンプシャーのアパートへと戻った。家賃は銀行から引き落とされ続けていたため、数か月間、人の出入りがなくても部屋はまだニコラのものだった。中は散らかっていたものの、たいした損壊はなさそうだ。あの日、ターゲットがここにいないとわかったギデオンの部下達は早々に引き上げて、ダイナーへ向かったのだろう。掃除しながら、少ない私物をバックパックへ詰め込んでいく。片付くと外に出てトラックを借り、不要なものを積んで、近くのリサイクルショップで売り払う。売り上げは部屋の修繕と退去費用に充てることにした。  あらかたの始末を終えた頃、時刻は午後四時に差しかかっていた。五月の暖かい日差しの元で動き回っていたニコラは汗をかき、着ていた青いシャツの袖を肘まで捲り上げ、髪をうなじ辺りでくくった。それから再びトラックを走らせ、ダイナー「パピルス」へと向かった。懐かしい道を辿って店に到着すると、あの日、車が突っ込んできて大破した正面入り口には、新しいガラスと扉が設置されていた。ニコラは駐車場にトラックを停め、西から差すオレンジ色の閃光を浴びながら店へと入った。扉を開けると頭上でちりんと鈴が鳴り、涼しい空気がすっと肌を冷やす。控えめなボリュームで音楽が流れる店内に客はほとんどおらず、艶のある黒髪の老婦人が一人、松葉杖をカウンターに立てかけ、スツールの上で背中を丸めてコーヒーを啜っているだけだった。  ニコラは静かに彼女の方へ近づくと、その肩をぽんと叩く。 「ご機嫌いかがですか、ミセス・キーン?」 「え? あらま!」  ミセス・キーンは振り返り、目玉がこぼれ落ちるのではと心配になるくらい目を見開いた。彼女は震える手でコーヒーカップをカウンターに置くと、両手をニコラの方へ伸ばしてきた。 「ニコラ? 本当にあなたなのね?」 「はい、お久し振りです」ニコラは彼女の両腕の中に身体を滑り込ませる。 「あぁ、私の可愛い坊や。すごく心配してたのよ」 「すみません。ご心配をおかけして」  彼女の細い腕に抱き締められていると、ふと、厨房に続く扉が開く音が聞こえた。視線を向けると、そこにはエプロン姿のサラが立っている。彼女は目を開いて、呼吸が止まったかのようにその場に立ち尽くしていた。 「やぁ、サラ」 「うそ!」とうとう叫んだ彼女は両手で口元を覆い、たちまち目に涙を溜めた。  ニコラが片手を伸ばすと、サラは走ってきて抱擁に応えてくれた。 「心配かけてすまなかった」 「もう二度と会えないと思ってました……」 「ごめんな……」  しばらくそうして三人で抱き合った後、ニコラはゆっくりと腕を解いた。 「あの日、俺と一緒に出て行った男を覚えているかい?」 「はい、あの護衛の人ですよね」とサラ。 「彼のおかげで俺は生きているんだ。彼に命を救われた」 「じゃあ、あなたはやっぱり――」ミセス・キーンは口に手を添える。 「えぇ、俺はマフィアの息子です。それをずっと隠して生きてきましたが、とうとうあの朝、皆を事件に巻き込んでしまった……あんなこと起こるべきではなかった」 「あなたは悪くないわ。私を助けてくれたんでしょ」  ミセス・キーンが言うと、サラもそれに続いた。 「私も、気を失っていた間に、安全な場所まで避難させてもらいました」そして彼女は少し真剣な表情になって続けた。「それとお悔やみを。ニュースを見ました」 「あぁ、ありがとう。葬式はまるでパレードみたいだったよ」 「えぇ、それも見ました」サラは目の端に涙を溜めて笑った。 「ところで、ニコラ。またここで働いてくれるのかい?」  ミセス・キーンの問いに、ニコラは小さく微笑んで首を横に振った。 「いいえ。残念ですが、ここへは辞めることを伝えに来たんです。サラ、ハロルドさんは?」 「あぁ、ランチのピークを乗り越えて、今は事務室でぐったり休んでます。ニコラさんがいなくなったことがかなりショックだったみたいで、あれ以来ちゃんと現場で働くようになったんです。動きは新人バイト並みですが、皆で頑張って育ててます!」 「ははは、いなくなった甲斐があったな」  ニコラが笑うと、サラとミセス・キーンは微笑みに寂しさを混ぜた。 「ニコラさん、ここをやめた後はどうするんですか?」 「少し、アメリカを離れるよ」 「そう。寂しくなるわね。今度はどこへ行くのかしら?」  行き先を告げると、二人は驚き、そして納得したようにまた微笑んでくれた。その後、ハロルドにも挨拶をしに行くと、彼は素っ頓狂な声を上げて尻餅をついた。ニコラは彼を宥めた後、四人でホールに集い、談笑しながら軽く食事をとった。その後、別れを惜しむ三人に挨拶し、程良く満たされた腹を抱えて店を出た。  辺りはすっかり暗くなっていた。昼間の暖かさとは打って変わって、空気は肌寒く感じるほど冷えている。ニコラは捲り上げていたシャツの袖を元に戻す。駐車場に停めていたトラックに乗り込んで道路に出る直前、一度、ダイナー「パピルス」を振り返った。  ひんやりした闇の中、そこは煌々と輝いている。  名を偽ってまで平穏を求め、縋り、辿り着いた場所。  憧れていた平穏は、この町に存在している。それは紛れもない事実だ。  ニコラはゆっくりとアクセルを踏み込み、ダイナーから去った。

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