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第9話

 五月の中旬、雨の気配がする午前九時。  ニコラ・スティヴァレッティは、バックパックを一つと、本物のパスポートを持ってアメリカを発った。ニューヨークのジョン・F・ケネディ国際空港から、カナダのモントリオール・ピエール・エリオット・トルドー国際空港へ――久し振りだな、モントリオール――そしてドイツのフランクフルト国際空港で乗り換え、ようやくイタリアのピサ空港へと降り立つ。約二十五時間のフライトで、到着した時は午後六時近かった。  ガリレオ・ガリレイ空港の愛称でも呼ばれるこの空港は、平屋建てのこぢんまりとした建物で、内部には様々な施設がぎゅっと凝縮されていた。手続きを済ませたニコラはバックパックを背負って、グレーの大理石の床を歩いていく。静かなラウンジ、カフェやショップなどが目につく。地下にはバーもあるらしいが、今夜は遠慮しておこう。もうくたくたなのだ。アメリカとの時差は約八時間だ。  ゲートから外に出ると、右手にバスや列車のチケット販売センター、左手に少し歩いたところには駅あった。オレンジ色の看板が立っているタクシー乗り場に、白いプリウスが停まっているのが見えた。扉には市章とライセンス番号、会社名が記載されたステッカーが貼ってある。料金をぼったくりする非正規のドライバーでないことを確認して乗り込み、運転手に最寄りのホテルまで行くよう頼んだ。顔立ちはイタリア系であるニコラだが、実家を出てニューハンプシャー州に住むようになってから久しくイタリア語を使っていない。見た目とは不釣り合いな、拙いイタリア語でなんとか行き先を伝えた。  運転手は五十代くらいの痩せた女性で、ピンクのTシャツを着ていた。タクシーが走り出し、薄暗くなった町を横切って行く中で、ふと彼女が口を開いた。 「お客さん、アメリカに住んでたでしょう? 発音でわかるわ。帰郷かしら?」 「いえ、叔母に会いに来たんです」  ニコラはそこで留めておこうと思ったが、一度口にしたら同時に不安も溢れ出した。 「実は今まで一度も会ったことがなくて、そもそも自分に叔母がいたことも数日前に初めて知ったんです。マナローラに住んでいるとは聞いたんですが、連絡先も知らないし、そもそも今も生きているかすらわからなくて」 「何てこと! 一体何の用があって会いに行くのよ?」 「私の……家族について聞きたくて」  言い過ぎたかと思って言葉が尻すぼみになると、それに半比例するように女性が声を上げる。 「あぁ、あたしの家族にも行方知れずがいてね! それが駆け落ちした従妹でさ――」  それからホテルに到着するまでの三十分間、ニコラは彼女の素敵な家族史を聞かされることになった。疲れてはいたが、自分の事情についてこれ以上喋らなくてよくなったことに感謝して、熱心に話に聞き入ることにした。彼女は乗客達によくこの話をして聞かせているのだろう――ホテルの前に到着したのと同時に、駆け落ちした従妹から自分にだけに宛てた手紙が送られてきて、夫と子どもと一緒に田舎で幸せに暮らしていると知らされたというところで話は締めくくられた。ニコラは料金とチップを支払ってタクシーから降りる。 「毎度どうも――って、あらやだ。あたしったらまた自分の話ばかり。ごめんなさいね」 「いいんですよ、楽しかったですから」それは本当だ。 「ところであなたの叔母さんだけど、どうやって探すつもりなの?」 「まだわかりません。でも、とにかく、マナローラに行ってみようと思います」 「そう。あてがあるのならよかったわ。あの村の人口は三百人ちょっとのはずだから、片っ端から声をかけていけばきっと見つかるはずよ。だけど気をつけて。この時期は観光客が多いから、スリもたくさんやって来るの。ピサ中央駅から列車に乗って村へ向えば、一時間半か、二時間くらいで着くはずよ」 「わかりました。ありがとうございます」 「見つかるといいわね」運転手の女性は運転席から微笑んでくれた。 「どうもありがとう。では――」  微笑み返して別れの言葉を告げようとしたが、ふとニコラは車窓にもたれて、女性の顔を覗き込んだ。「もし、はは……もし、シルヴァーナ・パレンバーグという女性を乗せる機会があったら、あなたの甥が探していたと伝えてもらえませんか? なんてね……」 「え? 今、何て?」女性は目を大きく見開いた。「シルヴァーナって言った?」 「はい。まさか、彼女を知ってる?」 「えぇ。北部の人間で彼女の名前を知らない人はいないわ。何年か前のヴェネツィアのカーニバルで、スリの集団をたった一人で締め上げたって伝説があるの」 「何だって?」  不意打ちで殴られたようだった。呆然とするニコラに、運転手の女性はゆっくりとした口調で続ける。 「詳しくは知らないけど、彼女はマナローラでワインを作ってるって聞いたことがあるわ。探す場所は間違っていないみたいね。上手くいくように祈ってるわ。じゃ、幸運を」  そう言って彼女は去っていった。  翌朝、ホテルをチェックアウトしたニコラは、タクシーでピサ中央駅へ向かった。窓口で切符を購入し、電光掲示板で電車の発車時刻を確認する。黒い画面にオレンジ色の文字で『普通列車ラ・スペツィア中央駅行き午前九時二十分発』と見つけ、途中で緑色の打刻機に切符を差し込んでから四番ホームへと向かった。やがてやって来た青色の列車に乗り込む。走り出した列車は、オレンジ色の屋根と白い壁の家々の横を通り過ぎて川を渡り、しばらく広大な緑の田園地帯を駆け抜ける。  窓際の席に座ったニコラは、じっとその景色を眺めた。  昨夜はあまり眠れなかった。叔母のあんな伝説を聞かされた後ではどうしようもない。インターネットで調べてみたところ、実際に、数年前のヴェネツィア・カーニバルで事件は起きていた。しかしシルヴァーナは――記事には名乗らぬヒーローと書かれていた――以降のカーニバルでは目撃されていない。情報も最低限だ。五十代の女性。目立つのが嫌いなのだろうか。 その後、ニコラはラ・スペツィア中央駅で電車を降り、窓口でチンクエ・テッレ・トレイン・カードを購入した。これで村の区間内の列車が乗り放題になる。時刻表を確認すると、マナローラ駅には、その手前にあるリオマッジョーレ駅で乗り換えて十一分ほどで到着するとある。ニコラは観光客達に紛れて再び列車に乗り込んだ。リオマッジョーレ駅で乗り換えた列車が石造りのトンネルを走り抜けてしばらくすると、突然、眩い光が車窓から差し込んできた。ニコラは思わず目を閉じかける。乗客の歓声と共に再び目を開けた時、そこには太陽に照らされた海が広がっていた。その先に駅名を示す青い看板がある。  白文字で「マナローラ」と書かれていた。  駅のホームに降り立つと、赤レンガの壁の向かい側に、どこまでも続く紺碧の海があった。駅の左右は崖に挟まれており、崖の向こうから建物の角が少しだけ覗いている。太陽に温められた潮風が、妖艶な溜息のように身体を包み込んだ。ぼうっとして立ち尽くしていると、それまでホームに大勢いた観光客達がぞろぞろと移動し始めていた。ニコラは彼らを追って駅を出る。すると道の先にトンネルが現れた。観光客達はその中に吸い込まれて行く。幅は狭そうだが、天井は高く、照明が奥に向かって一直線に配置されていた。  ニコラはトンネルの前で立ち止まる。ふいに踏み出せなくなった。  叔母に会うべきか、迷いがある。会うのは正しいのか、間違っているのか。そもそも正しいか、正しくないかで決められるような問題なのか――違う、本当の問題は、俺がどうしたいかだ。期待は胸を叩き、不安は足首を掴んでいる。  ニコラは足首を少し振った後、トンネルの中へ踏み出した。  中は長く薄暗い。観光客達のざわめきと足音が反響している。その先に、光が見えた。  トンネルを抜けて視界が明るくなった瞬間、定刻を告げる鐘の音が鳴り響く。  目の前に見えたのは、坂の途中に建つピンクと黄色の四角くのっぽな建物。一階はレストランになっていて、石畳の道に面したテラス席で客達が食事を楽しんでいる。レストランの右手は山と青空へと続く上り坂となっており、坂に沿ってパステルカラーの家々が軒を連ねている。家々の間には、まるで村にやって来た旅人全員の誕生日を祝うかのように、色とりどりのガーランドが吊されていた。道に涼しい影を作るオレンジの木から、甘酸っぱい香りが漂ってくる。 「皆さん、ここが村の中心です」  ニコラの背後で、観光客を連れたガイドの女性が声を上げた。 「十一世紀頃、この場所は要塞として利用されていました。そこからだんだんと人が住むようになり、やがて鉄道が引かれて発展を遂げていきました。このカラフルな家々をご覧ください。漁業が盛んなこの村では、海に出た漁師が霧の中でも自分の家を見つけられるようにと、このように色を塗ったと言われています」  ガイドの説明に内心頷きながら、ニコラはシャツの胸ポケットから薄いプラスチック製のケースを取り出す。これ以上傷まないよう、写真はそこに入れていた。 「まずは海岸に出たいが……」  写真と同じ場所に行ってみたかった。周りと見ると観光客達は、二手に分かれて道を進み始めていた。右手の青空に向かって坂を登っていく者、そしてその反対側、左手の坂を下った先の路地へ入っていく者、路地のそばにある階段を登って広場へ行く者―― 「とりあえず広場へ行ってみるか」  写真を胸ポケットに戻し、ニコラは坂を下った先の階段を登っていった。見えてきた広場はとても賑やかだった。中心には鳥や魚を描いたアートタイルが円を描き、その周りで多くの人々が行き交っている。ベンチに座って会話する者もいれば、立ち止まって地図を広げ、次の行き先を確認している一行もいた。広場の先にある手すりまで近づいていくと、高台めいたこの広場の下に伸びる、家々に挟まれた坂道を一望できた。ニコラはそのずっと先へと目を懲らす。 「あっ」  雑貨店やレストラン、彩られた家が並ぶ下り坂、ビニールシートをかぶったボート、その間を歩く人々――その先に青いきらめきがあった。 「あそこだ」  ニコラは踵を返して広場から出ると階段を降り、隣の路地へと入った。路地は広場の外周に沿ってぐるりと回りながら下っており、降りていくと先ほど見た坂へ出ることができた。その先の道には、住人の生活がより色濃く出ている。縦長の家々に挟まれた石畳の道、車のように路肩へ停められたボート。この村の日常を横切って行くニコラの視線はずっと前を見据えていた。ついに左右の家々の連なりが途切れた瞬間、大空と大海が両腕を広げてニコラを出迎えた。 「はぁ……とうとう……」  感嘆の息が漏れる。ニコラは海の手前の広場に歩み出た。左手には日よけテントの下に席を並べたカフェ、右手にはゲストハウス――一階の食堂がサンルームのように突き出している――そして観光客達の間を通り過ぎて、海へ面した崖に設置された手すりに近づいた。再び胸ポケットからケースを取り出し、写真を引き抜いて掲げる。目の前の景色と見比べてみた。 険しい崖と、その上に積み重なるように軒を連ねる家々、入り江、ビニールシートをかぶったボート――いないのは、父と母だけ。  ふと海風が吹きつけてきて、ニコラの髪をくくっていたヘアゴムを緩ませる。解放された髪を優しく梳く風は、瞬きの度にニコラの頬を転がり落ちていく涙を乾かしていった。 「初めての家族旅行にしては、なかなかいいんじゃないか?」  ニコラは写真の中で微笑む二人に微笑みかける。そして写真の裏面――シルヴァーナ・パレンバーグの名を見つめた。 「問題はあなただ。一体どこにいるんだ……」  スリの集団をたった一人で締め上げたといわれる伝説の女性。母の気丈さといい、彼女の一家にはそういった血が流れているのかもしれない。  写真を片手にニコラは次の目的地について考え始める。タクシー運転手から聞いた話が本当ならば、警察署に彼女のデータがあるかもしれない。ワイン造りをしているのであれば、ワイナリーをあたってみるか。ここマナローラには、チンクエ・テッレで有名なワイン「シャケトラ」の博物館がある。そこに問い合わせてみてもいいかもしれない―― 「あっ!」  瞬く間だった。突風が両耳を掠めたかと思うと、ニコラの手から写真をひったくっていった。こちらをからかうように写真がひらひらと舞っている――手すりを超えた先の空中で。そのすぐ下は海だ。ニコラは咄嗟に手すりに片手をかけて身を乗り出し、限界まで手を伸ばす。間一髪のところで写真の端を指先で掴んだが、ほっとしたのもつかの間、今度は身体が手すりの外へゆっくりと倒れていく。踏みとどまることもできず、頭の中がさっと冷たくなる。 まずい、落ちる―― 「駄目よ! セラフィーナ!」  絶叫が聞こえた。次の瞬間、誰かがニコラのバックパックを掴んで後ろへ引っ張った。ニコラは背中から地面に倒れ、眩しい太陽を見上げることになった。しかし驚く間もなく、頭上から怒鳴り声が降ってくる。 「一体どういうつもりだい、セラフィーナ! ドメニコはどうしたのさ!」 「え?」  身体を起こすと、仁王立ちになってこちらを睨みつける老女と視線が合う。五十代後半くらいだろうか。カールした短いグレーヘア、日に焼けた顔には深い皺が刻まれているが、切れ長の目と両耳で揺れるゴールドのリングピアスの輝きは、押し寄せる老いを撥ねのけている。胸元が大きく開いたシャツを着ていて、袖から覗く腕や手は太く逞しい。彼女の足元には割れたワインボトルのガラス片が散らばっており、周辺の地面は赤く染まって強い香りを放っていた。  ニコラは老女の目に視線を戻す。同時に、彼女の切れ長の目が大きく見開かれていく。 「あ……セラ、じゃない……いや、あんたは……てっきり――」 「あなたは……」  ニコラは老女から目を離さぬまま、努めてゆっくりと立ち上がった。そうしなければ、彼女は今にもどこかに走り出してしまいそうだった。身体は細かく震え、目は怒っているように吊り上がったり、泣いているように吊り下がったりしながら、ニコラの身体のあちこちを巡っている。乾いた唇は何か言いかけてはやめ、また何か言いかけてはやめを繰り返す。彼女は後退りし始めていた。 「待って」ニコラは一歩踏み出す。「シルヴァーナ・パレンバーグさんですか?」 「……あんたは?」 「あなたの姉セラフィーナと、その夫ドメニコの息子、ニコラ・スティヴァレッティです。あなたの甥にあたる者です」  広場の下で、波が砕ける。  シルヴァーナ・パレンバーグは言葉を失い、立ち尽くしていた。 「これがあたしに対するサプライズなら、とんだ悪趣味野郎だね」  気付けのワイン越しに、シルヴァーナは語気を強めてそう言った。  正午に差しかかる頃、港から少し離れた居住区で営業しているバールは、コーヒーや酒を飲む客達で賑わっていた。大抵の客は飲み物をあおってはすぐに出て行くが、隅のテーブル席では地元の老父達が集まってポーカーに興じているし、立ち飲みのカウンターではかれこれ三十分、ニコラがシルヴァーナに詰め寄られていた。 「商品を一本駄目にしちまったじゃないか。ワイナリーの経営が悪化したから民宿を始めたのに、あのくそ忌々しい流行病のせいで客が来なくてうちは火の車なんだよ。何一つだって無駄にできないって言うのに」 「すみません、それは――」 「それに」シルヴァーナはニコラの声を遮り、ワインを一口あおった。「あたしがあの場にいなかったら、あんた、海へ真っ逆さまに落ちてたんだよ。なんて馬鹿なことしてんだい」 「はい、それもわかっています。感謝しています」 「しかも」また一口。「何の連絡も寄越さず、いきなり現れるなんて」 「叔母さんの連絡先を知らなくて」 「叔母さんって呼ぶんじゃない」  冷たく言い放って、またワインをあおる。  ニコラは彼女と同じものが入ったグラスを両手で持ったまま、口は付けず、じっと彼女の様子を見守っていた。彼女はもう三杯目だ。飲むペースはかなり速いのだが、不思議なことに、グラスを持つ手、上向く顔の角度、嚥下する喉の動きには揺るぎない優雅さがある。つけ入る隙がないほどに。 「で、何しに来たんだい。母親が死んで、父親も死んだから世話してほしいのかい」 「いえ、母と父についての話を聞きたいんです。あなたなら何か知っているかと」  たちまちシルヴァーナは眉間に皴を深くさせた。ワインが渋かったのかと思うほどの渋面だ。  ニコラはこの数ヶ月で何が起きたのか話して聞かせた。シルヴァーナの眉間の皺はどんどん深くなっていき、ニコラが話し終えると、怒りを含んだ平静をその顔に称えた。 「だからって、あたしにあの二人のことを聞く必要はないだろう。あんたの母は娼婦、父親は犯罪者でマフィアのドン。そして二人は死んだ。それだけ。それ以上もそれ以下もない」 「でもあなたは、それ以上のことを知ってるはずです」  シルヴァーナはニコラを見つめた後、突然、空になったグラスを高く掲げた。するとカウンターの中にいたマスターがやって来て、グラスを新たなワインで満たす。それをぐいとあおるシルヴァーナを見て、ニコラは戦いの火ぶたが切って落とされたのを感じた。しかし、彼女が仕掛けた戦いに挑んでいく勇気がまだない。干上がっていく口内で唾液を飲み込む。 「なら、教えてやるわ」  シルヴァーナは鋭い口調にワインの香りを漂わせる。「セラフィーナ――あたしの姉はね、金のためにアメリカへ行って娼婦になって、どこの馬の骨だかわからない男と勝手に結婚して、勝手に子どもを産んで、勝手に病気になった。どこまでも自分勝手な女だよ……よく知ってる。昔からそうだった。それにドメニコ――あのくそ野郎はね、あたしから姉を奪っていったくせに守り切れず死なせたのさ。それでもマフィアのドンなのかい? 二人とも大嫌いだよ!」 「ならどうして、俺を助けた時に二人の名前を?」 「それは――」  シルヴァーナが一瞬言い淀んだ時、店の隅から老翁達の歓声が上がった。 「おおっ! 誰かと思えば、シルヴァーナじゃないか! 宿の方はいいのかい?」 「客が来ねぇって言ってんだろ、くそジジイ」とシルヴァーナ。 「麗しき我らが女神よ。教えておくれ、その若造はどこの方かな?」 「ははは、シルヴァーナに勝負を挑むとは、命知らずな奴じゃな!」  彼らの歓声はざわめきとなって店内へ広がっていく。いつしか野次馬達がニコラ達を取り囲んでいた。あまりの熱狂ぶりに首をすくめていると、シルヴァーナがこちらに向き直り、「話は終わりだ」と言わんばかりににやりと笑った。  駄目だ。そうはさせない。させるものか。  ニコラは彼女の目の前でグラスを一気にあおる。果実の瑞々しい香りと酸味の後から、強烈なアルコールの痺れがやって来る。目に涙が滲んだが、それでもシルヴァーナを睨みつけた。 周囲で歓声が上がり、すぐさまニコラのグラスはワインで満たされる。 「後悔するわよ」シルヴァーナがグラスを掲げる。 「しないために、ここに来たんだ」  ニコラは彼女と同時にグラスを傾けて飲み干す。腹の底にワインが流れ落ちたのを感じると、すっかり果実の香りがするようになった熱っぽい息を吐いた。 「あなたは二人のことを知っている。娼婦や、マフィアではない本来の彼らを」 「知らないね」  シルヴァーナは涼しい顔で飲み続ける。ニコラは立ちっぱなしだった足がすでにふらつき始めていた。身体の重心を爪先に置くべきか、踵に置くべきかわからなくなる。旅の疲れと日照りの中を歩き回ったこと、それと緊張のせいだ。ついにカウンターにがくりともたれてグラスを置くと、シルヴァーナが勝ち誇ったように鼻を鳴らした。  終わらせては駄目だ。 「あなたは知っているはずだ!」  ニコラは顔を上げ、胸ポケットから写真を抜き出して突きつける。 「あなたがこれを撮ったんだ! よく知っているはずだ! 娼婦やマフィアのドンじゃなく、ただ愛し合っていた男女のことを!」  モノクロの世界で、屈託のない笑みを浮かべる一組の男女。  この世の深淵に落ちる前の男女。  後に、一人の少年の父と母となる男女。 「あなたしか知らない。あなたしか……」  力を振り絞った反動で頭がぼうっとし、視界がぐらぐらと揺れる。もう立っていられない。膝から力が抜けていき、やがて床に倒れて身体を強かに打つ衝撃の到来を待っていると、いきなり腕をぐいと引っ張られて抱き留められた。 「あたしのワインで、そんな品のない酔い方をしないで」  シルヴァーナはニコラを抱き留めたまま、マスターへ「水を」と告げる。すぐにカウンターへ、冷たい水で満たされたグラスが出された。さらに二人を取り巻いていた人々から、椅子が二脚差し出される。ニコラはシルヴァーナに支えられながらそれに座り、彼女が向かい側に腰を下ろすのを見ていた。 「飲みな」  彼女に言われ、ニコラはカウンターのグラスを手に取って慎重に飲み下した。シルヴァーナは足を組み、溜息混じりにこちらを見つめる。 「引き際ってのを覚えな。子どもじゃないんだから」 「はい……」 「まぁ、とは言え、あんたは永遠にあの二人の子どもか」  優しい声音だった。ニコラは驚く。アルコールで溶けかけていた脳に、その声は子守唄のように響いた。シルヴァーナは少し疲労が滲んだ顔で続けた。 「セラはあたしの自慢の姉さんだった。美しくて、活発で、そこら辺の男よりずっと気が強くてね。貧しい時も一緒に乗り越えてきた。大人になったセラは出稼ぎのためにアメリカへ行った。その五年後、婚約の報告をするために村へ戻ってきた。たった五年で娼館のトップへ登り詰めて、マフィアの若頭を手籠めにしてね」  そこでシルヴァーナは言葉を切り、深い溜息をついた。 「そしてドメニコ……あいつは最初、自分をマフィアの若頭だとは言わなかった。銀行員だとか何とか。両親はこの結婚で家計が救われると思ってた。あの年はブドウの不作が続いていたからね。だけど両親が二人の結婚を認めた最大の理由は、彼らがあまりにも幸せそうに見えたからだろう。あたしにも、そう見えた」  シルヴァーナはニコラの手元に視線を落とす。それに気づいたニコラは持っていた写真を差し出した。彼女はわずかに身を引く。 「それを撮った時のことは覚えてる。セラに頼まれて撮ったのさ。正直、気乗りはしなかった。セラがずっと遠い存在になっちまったみたいで――だけど妹だからわかった。姉さんがどれほど幸せなのかを。二人を見ていたら、だんだんと諦めがついてきてね。二人なら大丈夫だろうと思った。だけど――」  シルヴァーナは言葉を詰まらせる。ニコラは彼女の手を取って写真を握らせた。拒まれはしなかった。やがてシルヴァーナは深呼吸し、写真を自分の顔の近くまで持ち上げた。 「セラが死んだとドメニコから知らされた時、あたし、もうあいつには二度と関わるまいと決めたんだ。だけどそのせいで、多くのものを取り逃した気がする――どうしたらいいのかずっとわからないままだったけど、今ならわかる」  椅子から立ち上がった叔母は、甥の頭を撫でて微笑んだ。 「よく来てくれたわね、ニコラ」

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