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第10話
五月のイタリアは、夏の始まりを告げる陽気に包まれている。
地中海を臨むマナローラ。村にはロバも立ち入れないほどのきつい傾斜の畑がある。岩盤を砕いた際に出た砂を使った土壌は決して豊かとは言えないが、段々になったその場所でブドウの葉が青々と茂っている。支柱に沿って真っ直ぐ列を成し、太陽の光と潮風をたっぷり浴びる白ブドウの木々。
シルヴァーナが営む民宿の隣にはワイナリーは併設されており、その裏手にこの畑がある。彼女は両親から受け継いだ畑を縮小するつもりだと語った。人を雇っているとはいえ、寄る年波には勝てないことを年々思い知らされているという。
そこでニコラは畑の手伝いを申し出た。近年は生産者の高齢化により、収穫の際には労働力として移民を雇うことも多い。申し出を受け入れたシルヴァーナは、民宿の一室を間借りすることも許してくれた。ニコラが長期滞在できるよう、ビザの発行手続きも手伝ってくれた。
季節は瞬く間に過ぎていく。
ブドウの樹がぐんぐん成長して枝を伸ばしてくる五月。
果軸に白や薄黄色の小さな花が咲く六月。
陽光を贅沢に浴びた実が成熟して大きくなり、やがて葉の間にたわわな房が顔を覗かせるようになった七月から八月。この頃、イタリア国内は観光シーズンに入って繁忙期を迎えた。マナローラも同様で、ニコラは畑だけでなく、民宿の手伝いにも駆け回ることになった。村は国内外からやって来た観光客で溢れ、彼らの対応をこなしていくうちにニコラの舌はイタリア語に馴染んでいった。
夏の活気をたっぷり取り込んで熟したブドウが、畑にその香りで満たす九月。
午前九時、畑にはニコラだけでなく、シルヴァーナ親衛隊の紳士達、従業員、近所の住人達がいた。総出の収穫だ。年齢も性別も出身国もばらばらの彼らは皆、美味しいブドウを見極める才があるようだ。そして皆、沈黙というものを知らない。照りつける太陽の下、土と葉、ブドウの香りに包まれた畑から、汗みずくになった彼らの賑やかな喋り声が途絶えることはなかった。摘み取られた白ブドウはどれも、夏の終わりを告げる黄昏のような輝きを放っている。収穫は四時間ほど続き、ブドウはシルヴァーナのワイナリーへと運ばれる。そこで一房ずつ、一粒ずつ品質をチェックした後、風通しの良い木製のかごに入れて、陰干しするため、倉庫の棚へ並べられた。
「このブドウは三ヶ月ほど陰干ししたら、今度は二十五日間、状態を見ながら低温で発酵させる。その後、ステンレスボトルで十二ヶ月、ボトルでさらに十二ヶ月熟成させるんだよ」シルヴァーナは言った。
「そんなに時間がかかるとは」ニコラは最後のかごを棚に並べる。
「これがシャケトラ・ワインの作り方さ。ここチンクエ・テッレでしか生産も販売もされていない幻のワイン――もう作れないと思っていたけど、あんたが来てくれたおかげで、もう少し続けられそうだ」
顎の先から汗を滴らせる叔母の目は、実に生き生きと輝いていた。ニコラは微笑み、やがて二人揃って倉庫を出た。
時刻は正午に差しかかるところだった。
「あぁ、あっついな……」
目までがじりじりと痛む。やはりサングラスを常備すべきか。ニコラは目を細めながら、シャツのボタンに手をかける。
九月の日差しはまだまだ容赦ない。四時間の収穫と、倉庫内の作業を終えた身体には厳しすぎる。周りを見ると、すでに男性陣の何人かはシャツを脱いで日陰で涼んでいる。ニコラは髪をくくっていたヘアゴムを取ると、頭を振って、中に籠っていた熱を振り落とした。汗で身体に貼りついたシャツを脱ぐ。解放感に溜息をつきながら、皆がいる木陰に近づいて行った。
「どうも、お疲れ」
「おう、ニコラ、お疲れ! よく働いてくれたな。きつかっただろう」
「あぁ、まぁ……皆すごいな。これを毎年やってるなんて」
「そうだろう。でも今年は特別さ。ここ数年よりずっと出来がいいから、収穫量も多かったからな。俺達ももうくたくたさ――って、どうしたんだ、その傷?」
「え?」
突然指を差されて、ニコラはその先に目を向ける。剥き出しになった己の右腕――その上腕部に残る銃創が太陽の下に晒されていた。背後から撃たれ、弾は貫通したため、身体の正面には星形に裂けた歪な傷痕が残っている。火照っていたはずの頭の中がさっと冷たくなっていく。ニコラが日差しの中で立ち尽くしていると、男達が日陰から出て近づいてきた。彼らの内の一人が、傷のない左腕を軽く叩いてくる。
「なぁ、大丈夫だ。シルヴァーナの甥が現れたと聞いた時から、何となく察してたさ。お前が来るずっと前から、彼女、散々言ってたんだぜ。姉がアメリカで娼婦になって、マフィアのボスと結婚したんだって。だけど襲撃に遭って殺されたと」
「そんな家の子どもなら、何があっても不思議じゃない。だけど、あんたの人となりを見ると、マフィア組織で働いて銃をぶっ放すようなタイプじゃないとすぐにわかったよ」
「傷はまだ痛むか? まさかずっと痛みを我慢して働いていたのか?」
ニコラは言葉を失った。頭の中に用意していたのは、この場を誤魔化すための嘘ばかり。それらは唇の内側までやって来たところで塞き止められた。そのせいで、彼らの理解や気遣いに対する感謝の言葉が喉に詰まって出てこない。
「大丈夫だ」
やっとの思いで一言だけ絞り出すと、ニコラは男達から離れた。脱いだシャツを右肩に掛けて歩き出し、その途中、そばにいたシルヴァーナに声をかける。「ちょっと着替えてくる」
「えぇ、行っておいで」
シルヴァーナは素っ気なく言ったが、わずかな動揺が見え隠れしている。ニコラは民宿へ戻り、自分の部屋に駆け込んだ。シャツを床に投げ捨て、バスルームに入ると鏡で腕を凝視する。歪な凹凸が刻みついた肌に恐々触れた。いつしか見慣れてしまい、忙しさのせいで存在すら忘れ、沈黙していた傷痕が、今や息を吹き返して再び痛み始めている。
「スピノーネ」
男の名の形を辿る唇が震えていた。イタリアでの日常に馴染み始め、素晴らしい友人にも恵まれているとわかったのに、ニコラの心は一気に非日常に引き戻される。
彼はまだ、世界のどこかで戦っている。
マナローラで叔母に出会えたその日、ニコラはブルネッラに連絡して、しばらくイタリアに滞在することを伝えた。彼女は、もしスピノーネがアメリカに帰ってきたら連絡をすると言ってくれた。しかし、まだその連絡も来ていない。
満たされていたはずの心の奥で、冷たい風が吹き抜けていく。
待つしかない。彼を信じるしかない。
そうして五年の月日が流れた。
三十三歳を迎えたニコラのもとに、彼についての連絡は未だ来ていない。
一月上旬の夜、マナローラでは雨が降っていた。
冬期の村はどこもひっそりと静まり返っており、観光客も滅多にやって来ないため、民宿に泊まっているのはニコラ以外誰もいなかった。ブドウ畑の木々は休眠期に入っており、青々と茂っていた葉は今や茶色く乾いて寒さに耐えている。日中、ニコラはその間に剪定をし、枝に負担をかけないようにしていた。最近はブドウの収穫とワイン製造が軌道に乗り、シルヴァーナの畑は縮小どころか拡張されている。シャケトラの白ブドウだけでなく、赤ワインのための畑も開かれ、赤も白も売れていると来た。
正直、忙殺されている。それでもニコラはこの五年間、身を粉にして働いていた。しかし毎年この時期になると、仕事に向けていたはずの心が、別の場所へふらふらと飛んで行くような感覚に襲われる。
「必ず、あなたの元へ。どこへいようとも……信じて。探さないでください」
彼の言葉が頭の中で響いていた。今夜、暗い部屋のベッドに身を横たえていたニコラは、スマホの青白い光の先を見つめる。毎日流れてくるニュース記事がどこかの国で起こっている暴動や、戦争、事件についての惨状を語っても、ニコラがここに踏みとどまれていられるのは、彼の言葉のおかげだった。しかしこれらの危険の中に、彼の存在を強く感じてならない。
会いたい。
外の雨音に混じって、窓辺のラジエーターヒーターが唸る。
ニコラはスマホの電源を切って目を閉じた。目蓋の裏ではいつも、脳が縋り、留めてきた記憶のスライドショーが始まる。
「私はわからない。どうすればいい?」
グリーンとブラウンの切なげな瞳が、ニコラに答えを求めてくる。その瞳は暗くなっていく。
「今すぐ帰って来ればいいんだ、馬鹿」
ニコラは目を閉じたまま、寝返りを打ってベッドに仰向けになった。彼の大きな手が触れてくる感触が身体に蘇ってくる。首筋に髭が当たるくすぐったさ、その奥にある柔らかい唇が押しつけられる感覚、吹きかけられる熱い吐息――ニコラは後頭部を枕に押しつけ、ぐっと伸びた首筋の内側で喉が震えるのを感じた。
冷えた右手でズボンと下着をくつろげ、まだ芯のないペニスを包み込む。弱く上下に動かしながら、空いた手の指先を口に含んだ。温かい口内の唾液に濡れた指先を胸元へ滑らせ、固くなった乳首を捏ねる。寒さに固く縮んでいたそこは、摩擦の熱で一度柔らかくなり、充血して再び硬さを取り戻した。目蓋の裏では、彼の指が同じ動きをしている。
「う……ん、ん……」
どんなに強く彼の姿を思い描いても、渇いた感覚から逃れられない。ニコラは横になると、身体をくの字に曲げて両膝を胸の近くに寄せる。胸を弄っていた手を膝の間へ差し込み、さらに下肢へと伸ばしていく。太股よりも後ろ――尻の穴へと指先をあてがった。引き締まった入り口は指先が触れると、怯えたようにひくつく。ニコラは息を吐き、片手でペニスをしごきながら、もう片手の指を少しずつ中へと飲み込ませていった。指の腹で手前から奥へと擦りながら刺激を与える――この指がもっと長く太ければと、もどかしさに唸る。
「んっ、は」
密着した肌同士が汗で湿る。じれったくなって指先をぐっと曲げ、硬い場所を強く押した瞬間、じわっと溢れるように右手が精液に濡れた。強張った身体に再び血が巡り始める頃、ニコラは尻からゆっくりと指を引き抜いた。ズボンも下着も元に戻さぬまま、仰向けになって闇を見つめた。
「はぁ……くそ」
身体は何度でも渇きを訴えた。その度に、あの日の記憶に心と身体を沈める。しかし終わりに待っているのはいつも虚しさ――最悪の未来が到来するかもしれないという恐怖。
目の前に死体袋が置かれ、その中に生白い色をした彼が横たわっていたら。
五年前のあの夜のような冗談ではなく、現実になってしまったら。
胸に湧き上がってくる不安が彼との記憶を掻き消そうとする気配がして、ニコラはベッドから足を振り下ろした。ズボンと下着をのろのろと引き上げると、立ち上がってバスルームへと向かう。
最後に熱い湯でこの虚しさを洗い流すのも、今やお決まりの行動になっていた。
翌朝、雨は止んでいた。ニコラはいつものように上着を羽織って宿から出ると、ブドウ畑の様子を見に行くため中庭を横切る。庭にはまだ夜の静けさと、青色を帯びた薄闇が残っていた。湿り気を含んだ冷たい空気の中で、庭のオリーブの木は逞しく葉を広げている。しかしその下のテーブルや椅子は退屈そうで、夏と客の到来を待っている。
ニコラは立ち止まり、白い溜息越しにそれらを眺めた。
「なに感傷に浸ってるんだい」
突然の声に振り返ると、ダウンジャケットのポケットに手を入れたシルヴァーナがやって来ていた。五年という月日は彼女から美しさを奪い取ることはしなかったが、その代わりに、手足の関節の自由を少しずつ奪っている。歩き方がまた少しぎこちなくなったように見えた。
「連絡してくれれば、バイクで迎えに行ったのに」ニコラは彼女に歩み寄る。
「必要ならするさ。でも今は身体を動かしておかないと、使い物にならなくなっちまうからね」
「わかった。連絡待ってるから」
ニコラは頷いた。下手に反論すると、完膚なきまでに言い負かされることをこの五年でよく学んだ。しかし、村のきつい坂や階段のことを考えると、いつかは説得せざるを得ないだろう。時間の経過に抗える者はいない。実際、ニコラの身体にも変化が――二十代の筋肉の上に、三十代の落ちにくい脂がぽってりと乗り始めていた。
「じゃあ、こんな朝からどうしたの? 冬の間は宿の手伝いをしてもらうこともないけど」
「宿のことは心配していないさ。あんたがここを管理してくれてるおかげで、あたしはワイナリーの仕事に集中できる。今や、会社も大きくなっちまったからね」
「じゃあ、どうして?」
「もうすぐヴェネツィアでカーニバルが始まるのは知ってるだろ」
ニコラは曖昧に頷いた。
ヴェネツィア・カーニバル――世界中から観光客が押し寄せる、世界三大カーニバルの一つだ。舞台はアドリア海に面した水上都市ヴェネツィア。街の中心であるサン・マルコ寺院を会場に、中世の衣装やヴェネツィアンマスクをつけた人々が練り歩く。
「カーニバルは流行病のせいで大幅な縮小を余儀なくされて、窮屈な一年を過ごしていたが、いよいよ完全復活するらしい。そこで運営の方から、サン・マルコ広場のカフェと提携して、うちのワインを試飲できるブースを開かないかと連絡があった。さらに夜の舞踏会と晩餐会でもワインを提供してくれないかって」
「すごいじゃないか! なら、今すぐ準備に取りかからないと!」
言い終わるよりも先にニコラはスマホを取り出し、素早く画面をタップして耳に当てた。すると、何か言いたげなシルヴァーナと目が合う。
「何?」
「あたしが言うのもなんだが、ちょっと仕事のしすぎじゃないかい? 働き詰めだろう。もうここに五年もいるってのに、仕事の用以外では滅多に村から出たこともないじゃないか」
「そうしたいからしてるんだ」
「……そうかい。まぁ、好きにしな」
シルヴァーナは溜息をつくと、宿のエントランスへと消えていった。
叔母が掻き消した言葉をニコラはわかっていた。途端に胸に言い訳が溢れ出してくる。
どうしろって言うんだ。
何もせず、生死もわからない彼のことを考え続けていると、気が狂いそうになる。
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