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第11話
凍てつく一月を乗り越えたイタリアは、いよいよ祭りやイベントで目白押しの二月を迎えた。
国中が活気に満ち、浮き足立ち、忙しさに身構えている。
本土から海に向かって真っ直ぐ伸びるリベルタ橋――潟の上に四キロ近く続く橋に引かれた線路を走る電車にニコラとシルヴァーナ、従業員達が乗り込んでいた。
「霧も雨もなくてよかった」車窓から景色を眺めるシルヴァーナが言う。
午前七時だった。太陽はまだ朝の冷たさをはらんでいるが、橋を取り囲むのは、晴れ渡った空と海だ。そのずっと先の水平線に、オレンジや赤の街並みが見えている。青々とした海に映えるその色にニコラの目は釘付けになる。海に浮かぶ街だ。
電車は橋を渡りきり、サンタ・ルチア駅へと到着した。明るい駅構内はショップやカフェなどの施設も充実しており、地図やイベントチケットが購入できる窓口もある。それらを通り過ぎた一行は、駅前にある広場に出た。目の前には運河が流れており、その対岸にエメラルドグリーンの半球型の屋根を乗せた教会が建っている。
「商品は先に届けてある。ここからサン・マルコ広場へ向かうよ」とシルヴァーナ。
「広場まではどうやって行くんだ?」
「あれに乗っていくのさ」
彼女が指差した方向には船着き場があり、そこに一隻の船が停まっていた。船体はバスのように大きく幅があり、屋根もついていて、鼻先はつんと尖っている。
「ヴァポレットだ。さぁ、一番線で行くよ」
IC切符を購入して打刻機にかざし、ニコラ達はヴァポレットへと乗り込んだ。すでに観光客達がいて中は賑やかだ。船がエンジン音を立てて出発すると、ニコラは船の端へ移動して、流れゆく街並みと運河を眺めた。
逆S字を描く大運河カナル・グランデ――昨夜、ここではカーニバルのオープニングパレードが行なわれていた。運河も建物も橋もライトアップされ、運河を行く船上には派手な衣装に身を包んだパフォーマーや、火を噴く大道芸人などが乗っていた。まるでサーカスのようだ。ニコラはその様子をテレビ中継で見ていたが、今、明るい場所で目にしている風景にはまた違った印象を受ける。運河を挟む両岸の建物は、ほとんどが白っぽいレンガ造り。オレンジ色の屋根が乗っていて、アーチ窓がはまっている。その中、様々な建築様式の建物も顔を覗かせていた。大きなドーム型の屋根のビザンツ様式。ゴシック様式の尖塔、建物と水の間に立つ列柱はルネッサンス様式を思わせる。途中でくぐったリアルト橋は、その豪華で緻密な装飾からバロック様式だとわかった。
西洋のあらゆる様式が融合し、ヴェネツィアという都市を構築している。
「あれは……」
ニコラはヴァポレットから少し離れた水上へ目を向けた。装飾が施されたゴンドラが走っている。一隻ではない。何隻ものゴンドラが、続々と運河へ集まり始めていた。船の後方には長いオールを巧みに操る漕ぎ手ゴンドリエーレ――横縞の服を着ている――がおり、彼らは皆、奇妙な客人を乗せている。
中世ヨーロッパからやって来た客人だ。
風に揺れる羽根や造花、アクセサリーのついた大きな帽子。
細身のゴンドラから溢れ出そうなほど、レースや襞飾りをたっぷり使った、ボリュームのあるドレス。男の胸元で段になって広がるジャボ。袖口に大きな折り返しのある七分丈のジュストコール――金の刺繍が細かく施されているものもある。
そしてヴェネツィアンマスク。目元や顔全体を覆うもの、顎が突き出したもの、道化師の鈴飾りがついたもの、大きなくちばしつきのペスト感染を防ぐマスクを模したものなど、様々な面々が運河をゆく。彼らの軌跡に沿って、辺りの空気が変わっていく――中世ヨーロッパを生きた人間の息遣い、たたずまい、仕草、気品が、運河を進みゆくゴンドラの航跡波に乗って街中へ広がっていくようだった。
「さぁ着いたよ!」
シルヴァーナの声に、ニコラは船首の方へ身体を向けた。船着き場に到着したのだ。船を降りると、目の前には広場にも思えるほど大きな石畳の通りが広がっていた。通りは白く重々しいドゥーカレ宮殿と、マルチャーナ図書館に挟まれて北へと続いている。少し歩いて進むと左手には鐘楼がそびえていた。天をつく尖塔の屋根がエメラルドグリーンに輝いている。
それらを通り過ぎた時、目の前に白亜の空間が出現する。
鳩が飛び立つサン・マルコ広場――北を旧政庁と時計塔、西をサン・マルコ寺院、東をコッレール博物館、南を新政庁に囲まれた巨大な空間。四方を囲む建物はどれも白く、美しいアーチと回廊が取り囲んでいる。
そこでは時代が交錯する。
派手な仮装した人々がそこかしこにいた。観光客からの写真撮影に応えてポーズを取る彼らは、クラシックな衣装を現代風にアレンジした者、キャラクターのコスプレをしている者、着ぐるみを着て歩く子どもなど様々だった。子ども達は紙吹雪が詰まった小さなビニール袋を握り締め、中身を辺りに振り撒きながらきゃっきゃっと笑っている。
「中世のスタイルがドレスコードってわけじゃないんだな」ニコラは呟く。
「そうさ。大昔も、貴族の衣装を着る庶民や、庶民の衣装を着る貴族もいたって話だ――マスクをかぶっちまえば、その下にある肩書きや身分、年齢も性別も隠される。誰もこの時間を楽しんでいたのさ」
「なら、俺も楽しまなきゃだな」
「ふふ、まったく。やっと顔の強張りが取れたね」
微笑むシルヴァーナに頬を軽く摘ままれ、ニコラは笑って身をよじった。彼女の手が離れた時もまだ笑っていたが、ふと彼女の顔から笑みが消えていることに気づいてニコラは戸惑う。叔母の鋭い視線は広場の隅へ向けられていた。
「どうしかした?」
声を潜めて尋ねると、シルヴァーナは何も言わず、目だけで場所を指し示した。
訝しく思ったニコラも視線だけを向けると、広場の隅に、顔全体を覆う黒いマスクをつけた集団が見えた。五人ほどだろうか。マスクは街の露店で買った安価なものだろう。全員が黒いマスクに黒いダウンジャケットを着ている。人混みへ加わろうとせず、写真も撮ろうともせず、ただその場所に固まって周りを眺めている。団体でやって来た観光客だろうか。
「彼らがどうかした? マスクだけつけて私服で参加している人も大勢いるけど」
「いや、なんだか、ちょっとね――」
「ボンジョルノ! シニョーラ・パレンバーグ!」
シルヴァーナが言いかけた時、突然明るい声が飛び込んできた。声がした方を見ると、そこには仮装コンテストのステージが組まれていた。後ろのコッレール博物館を覆い隠してしまうほど巨大だ。ニコラ達の目的地はその手前、新政庁の建物沿いにあるカフェだった。店の正面にはテラス席が設置され、白いテントの下でオーケストラが演奏を続けている。彼らの演奏を背に男が一人、両腕を広げてこちらへ歩いてきた。
「お久しゅうございます!」
「久し振り、オルランド」シルヴァーナが応えた。
オルランドと呼ばれた男は、髪を整髪料できちんとセットし、白いスーツジャケットに黒のスラックスを身につけていた。六十歳くらいに見えたが、喜びに満ちた表情からは年齢による影を感じさせない。オルランドはシルヴァーナと抱擁すると、互いの頬の左右で唇を鳴らした。
「お元気そうでなによりです」
「あんたもね。今年は機会に恵まれたから来られたんだ。あたしに会えて嬉しいのはわかるけど、浮かれずに自分の仕事に集中しな」
「えぇ、そこは抜かりなく。でも、あなたがいれば我々も安心です。だって――」
「やめとくれ。もうあんなことができる歳じゃないんだ」
そう言ってシルヴァーナはオルランドから離れた。
「さて、うちのワインブースを見せておくれ。あんた達、仕事に取りかかるよ」
彼女は他の従業員達達を引き連れて、颯爽と店内へ入っていった。店の前には『チンクエ・テッレ幻の白ワイン。パレンバーグ・ワイナリーのシャケトラをご賞味あれ!』というポスターが大きく貼り出してある。ニコラは彼らを追って店に入ろうとしたが、ふと足を止めてオルランドを振り返った。
「ニコラだ。初めまして」
「こちらこそ初めまして、ニコラ様。オルランドと申します。とは言え、お電話ではもう何度もお話ししましたね。今回は私共の依頼を引き受けていただき、誠にありがとうございます。今夜ホテルで行われる舞踏会へのワイン提供にも、とても感謝しております。ぜひ皆様にもご参加いただきたいのですが、いかがでしょうか?」
「せっかくだが、遠慮しておくよ。仮面付けてダンスってがらじゃなくてね。叔母のシルヴァーナのサポートに尽力するつもりだ」
「なんと! 甥御様でしたか!」オルランドは目を輝かせた。「彼女は伝説の人ですよ」
「それって、一人でスリを締めたっていう……」
「えぇ。ですが、あまり話題にすべきではなかったですね」
「気にしないでくれ。叔母も、時間の流れには逆らえないだけなんだ。まぁ、タフさは誰にも負けていないけどね」
「それは素晴らしいことでございます」
オルランドは微笑むと、店の入り口から広場へと視線を向けた。広場の人口は着々と増えてきている。人々の歩くスピードもゆったりとしてきた。ニコラも彼の隣でその景色を眺める。
「今まで閉鎖的だったことを考えると、今年のカーニバルに参加する人はかなり多いだろうな」
「えぇ、世界中からやって来ているようです。賑やかなことは喜ばしいのですが、やはりそのぶんトラブルも多く……数年前に起こったスリ事件は特に危険だったのです。シニョーレ・パレンバーグがいなければ、もっと怪我人が出ていたはずです」
「実は詳しく知らないんだ。叔母が話してくれなくて。一体何があったんだ?」
「それが……広場にスリの集団が紛れ込んでいたのです。その一人が観光客の財布を盗もうとしたのですが、犯行がばれて揉み合いになりました。そこに飛び込んで行ったのが、シニョーレ・パレンバーグです。彼女は財布を奪い返し、さらに逃げようとしたスリ集団全員をのしてしまったんです」
「どうやって?」
「空のワインボトルを五本。二人につき、一本です」
丁寧に指を立てて見せるオルランドに、ニコラは笑うしかなかった。
やがて彼に連れられて店に入る直前、ニコラはもう一度だけ広場を振り返った。あまりに人が多く、もう広場の先を見通すことができない。黒いマスクの集団は消えていた。
午前十時という早い時間にも関わらず、ワインの提供ブースは繁盛していた。
試飲、カフェ内での提供、ボトルの販売や、定期購入の契約など、人手がいくらあっても足りない。店内は貴族や提督、装飾を施した衣装に身を包んだ人々で溢れていた。宮廷のようなカフェの内装と相まって、この店内だけがタイムスリップしたようにも見える。その様子を外から眺めている人々も多い。ニコラ達はオルランドが用意していた白いジャケットの制服を着ていた。忙しさのあまり袖を捲り上げたくなったが堪えた。
やがて午後十一時に近づくと、少しずつ客足が引き始める。
「もうすぐパレードが始まるから、皆、運河の方へ行ったんだよ」
壁にもたれたシルヴァーナがふうと息を吐く。疲れているようだが、目は生き生きとしており、五歳は若返ったようだ。「ニコラ、あんた休憩がてら見に行ったらどうだい。カーニバルは初めてだろ」
「なら、叔母さんと一緒に行きたい」ニコラはジャケットを脱いだ。「いいよね?」
「何言ってるんだい、あたしは――」
「そうですよ、シルヴァーナ。あなたも休んだ方がいい」従業員の一人が言った。
「ここは私達に任せてください」
「甥っ子のおねだりなんて、これっきり聞けないかもしれないですよ」
周囲の従業員達達も温かい目でこちらを見る。パレンバーグ・ワイナリーの最年長シルヴァーナは少し気恥ずかしくなったようだが、結局は彼らの言葉に甘えることにした。
二人でコートを着て店を出ると、広場の人々も運河の方へ移動し始めているのがわかった。その流れに乗ってやって来た船着き場前は、すでに地面が見えなくなるほど多くの人々で埋め尽くされている。小さな子どもは大人に肩車してもらっていた。
「叔母さんも肩車してあげようか」
「もしやったら、この足であんたの首を絞めてやるから」
不敵な笑みで言い返したシルヴァーナだったが、ニコラがすっと腕を出すと、もたれるように腕を組んできた。やはり疲れているのだろう。ニコラは何も言わずにいた。
通りの人口密度はだんだん高まっていく。
ニコラは振り返って、従業員達が来ていないか確認した。どうせなら全員で見たい。後ろはすでに見物人が多く詰めかけており、いくつものスマホのカメラが運河の方を見つめていた。その隙間から広場の方向へ視線を巡らせていた時、ニコラはふと、見覚えのある顔を見つけた。
「ん?」
黒いマスクが五人――広場で見かけた集団だ。彼らはパレードの開始を待つ人々の後ろにいたが、辺りを見渡したかと思うと、さっと散り散りになって人混みの中へ潜り込んだ。その不自然な動きに違和感を覚え、ニコラは彼らのうち一人を視線で追う。彼らはまるで蛇のようにするすると歩く。パレードにはまるで全く興味がないようだ。ダウンジャケットの前ポケットに両手を突っ込み、身体を傾けて人を避けたり、逆に身体が擦れるほど近づいたりという動きを繰り返している。
瞬間、後ろを見ていたニコラの背中に、誰かがとんと軽くぶつかってきた。
わずかな圧迫感。上着が擦れ合っただけの衝撃。
咄嗟にニコラは身体を捻り、ぶつかってきた人物の手首を掴んだ。太さからして男性だろう――男の手には、ニコラがコートのポケットに入れていたスマホが握られている。
「ニコラ」シルヴァーナが異変に気づいて声を上げる。
「下がってて」
ニコラは男の手首を離さぬまま、叔母を身体の後ろへと回す。周囲の人々は運河の方を見るのに夢中で、この状況に気づいている者はまだいなかった。ニコラは男の手首を掴む手に力を込める。
「盗ったものを置いていけ」
「何だ、てめぇ。離せ」
「離してほしければ、盗品を持ち主に返せ。でなければ警察を呼ぶ」
「調子に乗ってんじゃねぇぞ」男が声を低くがならせた。
マスクの向こう側の目と睨み合っていると、ふと、彼の視線がシルヴァーナへと移った。その目が大きく見開かれていく。
「まさかお前、パレンバーグか?」
「だったら何だい?」
「お前を覚えてるぞ。てめぇ、数年前のカーニバルの日に、俺の仲間を締め上げてサツに突き出したババアだろ」
男のもう片手がダウンジャケットのポケットへ入り、折りたたみ式ナイフを掴んで戻ってきた。ニコラはすぐさまその手も掴んで持ち上げた。激しく空を突き上げるナイフに反射した光が、周囲に散らばる。途端に周りから悲鳴を含んだどよめきがあがった。人々はたちまちニコラとマスクの男の周りから飛び退いていき、いつしか人間でできた格闘リングが出来上がった。
「彼女に手を出すな!」
ニコラは男の手を素早く捻り上げ、身体が仰け反った瞬間に地面に引き倒した。男はうつ伏せに倒れる。ナイフが落ち、地面にぶつかって甲高い音を立てた。ニコラはしゃがみ込んで男を組み伏せると、深く息を吐いて呼吸を落ち着かせようと努める。その時、背後から迫ってくる人々の悲鳴に気づいた。振り返ると、見物人達を押しのけて、マスクの男達が四人、リングへ上がり込んできた。それぞれの手に持ったナイフが、彼らが仲間を回収するためだけにやって来たのではないことを物語っている。
まずい。
「ニコラ!」
シルヴァーナの叫びの残響が消えぬ内に、彼らは黒い濁流となって襲いかかってきた。
ニコラは呆然となって立ち上がる。やって来る衝撃を受け入れるしかないと身構え、目を閉じかけたその瞬間だった。
濁流を遮る者が現れた。
青空の下で赤い巻き毛が揺れ、オリーブ色のコートがなびく。その男はニコラに背を向けて濁流と対峙し、白い手袋をはめた両手を素早く交互に繰り出した。連続したどどどっという音が聞こえた途端、濁流はばらばらに砕け散った。
「くそっ、何なんだよ!」
足元から聞こえてきた声で、ニコラははっと視線を下げた。先程倒した男が、ニコラのコートの裾を掴んで起き上がろうとしている。慌てて離れようとしたその時、白い手袋をはめた手が伸びてきて男の胸ぐらを掴むと、ニコラから乱暴に引き離した。
男は地面を引きずられていき、胸ぐらを掴まれたまま持ち上げられる。爪先がわずかに地面から浮かんでいた。
「誰だ、お前は! 警備員じゃないだろ!」
震えた声で訴える男に対し、赤い巻き毛の男は不気味なほど無言だった。彼は片手で男を掴み上げたまま、もう一方の手を開いて男のマスクを覆うと――成人男性の顔面を覆ってしまえるほど大きな手だ――ゆっくり握り潰し始める。マスクにひびが入るめきめきという音が、男の悲鳴とばたつく爪先が地面を擦る音に掻き消される。
ニコラは赤い巻き毛の男を見つめたまま動けなくなった。心臓がどくどくと脈を打っている。汗が首筋を伝っていき、無意識に開いた口が震えていた。
まさか、そんなまさか。
「ぎゃあああ」
男の悲鳴でニコラは我に返った。そして辺りの空気の冷たさに気づく。ほんの数秒前までは黒マスクの男が悪者だった。だが今、その優劣が大きく変わりつつある。
「スピノーネ!」
ニコラはやっと叫んだ。五年振りに口にする男の名を。
震える声を必死に抑えて命令する。
「もうよせ」
赤い巻き毛の男は男を地面に投げ捨てた。地面に倒れた男は頭を抱え、涙混じりの呻き声を上げる。その声もニコラには聞こえなくなっていく。瞬きも忘れ、ただ赤い巻き毛の男の背中を凝視していた。懐かしい赤毛の髪は頭の上に残っており、両サイドと後頭部は刈上げられている。
こっちを向いてほしい。
一歩、また一歩と、赤い巻き毛の男の背中に近づき、その肩に手をかける。
瞬間、赤い巻き毛の男は動物じみた素早さで振り返ってニコラの手を払った。ニコラは片手を空中に残したまま愕然とする。拒絶へのショックだけではない。振り返った赤い巻き毛の男の顔に、無機質な白のヴェネツィアンマスクがついていたからだ。骸のような眼窩がこちらを見つめている。
「おい! 大丈夫か!」
大声に驚いて振り向くと、遠くから警備員が数名走って来ていた。誰かが通報したのだろう。
次の瞬間、赤い巻き毛の男が踵を返して走り出した。
「あ! 待て!」
二コラも慌てて駆け出す。人々の隙間をするすると縫って走り抜ける彼の後ろを、ニコラは人々にぶつかりながら追いかける。運河ではいよいよパレードが始まり、人々の歓声と音楽が辺りを満たし始めていた。内臓を震わせる空気に溺れそうになりながらニコラは必死に走る。赤い巻き毛の男は運河沿いを東へと向かい、やがて建物と建物の間の細い路地へと滑り込んでいった。その先には入り組んだ路地と住宅地が広がっている。
ここで彼を見失ったお終いだ。
ニコラも路地へと飛び込んだ。迷路のような路地は人一人がやっと通れるほど狭く、身体を横にずらしながら奥へと進んでいく。ふと見上げると路地と同じくらい狭い空が見え、窓辺の植木鉢の植物や、水路上に渡された洗濯紐に吊るされてはためくシーツの隙間から、屋根の上を駆けていく影が見えた。しかし、それもシーツがはためいた間に消えてしまう。
ニコラは立ち止まった。薄暗い路地。パレードの喧騒は遥か彼方。
「聞いてるか!」空に向かって叫んだ。「今夜、広場近くのホテルで舞踏会がある! 俺もそれに出る! 何か言いたいことがあるのなら来い!」
返答はない。聞こえたのは自分の叫びの反響だけ。人の気配すら感じられない。
また口を開きかけたが、躊躇った末に閉じ、来た道を戻っていった。
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