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第12話
広場に戻ると、黒いマスクのスリ集団は全員逮捕されていた。盛大なパレードを終えたカーニバルは平穏を取り戻し、さらなる熱気を放っている。
カフェに戻ったニコラはシルヴァーナや従業員達達から質問攻めにあったが、答えははぐらかして仕事へと戻った。どう答えるべきか、自分でもわからなかった。五年前にギャングから自分を守ってくれた男が、連絡も寄越さずに突然姿を現し、しかもマスクで顔を隠して、こちらが触れてくるのを拒絶するように逃げ出したなど、言えるはずもない。
仕事の合間にニコラは一度、ブルネッラへ連絡をした。イタリアに彼が現れたと。ブルネッラは驚いていた。彼女ですら、彼の帰還を知らなかったのだ。
悶々としているうちに時間は過ぎていき、気がつけば日が暮れていた。
カフェでの仕事を一旦切り上げると、ニコラとシルヴァーナと従業員達はオルランドに連れられて、舞踏会の会場である運河沿いのホテルへとやって来た。
控室で身支度を済ませたシルヴァーナにニコラは声をかけた。
「人手が足りないのにすまない。参加する予定はなかったんだが……」
「問題ないよ。気にするんじゃない」
大きな姿鏡の前に立つニコラは、美しいブルーの生地にゴールドの刺繍を施した中世貴族の衣装に身を包んでいた。白髪はいつもと同じようにうなじの辺りでくくったが、今夜はヘアゴムではなく、ブルーのリボンでくくりつけた。鏡の端に、今度は黒のスーツを着こなして腕組みをするシルヴァーナが映る。
「なんて顔してんだい」
「あぁ……どんな顔してる?」
「せっかくの再会が台無しになっちまうよ」
「どうせ仮面で隠れるよ」
ニコラはオルランドが衣装と共に手配してくれた仮面――ブルーに黒と金の縁取りがある、目元だけ隠れるハーフマスク――を装着した。視界はやや狭まるが、動き回るには問題なさそうだ。ひどく強張った表情も、いくらか誤魔化すことができるだろう。
「大丈夫なのかい?」
「わからない。さぁ、行こう」
シルヴァーナの横を通り過ぎ、ニコラは控室の扉を開けた。
ホテルの外装は白くシンプルだが、二階のダンスフロアはワインレッドと上品なゴールドでまとめられている。シャンデリアの光の下、古き良き繁栄の時代を思わせるアンティークが飾られ、暖かい室内をオーケストラの音楽が満たしている。仮面をつけた客人達は音楽に合わせてワルツを踊ったり、ソファでくつろぎながらワインを飲んで駄弁ったりと自由に夜を過ごしていた。会場の奥にあるバルコニーへ続くガラス扉は今は閉ざされており、寒さのせいで近寄る者もいなかったが、そこには中世ヨーロッパの繁栄が映し出されている。
「用があれば呼びな」
シルヴァーナは耳打ちするように言うと、従業員達達に合図して、フロアの一角にあるバーカウンターへと向かって行った。彼らを見送ったニコラは一人、フロアの中央へと足を踏み入れる。空気が濃くなるのがわかった。畏怖を感じさせるような不気味さと、背徳感を含んだ艶やかさがその場を支配している。フロアには小さなステージがいくつか用意されており、パフォーマー達がそこに立って技を披露していた。バレエダンサー、曲芸師、道化師――無表情な仮面と、それにそぐわぬ甲高い笑い声が渦を巻く。異世界に一人で迷い込んだようだ。
「ねぇ、そこのハンサムさん! 踊りましょうよ!」
「え?」
若い女性が突然腕に絡みついてきた。白いかつらに、羽飾りのあるハーフマスク、ワインで染めたような赤いドレスに身を包む彼女の吐息からは、本物のワインの匂いがした。
「いいでしょ? もうすぐ次の曲が始まるんだからぁ」
「悪いんだが、今は取り込み中で――」
断りの言葉が、ホールを揺らすバイオリンの力強い音色に掻き消される。ニコラは女性に腕を引っ張られ、ホール中央まで連れてこられると、強引にワルツの構えを取らされる。周りにはすでにダンス参加者が数十名ほど集まって来ていた。思わず、ダンスに参加していない周囲の男性陣に視線を向けたが、皆「お気の毒に」と言った様子で近寄ろうとしない。ニコラは諦めて女性に向き直った。
「シニョリーナ、申し訳ないんだが、俺は人を探してて――」
「ちょっと、ちゃんと腰に手をまわして!」
ニコラの抵抗も虚しく、重厚感としなやかな伸びのある演奏が始まった。人々は踊り始める。全員が同じステップで歯車のように踊るため、上手く抜け出すことができない。ニコラは昨年のクリスマスに酔った勢いで叔母から教わったワルツのステップを何とか思い出しながらその場をしのぐ。しかし、早くも相手の女性は限界だ。目の焦点が合っていないし、身体が仰け反るように傾いていく――ワイン漬けの身体で踊るもんじゃない!
再び辺りに視線を向けたニコラは、数メートル先に空いているソファを見つけた。あそこまで彼女を誘導して休ませよう――抜け出すタイミングを見計らっていたその時、ソファのそばに立つ仮面の男と視線が合った。
ニコラははっとなる。
赤い巻き毛、フルフェイスのヴェネツィアンマスク、オリーブ色の貴族衣装に手袋。
ニコラは彼を見据えたまま、女性を連れてするりとダンスの輪から抜け出す。彼女をソファへと導き、ほとんど突き飛ばすように座らせると、間髪入れず仮面の男の腕を掴む。
「来い」
わずかに抵抗を感じたため、強引にリードしながらワルツへと引き込む。ゆったりとした曲が流れる中、周囲の人々は仮面越しにうっとりと相手を見つめながら踊っている。しかしニコラだけは相手を睨みつけていた。
「なぜ逃げた?」
ニコラは尋ねるが、彼は無言だった。
「俺はこの五年間、気が狂いそうだった。国内外の事件や事故、戦争や紛争の記事を見る度に現場に飛んで行きたくなった。そこにお前がいる気がしたからだ。だが、約束を守らなければとも思った」
「私も、約束を果たしに来ました」
仮面の奥からくぐもった声が聞こえてきた。五年ぶりに聞けた彼の声に胸が高鳴ったが、高鳴りの裏では怒りが燃えている。
「はっ、そりゃどんな約束だ? ちょっと再会したら、理由も言わず、俺からさっさと逃げ出すって約束だったか? そんな約束をした覚えはないぞ。お前は――」
ニコラは言葉に詰まった。「……お前は、帰って来ると言ったじゃないか」
「その約束は果たしました。だけどもう、あなたのそばにはいられません」
「どういう意味だ」
「言葉の通りです。それと、音楽が終わりましたよ」
はっと辺りを見回すと、フロアの中央にはもうニコラとスピノーネしかおらず、他の人々はソファに掛けて休んだり、バーカウンターの方へ向かっている人もいた。カウンターの方から、シルヴァーナが心配げな顔でこちらを見つめている。
「あなたに会えてよかった」
よそよそしいほど明るいスピノーネの声に、ニコラはぞっとして振り返る。すでに彼は離れた場所に立っていた。背後にはバルコニーへと続く扉。その先は夜の闇と――永遠の別れ。
「元気そうで。ご家族とも会えたみたいでよかったです」
扉を開けて、スピノーネはバルコニーへと出て行く。
「もう逃がさねぇ!」
ニコラは駆け出し、閉まりかけていた扉をばんと開け放った。冷たい夜気が押し戻そうとしてくるが構わず飛び出す。スピノーネはまだいた――バルコニーの手すりの上に。あの夜と同じように、姿を消そうとしている。
ニコラは仮面を脱ぎ捨てた。
「お前を愛してる!」
「私も愛してます!」
スピノーネは振り返った。刺々しい、がなり立てた告白。まるで口論。愛を叫ぶには、あまりにも乱暴な声音。彼の肩は大きく上下し、手袋をはめた両手は身体の横で拳を作っていた。
「……愛してるんです」震えた声で繰り返す。「だけどそばにはいられない」
「知ったことか!」
ニコラは彼に歩み寄った。「一体この五年でお前の身に何が起こった? それを話さずにまた消えるのか? 許さないからな。俺はお前を――」
「私は人を殺した!」
しゃがれた、悲痛な咆哮が夜を貫いた。ニコラは立ち止まる。彼の白い仮面の奥で、あの瞳が揺れているのが見えた。怯え、疲れ切り、何かが壊れかけている――ニコラはしばらく動けずにいたが、やがて足に力を込めて再び歩き出した。彼が身構える気配がしたが構わず進んでいく。結局、足元まで来てもスピノーネは逃げなかった。内心ほっとしたニコラは手すりに背中からもたれ、目の前のガラス扉を透かす光を浴びながら腕組みした。
スピノーネには触れなかった。ただ、彼が腰を下ろすのを辛抱強く待つ。
すると長い沈黙の末、頭上から溜息が聞こえた。スピノーネはニコラとは反対方向――夜の闇に向かい合う形で手すりに腰を下ろした。ニコラの肩と彼の腕が触れ合うまであと数センチ。そのわずかな隙間が、今や計り知れないほど遠い距離のように思えた。
深く息を吸ったスピノーネの背中が膨らんだ。
「あなたと別れた後、私はバルカと共に世界中を回って、これまでに関りを持ってきた組織や要人達に引退の意を伝えて回りました。今後はバルカが私の仕事を引き継ぐことで、了承を得られてきたのですが、飼い犬が手を離れるなら殺処分を望む者もいる――私は最後の仕事を与えられました。中東へ行き、とある男を国外へ護送しろというものです」
スピノーネ曰く、その男は中東出身の元戦闘員で、十年以上前の戦争中に捕虜や一般人を含んだ大量虐殺を行った容疑がかけられているとのことだった。未だ戦争が続くその国には現在アメリカ軍が侵攻しており、軍は彼を探していたという――指名手配犯として。
「男は戦争の英雄でもある。国は彼を秘密裏に保護していましたが、ついに目の前の戦争に尽力しなければならなくなった。そこで国は男が死んだという偽の情報を流し、私は空港で男を保護、一旦国外へ逃がすことになったのです。おそらく組織がこの計画を持ち掛けたのでしょう。この国に恩を売るために。そして私は成功すれば自由の身。もし失敗した場合、組織に火の粉がかからぬよう、一人で責任を負わねばなりませんでした」
つまり、殺される。
「バルカはどうした?」とニコラは尋ねた。
「目立つなという指示だったので、私一人で行動すると決めました。彼は別れ際に言いました――あの国に行けば、わかることがあると。バルカはあの国で戦争が始まった時、傭兵として現地に派遣されていました。そこで私を拾ったそうです。だけど私はそのことをあまり覚えていなくて、気づいた時にはバルカ達傭兵に育てられていました」
ニコラは五年前、カナダの国境ゲート付近で彼と交わした会話を思い出す。自分の本名にも、生まれにも、家族についても興味を失った男。心底どうでもよさそうなあの口調。
「とにかく、私は一人で空港へ向かいました。勿論、空港内はアメリカ軍の管理下にあります。私は軍人になりすまし、一般市民を避難させるという任務に潜り込んで男を待ちました」
そこでスピノーネは無意識か、自分の頭を擦った。ニコラは彼が髭を剃り、頭を丸め、迷彩柄の制服に身を包んだ姿を想像してみる。さぞ様になっていただろう。
「ロビーで待っていると、避難のためにやって来た一般市民の中に、杖をついて歩く男を見つけました。男の容姿については何も知らされていませんでしたが、一目で彼だとわかった――彼の周りを歩く市民は全員、彼を守るための護衛でした。肉の盾となっていたんです。私は彼らに頷き、彼を迎えに来た者だと伝えました」
護衛達は男を中心にして歩き続け、そのまま直進して、スピノーネを川の水が岩を避けるように通過する。その中でスピノーネは男と対峙した。男は年老いており、乾燥した肌の顔に埋め込まれた目は濁っていた。この男を連れて国を出れば任務は完了だ。
「突然、男が私を見てイブン・カルブと叫びました。意味は犬の子。犬を不浄とする宗教の罵り言葉です。子どもを叱責するときにも使われるのですが、彼の声音に子を叱るような響きはありません。周りが異変に気づきますが、彼は構わず叫ぶ……その時でした。私の記憶の一部分が蘇ったのは」
スピノーネの言葉の語尾が震える。丸まった背中が強張っていくのを感じ、ニコラは思わず手を差し出したくなったが、寸でのところで耐えた。腕を組み直し、スピノーネの言葉を待つ。
「あの感覚はまるで過去の空白が埋まっていくようで……いえ、自分の過去に空白があるということを思い知らされたような感じで――とにかく、気持ちのいいものではありませんでした。思い出したのは……少年が誰かと一緒に車に乗っていて、空港へ向かっているところで……車は猛スピードで走っていて、時々がたがたと揺れました。運転席には男がいて、後部座席には少年と一緒に女もいた。少年が膝に抱いていたリュックサックの隙間から飛行機の搭乗チケットが飛び出しています。エンジン音の向こうで爆発や銃声やサイレンの音が聞こえてくる。するとその音が全部、車の中へなだれ込んできて――粉々になった窓の破片が車内に飛び散った。車が急停止した反動で、少年は舌を噛みそうになりました。だけど乳歯が――前歯が二本とも抜けて空洞になっていたので、舌を噛むことはなかった。運転手の男は怒鳴っていて、私のそばにいた女も叫んでいて、それから扉が開き……武装した兵士が全員を車外へ引きずり出しました。少年が抵抗すると兵士は腕を強く引っ張り、『イブン・カルブ』と罵りました。その後、少年は男女と引き離された。彼らがどうなったのかは知らない」
ニコラは想像した。赤い巻き毛と豊かな睫毛を持つ少年を。子犬のように人懐こい少年を。彼が恐怖に髪を逆立て、眼球がこぼれ落ちんばかりに目を見開く様を。
「そこで一度記憶が途切れました。私は空港で立ち尽くしていた。時間にして数秒でしょう。目の前の男は腰を抜かしたらしく、尻餅をついて、まだ同じことを叫び続けていました。あの日と全く同じ言葉を」
「お前はどうしたんだ?」
尋ねるのが恐ろしかった。スピノーネの絶叫が頭に蘇る。「私は人を殺した」――だがどんな結果であれ、とにかく真実を知るべきだと思った。
「男を誘拐しました」スピノーネは答えた。
「何だって?」
「ほんの数時間だけです」
スピノーネは話を続けた。彼はロビーで男を抱え――驚くほど軽かったという――彼の護衛や周りのアメリカ兵達の制止を振り切って空港を飛び出したという。外に停まっていたジープを奪い、男を助手席に乗せて走り出す。スピノーネは国からも軍からも追われる身となった。
「運転しながら男に問い詰めました。あの日、少年をどこへ連れて行ったのか。どうして少年は生き延びたのかと。すると男はまず、少年を連れて行った場所を吐きました。空港から一時間ほど西へ向かった場所にある住宅街の跡地です。そこは太陽光と砂漠の侵食のせいで、白骨化したようになっていました。男と共に車を降りた時、再び私の記憶は蘇ります」
そこでまたもや沈黙。仮面の奥でぜいぜいと、ざらついた息遣いが聞こえてくる。
「……あの日、少年は兵士らが拠点としていた住宅地に連れてこられた。辺りは瓦礫だらけで、乾いた風に巻き上げられた砂ぼこりが目に入って痛かった。そこには、少年と同じように兵士に捕まった人々がいて、彼らは二つのグループに分けられていました。兵士と同じ人種は奴隷として身の回りの世話や労働を強制され、外国人は見せしめとして殺されていた。だからその少年は……あぁ、くそ」
その時、スピノーネがシャツの襟を掴み、乱暴に引っ張ってボタンを吹っ飛ばした。襟元が開いて露になった喉元にはあの線状痕が、五年前と同じ場所に巻きついている。ニコラはまた想像する――最悪の想像を。吸い込んだ冷気が、喉奥で渋い味になった。
「吊られたのか」
「……犬の子と呼ばれながら」スピノーネは言った。「だけど死ななかった。ロープの結び方に不備があったのか、私の首の筋肉が元々特殊だったのかわかりませんが」
ニコラは何も言わずにいたが、おそらく後者だろうと思った。五年前にこの目で見て、触れた身体を覚えている。あそこまで鍛えられるのなら、何か素質があるはずだ。
「とにかく私は死ななかった。死ねなかったんです。だから兵士達の気まぐれで何度も吊られ、昼夜問わず弄ばれた。それが何日続いたかわからない。そしてある日の真夜中、二人の兵士が見張りにやって来ました……うち一人は少年を連れてきたあの兵士――イブン・カルブと言った男でした。いつしか少年は、足音で誰がやって来たかわかるようになっていた。自分の手足や首を縛っている縄が朽ちかけていることもわかっていた。だからその時私はいえ少年は縄を自分の拳に巻きつけて二人を襲いました逃げたんです私は殺したんです一人を殴って殴り続けたんです私が――私がやった」
ついにスピノーネが頭を抱えた。痛々しい線状痕が巻きついた首が筋張って、荒い呼吸を繰り返すたびに膨らむ。ニコラは「十分わかった」「もう喋らなくていい」――そう口にしそうになるのをぐっと堪えた。それを言ってしまうと、彼の過去を否定してしまう気がした。悲惨な過去であるのは確かだ。だが口を閉ざさせるべきではない。唇を噛みながら言葉を待った。
やがてスピノーネは頭を上げる。彼は呆けたように目の前の闇を見つめていた。
「その場所は風化していましたが、拷問や虐殺の痕跡は残っていました。するとそこに車が数台やって来て、私達を取り囲みました」
「追っ手か?」
「いえ、仕事を依頼してきた組織の人間でした。車から男が出てきて私に問いました。『全てを知って、その男をどうする?』と。彼らはすでに私の過去を調べていて、その上でこの舞台を作り上げたんです。私は試されていた――殺人を犯すかどうか。表の世界に放ってもよい人間であるかどうか」
ニコラは唇をきつく結ぶ。スピノーネは心を失くしたような口調で続けた。
「どう答えるべきかわからなかった。正直、男のことなどもうどうでもいい。私は人を殺していた。そしてそれを忘れていた自分自身に強い殺意を覚えました。男を殺すにせよ、私自身を殺すにせよ、どちらを選んでも私は組織に殺される。そうして彼らは、手放し難かった飼い犬を殺処分できる」
「だが、お前はここにいる。ここに来た」
ニコラは身を寄せた。しかし彼はそのぶんだけ身を引く。心の底から、触れることを恐れているようだ。なぜだ。なぜ恐れている?
「結局、私はどちらも殺さなかった。と言うより、何もできなかったんです。男は生かして組織に引き渡し、私も生きて国を出た。だが、組織からの問いかけはまだ続いている。私自身という殺人者をどうするのか。その答えを出せぬまま……強欲にも……あなたに会いたいと願ってしまった。頭の中が四六時中掻き乱されて、静寂な時が失われました。私はこれからどうすればいい? 何も聞こえず、何も見えない状況で、あなたからの答えが欲しくてたまらなかった。だけどこれ以上、あなたを汚してはいけない」
汚れるもんか――そう思った瞬間、スピノーネがまるで眠りに落ちたかのように頭をがっくりと前へ倒し、夜の闇へその身を捧げようとした。
「馬鹿野郎!」
ニコラは咄嗟に彼の腹に腕を回し、そのままバルコニーへと引き倒した。仰向けに倒れた彼の身体に覆い被さり、両手首を掴んで床に抑えつける。暴れて抜け出そうとする手首を掴み直した時、手袋が脱げ、傷らだけの大きな手が露になった。ニコラは両手に必死に体重をかける。
「スピノーネ、状況を考えてみろ。誰もお前を咎めたりしない」
「戦場ではどんな罪だって正当化される! だけど事実は変えられない……私の道にはすでに屍があったんです。平穏を生きるあなたのそばにはいられない!」
馬鹿言うな、馬鹿言うな、馬鹿言うな、ちくしょう。
ニコラはさらに手に力を込めた。これ以上は持ち堪えられそうにない。
「なら、なぜ姿を現した?」
「それは……」
スピノーネは口籠った。彼の全身の筋肉から力が抜けていく。
「……最後に――最後に一目だけ、あなたを見ておきたかった。パレードであんなことがなければすぐに消えるつもりだった。こんな私を知られたら……あなたに嫌われたら生きていけない」彼の声が涙に震える。「……こんな恐怖はない……」
ニコラは静かに彼を見下ろした。くぐりぬけてきた死線の数だけ傷を負い、それでも戦い、護り続けてきた男――なぜ彼が人を殺せないのか今わかった。原因は彼自身の弱さではない。殺人という行為が、彼の過去の記憶を呼び起こすトリガーの一つだったからだ。スピノーネが裏社会の護衛として依頼者を守っていたのと同じように、彼の脳と身体は自分を守るために殺人の拒絶という制限をかけた。だが殺人と密接に結びついていた言葉『イブン・カルブ』でトリガーが引かれ、今や彼は丸腰の状態で己の心に襲われている。心とは時々、どんな手段を使ってでも人を陥れようとする。心から逃れることはできない。長い時間をかけ、向き合えるようになるまで攻撃は続く――あぁ、この男は自分の心と戦うすべはおろか、身を守るすべすら知らないのだ。
「起きろ」
ニコラはスピノーネの手首から手を離し、身を引くと地面に片膝をついた。彼ははっとした様子で視線を向けてきたが、それは逃げ出すチャンスを得た高揚からではなく、見捨てられたのではという不安と、名残惜しさからではないだろうか。
「仮面を外せ。今すぐに」
仮面の向こうにある瞳を見つめながら、有無を言わさぬ口調で命令する。スピノーネは恐る恐る上体を起こすと、両手を震わせながら仮面を外した。そうして現れたのは幽霊のような顔――長い睫毛に縁取られた目は大きく見開かれ、ニコラの動きに対する警戒心が見て取れる。もみあげから顎、口元まで覆っていた髭は剃られ、今は鼻の下と顎先だけに整えられているが、上下を髭に挟まれた唇は、愛する者を遠ざけるための言葉を探して震えている。
「……ニコラ、私は――」
「もういい。黙れ」
スピノーネの顔を両手で掴むと、ぐっと引き寄せてキスをした。唇が乾いてひび割れている。頼りなく震えるそれを柔く食んで温めてやってから、少し離れる素振りを見せる。すると彼は唇の隙間から舌をわずかに出して追ってきた。ニコラはそれを捕らえ、さらに深く口づける。
あの夜の別れのキスが、どれほど物足りなかったかわからせるまで。
そして五年という歳月がちっぽけに思えてくるまで。
やがて唇を離し、間髪入れず彼を思い切り抱き締める。
「よく聞け。俺がお前を守ってやる。お前が戦い方を知らない全てのものからだ。もしこの苦しみが業だと言うのなら、一緒に背負ってやる。だからそばにいろ。俺の平穏はお前と共にあるんだ。どうだ、これが俺からの答えだ。文句あるか?」
腕の中で、スピノーネが震えながら首を横に振った。彼の耳元にニコラは唇を寄せる。
「ミオ・カーロ・グラウディア(俺の愛しい守護者よ)、よく帰って来た」
告げると、スピノーネはニコラの首筋に顔を押しつけてきた。さらに背中に腕を回して強く抱き締め返してくる。長く辛い旅の果てに、ようやく安息の地に辿り着いた旅人のように。
ようやく二人の世界にもワルツの音楽が届いてきた。
ニコラはそれに耳を傾け、やがてスピノーネに尋ねた。
「よぉ、気分はどうだ?」
「安らかです」
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