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第6話 修行のつもり

「相手の呼吸を見る」 弥吉は又六の前で復唱した。 「そうだ」 「余裕がなくなる場所を覚える」 「そう」 「それで、自分は慌てない」 「そこが一番大事だな」 「一番無理なところじゃないですか」 又六は笑った。 離れの灯りは低く、庭の向こうはもう暗い。 授業のあと、弥吉はまた補習を頼みに来ていた。 今日も木刀は持っていない。 代わりに、兼重から出された課題を書いた紙を持っている。 弥吉は紙を畳んで横へ置いた。 「兼重先生、言うこと厳しいんですよ」 「間違ってはいない」 「分かってます。でも実習になると、相手のこと考える前に自分が余裕なくなるんです」 「お前らしい」 「それ褒めてませんよね」 「半分くらいは」 弥吉はむっとして又六を見た。 「じゃあ又六さんなら、どうするんです?」 「何を」 「相手が先に余裕なくなったら」 又六は少し考える。 「そのまま崩す」 「やっぱり」 「嫌か」 「いや、むしろ勉強になるかも」 又六の目が細くなる。 弥吉はまったく気づかない。 「俺、いつも相手に合わせようとすると考えすぎるんですよ。もっと自然にできたらなって」 「自然に、か」 「はい」 又六は少し黙った。 「なら、頭で考えるのをやめろ」 「え?」 「実地で覚えろ」 弥吉の目が一瞬だけ大きくなる。 それから、すぐ真剣な表情へ戻った。 「……やってくれるんですか」 「お前が頼んだんだろう」 「そうですけど」 又六が弥吉の顎へ指をかける。 前にもされた。 でも今日は距離が違う。 息が触れるほど近い。 「まず、俺の呼吸を見ろ」 弥吉は又六の胸元へ目をやった。 「はい」 「目を逸らすな」 「逸らしてません」 「俺を見ろ」 弥吉が顔を上げる。 又六の目と合った。 その瞬間、いつもの稽古とは違う空気になった。 弥吉は少しだけ息を止めた。 「今だ」 「何が」 「お前の呼吸が止まった」 「……近いからですよ」 「それも覚えろ」 又六の指が頬へ移る。 弥吉は動かない。 触れられること自体は珍しくない。 雄室塾の実習では、身体へ触れることも、触れられることも日常だ。 なのに。 又六の指が頬から首筋へ下りただけで、弥吉の背中がぞくりとした。 「あれ」 「どうした」 「いや……」 弥吉は首を傾げた。 「いつもと違う」 又六の視線が変わる。 「何が」 「分かんないです」 「なら考えるな」 今度は又六から口づけた。 弥吉は一瞬驚いたが、すぐ受け入れた。 唇が離れる。 弥吉は小さく息を吐く。 「……これも?」 「補習だ」 「なるほど」 又六が少し笑った。 もう一度。 今度はさっきより長い。 弥吉の肩から力が抜ける。 「弥吉」 名前を呼ばれた。 それだけで胸の奥が妙に熱くなる。 「はい」 「今、何を考えてる」 「又六さん、やっぱり慣れてるなって」 「そこか」 「だって余裕あるし」 又六の眉がわずかに寄った。 弥吉は笑う。 「俺、絶対すぐ負ける」 「勝負ではない」 「兼重先生には怒られますよ。自分ばっかり気持ちよくなるなって」 「今は兼重を忘れろ」 「先生呼び捨てにした」 「どうでもいい」 又六の声が少し低くなる。 次に触れられた時、弥吉は思わず又六の着物を掴んだ。 「……あれ」 「また違うか」 「何これ」 弥吉は自分でも可笑しそうに笑った。 「変だな」 「何が変だ」 「普段、こんなに早くならない」 又六は返事をしなかった。 弥吉の反応を見ながら、ゆっくり距離を詰めていく。 呼吸。 声。 肩の震え。 指に入る力。 全部を見ている。 弥吉は最初こそ「相手の呼吸を見る」と頭の中で繰り返していた。 けれど、すぐにそれどころではなくなった。 「又六さん」 「何だ」 「これ、全然練習にならないです」 「なぜ」 「俺、もう余裕ない」 「まだ始まったばかりだ」 「えっ」 又六が笑う。 弥吉は一瞬だけ困った顔をしたあと、すぐ笑い返した。 「……じゃあ、お願いします」 その言葉で、又六の目が完全に変わった。 **** どれくらい経ったのか、弥吉にはよく分からなかった。 普段の実習なら、どこで何をされたか、相手がどう反応したか、あとから大体思い出せる。 今日は無理だった。 途中から、自分の呼吸も、又六の呼吸も、全部一緒になったような気がした。 「待って」 「何だ」 「これ、絶対変」 「何が」 「奥から熱い」 又六が弥吉の額へ口づける。 弥吉は息を詰めた。 「又六さん、ちょっと」 「まだ余裕あるか」 「ないです」 「なら、そのままでいろ」 「兼重先生に怒られる」 「今、先生のことを考えるな」 「だって課題が」 又六は呆れたように笑った。 「お前、本当に真面目だな」 「雄室塾生なんで」 「今それを言うか」 弥吉自身も笑おうとした。 けれど次の瞬間には声が崩れた。 「……無理」 又六が名前を呼ぶ。 「弥吉」 それだけでまた熱が跳ね上がる。 弥吉は又六の肩へ額を押しつけた。 「又六さん、これ……」 「何だ」 「我慢できない」 「しなくていい」 「先生には我慢しろって」 「俺は言ってない」 弥吉は少し笑った。 その笑いもすぐ息に変わる。 「……ほんと、ずるい」 「何が」 「全部」 又六の手が弥吉の背を支える。 弥吉はそれに身体を預けた。 「弥吉」 もう一度名前を呼ばれる。 今度は返事もできなかった。 ただ又六の着物を強く掴んだ。 しばらくして、力が抜けた。 弥吉は又六にもたれたまま、荒い息を整える。 「……何これ」 又六が髪を撫でる。 「感想がそれか」 「だって……」 弥吉はしばらく黙った。 それから、妙に真剣な表情で又六を見る。 「俺、全然修行足りないですね」 又六の手が止まった。 「……何?」 「いや、今日分かりました」 弥吉は起き上がる。 「普段の実習と全然違ったし、途中から又六さんの呼吸見るどころじゃなかった。俺、自分が何してたか途中ほとんど覚えてないです」 又六は黙っている。 弥吉は反省した様子で続ける。 「兼重先生に言ったら絶対怒られる」 「そうかもな」 「でも、すごく勉強になりました」 又六は弥吉を見る。 弥吉は目を輝かせた。 「またお願いします!」 沈黙。 「……又六さん?」 「弥吉」 「はい」 「お前、本気で言っているのか」 「もちろんです」 又六は片手で顔を覆った。 「え、何です?」 「何でもない」 「疲れました?」 「そういうことにしておけ」 弥吉は首を傾げる。 又六はしばらくそのまま動かなかったが、やがて手を下ろした。 目の前には、何の疑いもなく自分を見ている弥吉がいる。 怒る気にもなれない。 又六は弥吉の頭へ手を置いた。 「……分かった」 「ほんとですか」 「ああ」 「やった」 「次はもっとちゃんと覚えろ」 「頑張ります」 弥吉は嬉しそうに笑う。 又六はその髪を少し乱した。 「修行、つけてやる」 「お願いします、又六さん」 弥吉は深々と頭を下げた。 又六はその姿を見ながら、小さく息を吐いた。 「……先は長いな」

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