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第9話 盤の外

「これ、何の印だと思う?」 宗七は机の上へ置かれた紙片を見た。 細い墨線。 三角。 丸。 短い縦線。 その横に、数字らしい文字が並んでいる。 向かいには朔が座っていた。 弥吉も横から覗き込んでいる。 「この前の忍びが持ってたんだって」 「弥吉」 宗七は紙から目を上げないまま言った。 「少し静かにしてくれる?」 「はい」 弥吉は素直に黙った。 朔が宗七を見る。 「分かりそうですか」 「たぶん」 「たぶん?」 「今から分かるところです」 宗七は紙を裏返した。 裏にも線がある。 指先で順番に辿る。 「地図じゃない」 「なぜです?」 「距離が合わない。この三角を寺、丸を井戸と考えると、この辺りに井戸が多すぎます」 「では」 「時刻かな」 弥吉が口を開きかけた。 宗七が見た。 弥吉は閉じた。 朔の口元が少し緩む。 宗七は紙を横向きにした。 「この縦線、全部長さが違う」 「左様で」 「長い順に並べると……」 持っていた筆で別の紙へ書き写す。 一。 三。 五。 二。 四。 「五つの順番」 「何の順でしょう」 「そこまではまだ」 朔は急かさない。 宗七は少し考えてから、紙を窓へ透かした。 墨の濃淡が浮かぶ。 「……あ」 弥吉が身を乗り出す。 「分かった?」 「たぶん」 「たぶん多いな」 「考えてる人の横で喋らない」 「ごめん」 宗七は三角の印へ筆先を置いた。 「この紙、同じ印でも墨の濃さが違います。最初に書いたものと、後から足したものがある」 朔の目が少し細くなった。 「続けてください」 「忍びが最初から知っていた場所と、塾へ入ってから確認した場所」 弥吉の表情が変わる。 宗七は丸印を指した。 「この丸、離れじゃないかな」 弥吉は朔を見る。 朔は何も答えない。 「ほかの印は?」 「離れを見るための位置。屋根、木立、道の曲がり角」 宗七は紙を回した。 「つまり、侵入経路を書いたものじゃない。どこからなら離れを確認できるか、試した記録です」 朔は紙を受け取った。 「大変助かりました」 宗七は首を傾げる。 「又六さんを狙ってたんですか」 弥吉が固まる。 朔は宗七を見る。 「そう考えた理由は」 「弥吉があそこに誰か隠してるのは、もう分かってます」 「宗七!」 「名前も聞いた」 「言うなよ!」 「言ってないよ」 宗七は朔へ視線を戻した。 「忍びが離れを探っていたなら、狙いは又六さんでしょう。弥吉があれだけ必死になる相手なら、何か事情があると思ってました」 朔は少し考える。 「事情はあります」 「でしょうね」 「詳しくは申せません」 「聞きません」 即答だった。 朔の眉がわずかに上がる。 宗七は紙片を指す。 「ただ、次に同じ印を見つけたら教えてください。続きが気になります」 「好奇心ですか」 「勉強です」 「同じでは」 「違います」 弥吉が吹き出した。 **** 数日後。 「梅枝殿」 廊下で呼び止められ、宗七が振り返る。 朔だった。 手には細長い包み。 「先日の礼です」 「礼?」 「借りは返しておきたいので」 「僕、別に――」 「受け取ってください」 宗七は包みを受け取った。 軽い。 本だ。 紐を解く。 表紙が見えた。 宗七の動きが止まる。 『西嶺兵談』 「…………」 後ろから来た弥吉が肩越しに見る。 「何それ?」 宗七は答えない。 「宗七?」 「……本物?」 朔が淡々と答える。 「写しです」 「どこの?」 「さあ」 「これ、幕府蔵本の写しですよね」 「私は何も申しておりません」 「紙が違う。大都の普通の写本じゃない。文字も、ここ……この注釈、前に聞いたことがある」 宗七の声が早くなる。 弥吉が目を丸くした。 「そんなすごい本なの?」 宗七が振り向いた。 「すごいよ!」 弥吉が少し引く。 宗七がこんな大声を出すことは珍しい。 「これ、現存してる写本がほとんどないんだよ。僕、ずっと読みたかった」 朔が去ろうとする。 宗七がすぐ追った。 「待ってください」 「何でしょう」 「これ、いつまで借りていいんですか」 「差し上げます」 宗七が止まる。 「……え?」 「先日の礼です」 「これを?」 「はい」 「僕に?」 「そう申しております」 宗七は本と朔を交互に見た。 「本当に?」 「二度聞かれても変わりません」 宗七の口元が、ゆっくり上がった。 「ありがとうございます」 いつもの穏やかな笑いではなかった。 完全に子供のような笑顔だった。 弥吉が横で笑う。 「宗七、そんな顔するんだ」 「弥吉、今話しかけないで」 「なんで?」 「すぐ読みたい」 「飯は?」 「あと」 「授業は?」 「それは行く」 「そこはちゃんとしてるな」 宗七はすでに本を開いていた。 **** 翌朝。 弥吉が食堂へ来ると、宗七は机に突っ伏していた。 目の下が少し暗い。 「まさか、一晩で読んだ?」 宗七が顔を上げる。 「二回」 「寝ろよ!」 「面白かったから」 「限度あるだろ」 綾之丞が向かいへ座る。 「肌荒れるよ」 「それは困る」 「そこ?」 宗七は気にせず本を開いた。 付箋代わりの細い紙が何枚も挟まっている。 「面白いことが書いてあった」 「何?」 弥吉が握り飯を頬張る。 宗七は一節を指した。 「兵を読む前に将を読め」 「人を見るってこと?」 弥吉が言う。 宗七は少し止まった。 「……君、すぐそこへ行くね」 「又六さんにも似たようなこと言われた」 「また又六さんか」 「何だよ」 「別に」 宗七は続きを指す。 「戦で相手の考えを読む訓練として、将棋が挙げられてる」 綾之丞が欠伸をする。 「宗七、将棋できるの?」 「少し」 「弱そう」 「なぜ」 「考えすぎて時間かかりそう」 宗七が綾之丞を見る。 「今日やる?」 「やらない」 「逃げるんだ」 「煽ってもやらないよ」 弥吉が笑った。 「俺やる」 「弥吉?」 「何」 「たぶん君、弱いよ」 「まだやってないだろ!」 **** その日の夕方。 「そこ」 宗七が駒を置く。 「……もう?」 弥吉は盤を見た。 「もう」 「俺まだ結構残ってるよ」 「王将を取られたら終わりだからね」 「つまんない!」 「将棋が?」 「宗七とやる将棋が!」 「負けたからって競技のせいにしないで」 弥吉は盤へ突っ伏した。 宗七は駒を並べ直す。 「もう一局」 「さっき圧勝しただろ」 「別の打ち方を試したい」 「俺、実験台?」 「うん」 「隠せよ!」 そこへ影が落ちた。 朔だった。 「将棋ですか」 宗七の目が上がる。 「できます?」 「多少は」 弥吉が嫌な予感を覚えた。 宗七はすでに盤の向こうを空けている。 「一局お願いします」 朔が宗七を見る。 「私と?」 「『西嶺兵談』を持ってきた人なら、できるでしょう」 朔は少しだけ黙った。 「一局だけです」 「お願いします」 弥吉は脇へ退いた。 「俺より絶対面白そう」 「比較になりません」 「ひどいな」 対局が始まった。 宗七は強かった。 弥吉でも分かる。 迷いがない。 朔が駒を動かすたび、宗七は少し考え、すぐ返す。 序盤。 互角。 中盤。 宗七が攻める。 「そこへ来ますか」 朔が言う。 「困ります?」 「少々」 宗七は微笑んだ。 数手後。 朔が駒を置く。 宗七の笑みが消えた。 「……あれ」 弥吉には何が起きたのか分からない。 さらに数手。 宗七が長く考える。 「ここ」 朔が返す。 「では、こちら」 宗七の指が止まる。 盤を見つめる。 「……参りました」 弥吉が驚いた。 「負けたの?」 「負けた」 「宗七が?」 「僕だって負けるよ」 そう言いながら、納得していない。 宗七は盤を見たまま言う。 「もう一局」 「一局だけのお約束です」 「じゃあ教えてください」 「何を」 「どこで僕の手を読んだんです?」 朔は宗七を見る。 「最初からです」 「最初から?」 「梅枝殿は盤を見て、私が打つべき手を読んでおられる」 「そうです」 「私は梅枝殿を見て、あなたが打ちたがっている手を読んでおりました」 宗七が黙る。 朔は駒を一つ持った。 「攻めたい時は指が速い。仕掛けを置いた後は、私の返しを見る前に盤の右側へ視線が寄る」 宗七の目が少し大きくなる。 「そんなところまで?」 「隠密ですので」 「それは将棋の技術じゃないでしょう」 「戦で敵が定石通りに動く保証もございません」 宗七は盤へ視線を戻した。 朔が立ち上がる。 「兵法がお好きなら、盤だけでなく相手もお読みなされ」 「……はい」 朔が去る。 宗七はしばらく動かなかった。 弥吉が盤の横から覗く。 「悔しい?」 「かなり」 「もう一回俺とやる?」 宗七が弥吉を見る。 「やる」 「よし」 「今度は君も見る」 「怖い言い方するなよ」 **** 数日後。 離れの縁側で、又六が弥吉へ紙を一枚渡した。 「課題だ」 「またですか」 「天下を取るんだろう」 「言いましたけど」 弥吉は紙を開いた。 山。 川。 城。 村が三つ。 兵数まで書かれている。 「敵一万。こちら五千。七日持たせろ。ただし村を焼くな。民から兵糧も奪うな」 弥吉は紙を見た。 又六を見る。 また紙を見る。 「無理じゃないですか?」 「考えろ」 「一万ですよ?」 「聞こえている」 「五千しかいない」 「書いてある」 「村焼いちゃ駄目」 「そうだ」 「飯も取っちゃ駄目」 「その通り」 弥吉は紙を畳みかけた。 「宗七に聞いてきます」 「自分で考えろ」 「俺が考えたあと一緒に考えます」 又六が笑った。 「それならいい」 **** 宗七は課題を見るなり、目を輝かせた。 「面白いね」 「俺、もう嫌なんだけど」 「まず川を使う」 宗七は紙へ線を引く。 「ここに陣を置く。山側へ兵を伏せて、敵の進路を二つに絞る。村から兵糧を取れないなら、こちらは事前に補給路を確保する必要がある」 弥吉は頷く。 「敵は?」 「敵も食べる。こちらが村を焼けないなら、敵もこの村を使おうとする可能性が高い」 宗七は次々書き込んでいく。 弥吉はしばらく見ていた。 「……なあ」 「何?」 「敵の大将、村の祭りに呼べないかな」 宗七の筆が止まった。 「何?」 「祭り」 「聞こえたよ」 「この村、真ん中にあるだろ」 「あるね」 「敵もこっちも使いたいなら、村の人たちに『両方とも荒らすな』って言ってもらう」 宗七は弥吉を見る。 「一万の軍勢相手に?」 「だから大将を呼ぶんだよ。村で飯出して、酒飲ませて」 「戦の最中だよ」 「でも敵の大将だって、村人全員敵に回したくないだろ。道も井戸も知らないんだから」 宗七は黙った。 弥吉は紙を指す。 「それに大将が一回来た村なら、部下も勝手に焼きづらくない?」 「……」 「駄目?」 宗七はしばらく弥吉を見た。 それから、小さく笑った。 「君、やっぱりたまに怖いね」 「なんで?」 「僕は兵をどう動かすか考えてた」 「うん」 「君は敵の大将を祭りに呼ぼうとしてる」 「駄目じゃん」 「まだ決めてない」 宗七は紙へ新しい線を引いた。 「村を中立地帯にするなら、使えるかもしれない」 弥吉の目が輝く。 「ほんと?」 「敵将が来る理由を作らないとね」 「それ宗七考えて」 「急に僕へ投げたね」 「得意だろ?」 宗七は笑った。 「まあね」 **** 翌日。 又六は二人分の答案を見た。 ほとんどは宗七の字。 地形。 補給。 兵の配置。 その途中に、明らかに違う字で、 『村の祭礼へ敵将を招く』 と書かれている。 又六の指が止まった。 「これは」 弥吉が胸を張る。 「俺です」 「だろうな」 「なんで分かったんですか」 「梅枝がこんなことを書くとは思えん」 宗七が隣で笑う。 「僕も最初は同じことを思いました」 又六はもう一度答案を見る。 「敵将が断れば?」 弥吉が答える。 「断ったら、村の人には『敵は話を聞かない』って分かる」 「来たら?」 「村を荒らしにくくなる」 「祭りの場で捕らえるのか」 弥吉は首を振った。 「そんなことしたら、次から誰も話聞いてくれないでしょう」 又六が弥吉を見る。 「では、何のために呼ぶ」 「話すためです」 即答だった。 「敵だって腹減るし、兵を死なせたくないでしょう。こっちは五千しかいない。七日持たせるだけなら、戦わない日が一日増えるだけでも得じゃないですか」 又六は黙った。 宗七は又六の反応を静かに見ている。 やがて又六が答案を置いた。 「面白い」 弥吉が笑う。 「やった」 「成功する保証はない」 「はい」 「敵将によっては使えん」 「はい」 「だが、考える価値はある」 「宗七もそう言いました」 又六が宗七を見る。 「良い友を持ったな」 弥吉が頷く。 「はい。俺一人だと祭りに呼んで終わってました」 「自覚はあるんだな」 「ありますよ」 宗七がくすっと笑った。 又六は答案をもう一度見た。 宗七の緻密な線。 その中へ、一本だけ横から割り込んだ弥吉の案。 「……なるほどな」 弥吉が首を傾げる。 「何がです?」 又六は答案を弥吉へ返した。 「次の課題も同じ二人で考えろ」 「またあるんですか?」 「天下は遠いぞ」 「うわぁ」 宗七は隣で楽しそうに笑っていた。

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