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第10話 好きだから選べない
「藤房。まだ決めていないのか」
兼重の声に、綾之丞は笑顔を作った。
「決めますよ。今日中には」
「昨日も聞きました」
「昨日より候補は絞りました」
「何人から何人へ」
綾之丞は黙った。
兼重が眉を上げる。
「藤房」
「……いっぱいから、いっぱいです」
「絞れていません」
性愛科の実習室。
来週の試験では、塾生が自分で相手を選び、これまで学んだことを一通り見せることになっている。
相手は塾生でも、同意を得た教師でもよい。
誰と組むか。
それも試験の一部だった。
弥吉はすでに相手を決めている。
宗七も決めた。
源八は「誰でも同じだ」と言って、その場で頼まれた相手を引き受けた。
そして、性愛科首席の綾之丞だけが決まっていない。
兼重は腕を組んだ。
「相手を選ぶところから始まっています」
「分かってますって」
「なら決めなさい」
「はい」
兼重が離れていく。
弥吉は隣から覗き込んだ。
「与平先生に頼めばいいじゃん」
綾之丞の顔から笑みが消えた。
「無理」
「なんで?」
「無理だから」
「説明になってない」
綾之丞は道具を片づけながら、弥吉を睨んだ。
「お前には分かんないよ」
「分かんないから聞いてる」
「それが腹立つ」
「理不尽だな」
宗七が後ろから入ってくる。
「まだ決まってないの?」
「宗七まで来た」
「弥吉が呼んだ」
「呼んでない」
「顔に書いてあった」
「宗七、最近人読むの楽しくなってない?」
「少しね」
綾之丞はため息をついた。
「放っといて」
弥吉と宗七は目を合わせた。
放っておく気はなかった。
****
昼休み。
三人は中庭の隅に座っていた。
綾之丞は握り飯を持ったまま、ほとんど食べていない。
弥吉が言う。
「好きなんだろ?」
「好きだよ」
「じゃあ頼めばいい」
「だから無理なんだって」
「好きじゃない相手なら頼めるの?」
「頼める」
即答だった。
弥吉がますます分からない顔をする。
「なんで?」
綾之丞は握り飯を見つめた。
「好きだから選べない」
今度は弥吉が黙った。
宗七は何も言わず待った。
綾之丞は少しして続ける。
「試験なら、俺はちゃんとできる。誰と組んでも」
「うん」
「相手がどうしてほしいか見るのも、喜ばせるのも、自信ある」
弥吉が頷く。
それは誰も疑っていない。
「でも与平先生だと、試験だから頼んだのか、本当に先生がよかったのか、自分でも分かんなくなりそうで嫌なんだよ」
「先生が嫌がったら?」
宗七が静かに聞く。
綾之丞の指が止まった。
「……それが一番嫌」
宗七はすぐに納得した。
「断られるのが怖いんだ」
「言うなよ」
「今、自分で言ったようなものじゃない」
「宗七って最近容赦なくなったよな」
「勉強中だから」
弥吉はまだ考えていた。
「でもさ」
「何」
「頼まなかったら、断られることもないけど、選んでももらえないだろ」
綾之丞が弥吉を見る。
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃないよ」
弥吉は少し笑った。
「俺だって、源八に勝てないの分かってても毎回挑むし」
「剣と一緒にする?」
「好きな人に頼む方が怖い?」
「……怖い」
「じゃあ、そっちの方が大変なんだな」
弥吉は妙に真面目に頷いた。
「なら、なおさらやった方がいいじゃん」
綾之丞は呆れた。
「何その理屈」
「怖い方から逃げたら、あとで絶対悔しい」
宗七が笑う。
「弥吉らしい」
「褒めてる?」
「今回は」
「今回はって何だよ」
綾之丞は二人を見た。
「お前ら、人の恋だと思って好き放題言うよな」
「だって見てる方がじれったい」
弥吉が言う。
宗七も頷いた。
「かなり」
「宗七まで!」
そこへ源八が通りかかった。
「何を騒いでる」
弥吉が即答する。
「綾之丞が好きな先生に試験の相手頼めない」
「弥吉!」
源八は綾之丞を見る。
「頼めばいいだろ」
綾之丞が頭を抱えた。
「こいつも同じこと言う!」
「嫌われてるのか」
「多分そこまでじゃない」
「なら頼め」
「お前ら三人、恋愛向いてなさすぎ!」
宗七が笑った。
「でも結論は同じだね」
「最悪」
****
午後。
化粧科の授業が終わる。
塾生たちが次々と教室を出ていく。
綾之丞だけが残った。
与平は机の上の道具を片づけている。
いつもと同じ。
無駄のない動き。
綾之丞は何度も口を開きかけた。
声が出ない。
剣を持った敵の前に出る方が、まだ簡単かもしれない。
「藤房」
与平がこちらを見た。
「何か用か」
「……あります」
「言え」
綾之丞は一度息を吸った。
普段なら、もっと上手く言える。
相手が喜ぶ言葉も、自分が魅力的に見える角度も知っている。
今日は全部使えなかった。
「先生」
「何だ」
「来週の性愛科の試験なんですけど」
与平は黙って聞いている。
「相手、まだ決まってなくて」
「そうか」
「先生。俺と組んでください」
言えた。
綾之丞はそのまま与平を見る。
心臓がうるさい。
与平は少しだけ目を細めた。
「私でいいのか」
「違います」
綾之丞はすぐ言った。
与平の眉が動く。
綾之丞は拳を握った。
「先生がいいんです」
静かになった。
廊下から、遠くの話し声だけが聞こえる。
与平は綾之丞を見ている。
長い。
長すぎる。
綾之丞は逃げたくなった。
「分かった」
一言。
それだけだった。
「……え?」
「引き受ける」
綾之丞の顔が一気に熱くなる。
「ほんとに?」
「自分から頼んでおいて驚くな」
「いや、だって」
「試験だろう」
「はい」
「なら、準備しておけ」
「はい」
与平はいつもの顔で道具へ戻る。
綾之丞だけが動けなかった。
「藤房」
「はい!」
「帰らないのか」
「あ、帰ります!」
綾之丞は頭を下げ、教室から出た。
廊下の角まで歩く。
そこで壁へ額をつけた。
「……無理」
顔が熱い。
今すぐ叫びたい。
「何が無理?」
横から弥吉の声。
綾之丞が飛び上がった。
「なんでいるの!?」
柱の陰から弥吉、宗七、源八が出てきた。
「待ってた」
「最悪!」
宗七が楽しそうに聞く。
「どうだった?」
綾之丞は三人を睨んだ。
それから小さく言った。
「……引き受けてくれた」
弥吉が笑う。
「よかったじゃん!」
「声でかい!」
源八は腕を組む。
「なら終わりだな」
「お前は帰れ!」
宗七が綾之丞の顔を見る。
「耳まで赤いよ」
「見るな!」
「弥吉、この前より赤い」
「ほんとだ」
「お前らぁ!」
****
試験当日。
綾之丞は、いつも通りよくできた。
兼重からも大きな指摘はなかった。
実習が終わり、綾之丞は衣服を整える。
与平も静かに身支度を整えていた。
試験としては終わった。
綾之丞はそれだけで十分だった。
頼めた。
断られなかった。
最後まで逃げなかった。
「藤房」
与平に呼ばれる。
「はい」
綾之丞はすぐ振り返った。
与平は綾之丞の髪を一度見た。
「最後まで相手を見ていたな」
綾之丞の目が少し大きくなる。
兼重に何度も言われたことだった。
自分を美しく見せることへ気を取られすぎる。
相手を見ろ。
「……はい」
「良くなった」
与平がほんの少し笑った。
本当に少しだけ。
綾之丞の頭の中が真っ白になった。
「藤房?」
「……はい」
「聞いていたか」
「はい」
「ならいい」
与平はそのまま離れていく。
綾之丞は立ち尽くした。
しばらくして、弥吉たちのところへ戻る。
弥吉が顔を見るなり言った。
「どうした?」
綾之丞は無言で弥吉の肩を掴んだ。
「与平先生が」
「うん」
「笑った」
宗七がすぐ吹き出した。
「それだけ?」
「それだけじゃない!」
「何て言われた?」
「良くなったって」
弥吉がにやっとする。
「よかったな、綾」
「その顔やめろ」
「嬉しいんだろ?」
「……嬉しいよ」
綾之丞は両手で顔を覆った。
「めちゃくちゃ嬉しい」
宗七が笑っている。
源八まで少し口元を緩めた。
綾之丞は指の間から三人を見る。
「お前ら、絶対誰にも言うなよ」
弥吉が首を傾げた。
「何を?」
「俺がこんなになってること!」
「もう遅くない?」
「弥吉!」
綾之丞の声が廊下に響いた。
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