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第12話 忍びの狙い
「若公方はこの中だ。見つけろ。――塾生には、邪魔されるまで手を出すな」
紅林甚八は、雄室塾の高い塀を見上げた。
旅商人の着物。
日に焼けた手。
どこにでもいる男に見える。
その横には、荷担ぎ姿の男が二人。
「中へ入った者が失敗しました」
「だから斬り合うなと言っている」
甚八は塀から視線を外した。
「欲しいのは居場所だ。誰と会い、どこを通り、逃がすならどの門を使うか。それだけ見ろ」
「は」
「雄室塾は面倒だ。中で騒ぎを起こせば、こちらの動きまで縛られる」
甚八は歩き出す。
「商人になれ。人足になれ。顔を覚えられる前に姿を替えろ」
二人も後へ続いた。
****
三日後。
「弥吉」
綾之丞が小声で呼んだ。
昼の化粧科を終え、二人は渡り廊下を歩いていた。
「何?」
「後ろ見ないで」
「え?」
「見ない」
弥吉は正面を向いたまま歩く。
綾之丞は声だけを落とした。
「同じ男を三回見た」
「誰?」
「荷物運んでる人」
今日は塾へ布、紙、油などが納められる日だった。
許可を受けた商人や人足が、裏門と倉の間を行き来している。
「何度も通ってるだけじゃない?」
「服が違う」
弥吉の眉が寄る。
「どういうこと?」
「最初は油屋の手伝い。次は紙問屋の人足。今は布屋」
「同じ顔なの?」
「髭を足してる。髪も結び直してる。でも同じ男」
「なんで分かるんだよ」
「左の眉。生え方が少し上がってる」
綾之丞は自分の耳の後ろを指で示した。
「あと、髪を染めた跡がここに残ってる」
弥吉の表情が変わった。
「何見てる?」
「人より、道」
「道?」
「曲がり角、裏門、塀、屋根。話しかけた相手を見るふりして、その向こうを見てる」
弥吉は足を止めそうになった。
綾之丞が袖を引く。
「歩いて」
「ごめん」
「こういう時だけ素直だな」
二人は角を曲がった。
相手から姿が見えなくなってから、弥吉が言う。
「宗七に話そう」
「宗七?」
「俺たちだけじゃ、何を調べてるのか分かんない」
綾之丞が少し笑った。
「それはそうだね」
****
宗七は話を聞くと、すぐ紙を広げた。
「見た場所を教えて」
綾之丞が三か所を指す。
油の倉。
井戸近く。
西側の渡り廊下。
宗七が位置を書き込む。
弥吉が横から覗く。
「分かる?」
「まだ」
宗七は三点を線で結んだ。
「全部ここが見える」
筆先が、離れへ続く道を指した。
弥吉の顔から笑みが消える。
「又六さん?」
「決めるのは早いよ」
宗七は紙を回した。
「その男、誰かへ近づこうとしてた?」
綾之丞が首を振る。
「見てるだけ」
「戸に印をつけたり、物を置いたりは?」
「してないと思う」
宗七はしばらく考えた。
「襲うために来たんじゃないかもしれない」
「なんで?」
「綾之丞の話だと、その人は誰か一人を追ってない。道と出入りを見てる」
宗七は裏門、西門、離れの位置を順番に指した。
「誰がどこを通るか。どの道なら外へ出せるか。見張りがどこにいるか」
「下見か」
「その可能性は高い」
弥吉が立ち上がる。
「又六さんに言ってくる」
「待って」
宗七の声で止まった。
「今、弥吉が慌てて離れへ向かったら?」
弥吉は固まる。
綾之丞が答えた。
「そこに大事な人がいるって教えることになる」
「そう」
弥吉はゆっくり座り直した。
「危なかった……」
宗七が紙を見つめる。
「まず、相手が何を知りたいのか確かめたい」
「どうする?」
「源八はどこ?」
「道場」
「呼ぼう」
****
「追えばいい」
話を聞き終えた源八はそう言って、木刀へ手を伸ばした。
だが、立ち上がらない。
木刀を握ったまま、少し考える。
「……朔なら、どうする」
宗七が源八を見る。
「追わないと思う」
「理由は」
「向こうが見たいものを隠すか、別のものを見せる」
源八は木刀を膝へ置いた。
弥吉が言う。
「じゃあ源八、離れの近くにいてよ」
「お前は」
「朔さん探す」
源八が弥吉を見る。
「一人で行くな」
「塾の中だよ」
「それでもだ」
弥吉は綾之丞を見る。
「一緒に来て」
「俺?」
「目がいいし」
「護衛じゃなくてそっちか」
宗七が笑う。
源八は立ち上がった。
「俺は離れへ行く。変な奴を見ても追わん」
弥吉が少し笑った。
「分かった」
「お前も走るな」
「なんで?」
「目立つ」
「……分かった」
****
朔は、塾の外れにある物置の裏にいた。
見つけたのは綾之丞だった。
「いた」
「よく分かったな」
今日の朔は商家の手代の姿をしている。
髪型も着物も普段と違う。
綾之丞は当然のように言った。
「朔さんは朔さんじゃん」
朔が二人を見る。
「何かございましたか」
弥吉が事情を話す。
朔は途中から口を挟まず、最後まで聞いた。
「梅枝殿は」
「道とか出入りを調べてるんじゃないかって」
「藤房殿は」
「同じ男が三回姿を変えてる」
朔は綾之丞を見る。
「顔を覚えておられますか」
「かなり」
「衣服と髪をまた替えても?」
「たぶん分かる」
「では一つ、お願いがございます」
綾之丞が少し嬉しそうにする。
「何?」
「その男だけを見ないでください」
「え?」
「彼が誰を見るかを見ていただきたい」
綾之丞が一瞬黙る。
それから目を細めた。
「仲間か」
「はい」
弥吉が頷く。
「なるほど」
朔は弥吉へ向き直った。
「松波殿は?」
「離れの近く。誰か見つけても追うなって言ってあります」
朔の眉が少し上がった。
「そうですか」
「何です?」
「いえ。良い判断です」
弥吉がにやっとする。
「源八に言っときます」
「ご本人へお願いします」
****
夕方。
西側の回廊。
綾之丞は友人と話すふりをしながら、視界の端で例の男を追っていた。
今度は商家の番頭風。
髭は消えている。
髪型も違う。
それでも同じ男だ。
男は井戸を見る。
離れへ続く道を見る。
次に塀の方へ視線を流した。
その先に、薪を運ぶ老人がいる。
ほんの一瞬。
二人の目が合った。
綾之丞は歩きながら弥吉の袖を軽く引く。
「いた」
「どっち」
「薪運んでる爺さん」
弥吉は振り向かない。
「分かった」
「見てないのに?」
「あとで教えて」
「それは分かったって言わない」
二人はそのまま宗七のところへ向かった。
宗七は報告を聞き、二人の位置を紙へ書く。
「一人は離れを見る。一人は西門を見る」
「何を知りたいんだろ」
弥吉が聞く。
「離れにいる人間が、どこから外へ出るか」
宗七は筆の尻で西門を叩いた。
「誰かを逃がす時の道を探してるんじゃないかな」
弥吉は紙を見る。
「じゃあ、こっちから逃げるふりしたら?」
宗七の筆が止まった。
二人の目が合う。
「……同じこと考えた」
「ほんと?」
「荷車を一台出す。中身が見えないようにして、わざとそれらしい話をする」
弥吉の顔が明るくなる。
「朔さんに言おう」
宗七が少し笑った。
「今日は忙しいね」
「俺?」
「弥吉があちこち走って人を繋いでる」
「だって、綾之丞だけじゃ狙いまで分かんないし、宗七だけじゃ変装見つけられないし」
「それでいいと思うよ」
弥吉は少しきょとんとした。
「何が?」
「いいから。朔さんのところ行って」
「分かった」
弥吉が立つ。
宗七が付け足す。
「歩いて」
「……はい」
****
日が落ちる少し前。
一台の小さな荷車が西門へ向かった。
商人風の男が一人。
荷台には大きな長持。
その横を、塾の使用人らしい男が歩いている。
「今夜のうちに葛木殿を出すそうだ」
使用人が低い声で言った。
「西の宿場までか?」
「その先は知らん。追っ手が来る前に急ぐらしい」
短いやり取り。
荷車が門を抜ける。
少し離れた物陰で、番頭姿の男が動いた。
薪運びの老人も反対側へ消える。
屋根の陰から朔が見送る。
「二人」
背後から綾之丞が声を落とした。
「もう一人、裏門の近くにいた」
「姿は」
「若い人足。荷車を見たあと東へ走った」
朔が頷く。
「十分です」
「中は空なんだよね?」
「もちろんです」
「又六さんは?」
「離れにおります」
綾之丞は小さく息を吐いた。
「弥吉、ずっとそわそわしてたから」
「でしょうな」
****
離れ。
又六は縁側で茶を飲んでいた。
弥吉はその前を何度も行ったり来たりしている。
源八は戸口近くに座り、外を見ていた。
宗七は紙へ何かを書き込んでいる。
「本当に大丈夫なんですか」
弥吉がまた聞く。
「大丈夫だ」
「荷車追われてるんですよね」
「空だろう」
「分かってるけど」
又六が湯呑みを置いた。
「座れ」
「落ち着かない」
「歩き回られる方が落ち着かん」
弥吉は渋々座る。
源八が言った。
「朔がやってる」
弥吉が源八を見る。
「すごい信用してるな」
「強いからな」
「そこなんだ」
宗七が笑った。
戸が開く。
朔と綾之丞が入ってきた。
「西へ二人。東へ一人、動きました」
又六が頷く。
「狙いは」
宗七が紙を置いた。
「離れの人間そのものより、外へ出す時の道を調べていたんだと思います」
朔が宗七を見る。
「私も同じ見立てです」
宗七の顔が少し明るくなる。
綾之丞が座る。
「姿を変えてた人も、仲間も見つけた」
源八が朔へ聞く。
「捕まえないのか」
「今捕らえれば、別の者が来るでしょう」
「なら、偽物を追わせたままにする」
「はい」
源八は頷いた。
弥吉が全員を見る。
「じゃあ、うまくいった?」
「はい」
朔が答える。
弥吉は指を折った。
「綾之丞が変装見つけて、宗七が狙い考えて、源八がここ守って、朔さんが騙した」
「萩森殿も」
「俺?」
「皆を必要な場所へ繋いだでしょう」
弥吉は少し黙った。
「それだけですけど」
又六が口を開く。
「それができる奴は少ない」
弥吉が振り向く。
又六は四人を見る。
「藤房の目も、梅枝の頭も、松波の剣も、お前一人にはない」
「はい」
「だから借りた」
弥吉は瞬いた。
「借りていいんですかね」
綾之丞がすぐ答える。
「勝手に借り物扱いするなよ」
「手伝ってくれたじゃん」
「俺が自分でやったの」
宗七も笑う。
「僕も貸された覚えはないかな」
源八が言う。
「必要なら呼べばいい」
三人が源八を見る。
「何だ」
弥吉が笑った。
「源八が一番優しいこと言った」
「違う」
「今のは優しかった」
「違う」
綾之丞まで笑い出す。
又六はその様子を見ながら、もう一度茶を口へ運んだ。
****
大都の外れ。
番頭姿の男が、暗い部屋へ入った。
待っていた甚八が顔を上げる。
「どうだった」
「若公方と思われる男を、西へ出しました」
「誰が見た」
「三人です」
「荷の中身は」
「確認できませんでした」
甚八は少し黙る。
「東へ走った者は」
「別働へ伝えております」
「そうか」
甚八は指で膝を一度叩いた。
「西を追え」
「は」
部下が去る。
甚八は一人、目を閉じる。
変装を見抜いた者がいる。
こちらの視線を読み、追わずに偽の道を見せた者がいる。
一人の働きではない。
「……塾生か」
甚八は静かに笑った。
「面倒なのが揃っているな」
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