14 / 19

第14話 また戦場で

夜が明ける少し前。 弥吉は離れの縁側に座っていた。 隣には又六。 庭はまだ薄暗い。 昨夜は剣を振った。 軍略の課題も一つ解いた。 最後は、言葉より近いところまで互いに触れた。 それでも朝は来る。 弥吉は膝を抱えた。 「眠くないですか」 「少しな」 「俺も」 「寝ればよかっただろう」 「最後なのに?」 又六が弥吉を見る。 弥吉はすぐ付け足した。 「ここにいるのが、です」 「分かっている」 「ならいいです」 少し静かになる。 弥吉は庭を見る。 「又六さん」 「何だ」 「帰ったら、危ないんですか」 又六はすぐには答えなかった。 「多少は」 「多少」 「心配するな」 「無理ですよ」 「そうか」 「そうです」 弥吉は唇を尖らせた。 「俺、何も知らないし」 「知らん方がいいこともある」 「それも分かってます」 「なら」 「分かってるのと、気になるのは別です」 又六が笑った。 「お前は本当に面倒だな」 「昨日も言われました」 「何度でも言う」 弥吉も少し笑った。 そのあと、しばらく誰も話さなかった。 **** 空が白み始める頃、荷を持った朔が来た。 「又六殿」 弥吉の前だからか、今日はそう呼んだ。 「準備は」 「できている」 朔は弥吉へ頭を下げる。 「萩森殿。これまで、お世話になりました」 「俺、朔さんにはそんなに何もしてないですよ」 「十分です」 「そうですか?」 「はい」 朔はそれ以上説明しなかった。 弥吉は少し考えてから、頭を下げ返した。 「朔さんも、気をつけて」 「ありがとうございます」 又六が荷を肩へ掛ける。 弥吉の胸の奥が急に詰まった。 本当に行く。 昨日から分かっていたのに、荷を持った姿を見ると急に現実になる。 「門まで行きます」 「来なくていい」 「行きます」 「目立つぞ」 「塾の門まででしょう」 又六が少し呆れた顔をする。 「頑固だな」 「知ってるでしょう」 「知っている」 三人で離れを出た。 **** 朝の雄室塾は静かだった。 厨房から湯気が上がり、早起きの塾生が何人か井戸へ向かっている。 弥吉は又六の少し後ろを歩いた。 途中、道場の前で源八が待っていた。 「行くのか」 又六が頷く。 「ああ」 源八は朔を見る。 「また稽古できるか」 朔は少しだけ考えた。 「機会があれば」 「そうか」 それだけ言って、源八は道を空けた。 宗七も来た。 手には本を抱えている。 「又六さん」 「何だ」 「一つだけ聞いていいですか」 「答えられることなら」 「本当に下級武士ですか?」 弥吉がぎょっとした。 「宗七!」 又六の口元が少し上がる。 「どう思う」 「違うと思ってます」 「なら、そのまま考えていろ」 宗七は少し笑った。 「やっぱり答えないんですね」 「悪いな」 「いえ。面白いので」 綾之丞も遅れて走ってくる。 「間に合った?」 「何に」 「見送り」 綾之丞は又六を上から下まで見た。 「へえ」 「何だ」 「弥吉が好きになるの分かるなって」 弥吉が固まった。 「は?」 又六も一瞬黙る。 綾之丞は笑った。 「冗談」 「今それ言う!?」 「顔赤いよ」 「赤くない!」 宗七が横を向いて笑っている。 源八まで微妙に口元を動かした。 又六だけが、妙に機嫌よさそうだった。 「何笑ってるんですか」 「いや」 「又六さんまで!」 朝の静かな庭に、弥吉の声が響いた。 **** 門が近づく。 典膳が一人立っていた。 弥吉は足を止めそうになった。 又六が見つかった。 そう思った。 典膳は又六を見る。 「行くか」 「ああ」 弥吉の目が大きくなる。 知ってる。 典膳は朔にも頷いた。 「道中、気をつけられよ」 「お世話になりました」 朔が頭を下げる。 弥吉は完全に止まった。 「……塾長先生?」 典膳が弥吉を見る。 「何だ」 「又六さんのこと、知ってたんですか」 「知っていた」 「いつから」 「最初からだ」 沈黙。 弥吉の口が少し開く。 「最初から?」 「そうだ」 「じゃあ俺……」 離れへ握り飯を運び。 先生に見つからないように廊下を避け。 聞かれて「行ってません!」と答え。 必死に秘密を守っていた。 典膳は全部知っていた。 弥吉はゆっくり又六を見る。 又六が目を逸らした。 「又六さん」 「何だ」 「知ってました?」 「何を」 「俺が先生たちに隠してるつもりだったこと」 「……まあ」 「まあ?」 綾之丞が吹き出した。 宗七も耐えられなかった。 弥吉の顔が赤くなる。 「誰か言ってくださいよ!」 典膳が平然と答える。 「聞かれなかった」 「そういう問題ですか!?」 「塾の法に反する者なら、とっくに追い出している」 「じゃあ喜庵先生も?」 典膳は答えなかった。 その沈黙で十分だった。 弥吉は頭を抱えた。 「うわあ……」 又六が肩を震わせている。 「笑うな!」 「すまん」 「絶対すまないと思ってない!」 「少しは」 「少し!」 門前に笑いが広がった。 典膳だけはいつもの顔だった。 「萩森」 「はい……」 「朝の授業に遅れるな」 「今それ言います?」 「塾生だからな」 弥吉はがっくり肩を落とした。 **** 門の外。 ここから先は塾ではない。 又六と朔が立っている。 弥吉は門の内側にいた。 たった数歩なのに、妙に遠く感じる。 「じゃあな」 又六が言った。 弥吉はすぐ返せなかった。 「……又六さん」 「何だ」 「また会えますか」 又六の表情が少し変わる。 弥吉は笑おうとした。 「どっかの戦場とかでもいいんで」 又六は弥吉をしばらく見た。 「生きていればな」 弥吉の眉が寄る。 「縁起悪いこと言わないでください」 「戦の世だ」 「じゃあ生きててください」 「お前もな」 「俺は卒業します」 「そこは決定なんだな」 「当たり前でしょう」 弥吉は胸を張った。 「ちゃんと雄室になります」 又六が少し笑う。 「そうか」 「次会った時、まだ何もできないって思われたくないし」 「十分できるだろう」 「もっとです」 「欲張りだな」 「知ってるでしょう」 「ああ」 又六は一歩近づいた。 門を挟んで、弥吉の頭へ手を置く。 いつものように少し乱す。 「頑張れ、弥吉」 弥吉は一瞬だけ目を伏せた。 すぐ上げる。 「又六さんも」 「ああ」 手が離れる。 又六と朔が歩き出した。 弥吉は門のところに立ったまま見送った。 振り返るな。 そう思ったのに。 又六が一度だけ振り返った。 弥吉は大きく手を振った。 又六も片手を上げる。 それから二人の姿は、大都の朝の中へ消えていった。 弥吉はしばらくその場に立っていた。 やがて、背後から源八が言う。 「授業」 「あ」 典膳にも言われた。 弥吉は慌てて振り返る。 「やばい!」 走り出す。 宗七が呆れる。 「見送りで遅刻したら格好つかないよ」 「分かってる!」 綾之丞が笑いながら追う。 「顔ひどいけど大丈夫?」 「何が!」 「寂しそう」 弥吉は一瞬だけ黙った。 それから走りながら答えた。 「寂しいよ!」 綾之丞が少し驚く。 弥吉は前を向いたまま続ける。 「でも授業はある!」 宗七が笑った。 「弥吉らしいね」 「だから急げって!」 四人は道場へ走った。 **** その夜。 弥吉は布団に入っても、なかなか眠れなかった。 天井を見る。 又六の声を思い出す。 剣を教えてくれた。 話を聞いてくれた。 くだらない話でも笑った。 自分が触れると、たまに余裕のある顔が崩れた。 名前を呼ばれるだけで、妙に胸が熱くなった。 他の相手とは違った。 ずっと理由が分からなかった。 弥吉は布団を鼻まで引き上げた。 「……あ」 小さな声が漏れる。 もう一度考える。 離れへ行くのが楽しみだった。 会えないと物足りなかった。 帰ると聞いた時、胸が詰まった。 門の向こうへ消えていく背中を、ずっと見ていたかった。 「……俺」 弥吉は両手で顔を覆った。 「好きだったんだ」 口にしたら、急に全部つながった。 遅い。 綾之丞が聞いたら絶対笑う。 宗七も笑う。 又六本人に至っては、何度もそれらしいことを言っていた気がする。 「……遅すぎるだろ、俺」 少しだけ笑った。 胸は寂しい。 でも、戻ってきてほしいとは思わなかった。 又六には帰る場所がある。 自分にも、やることがある。 弥吉は目を閉じた。 「次会ったら」 そこまで言って、やめた。 何を言うかは、その時決めればいい。 **** 翌朝。 弥吉はいつもより早く起きた。 顔を洗う。 髪を結ぶ。 木刀を持つ。 鏡の中の自分を見る。 昨日と同じ顔だった。 「よし」 部屋を出る。 道場へ向かう廊下には朝日が差し込んでいた。 卒業まで、まだやることは山ほどある。

ともだちにシェアしよう!