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第三章「事件の夜」第二話

 血が錆び付き始めていた。咽返るような血のにおいが、室内に充満していた。隠さなければ、と本能的に思った。  返り血にまみれた服を着替え、春介は一旦家に戻った。アパートの共用物置に、シャベルとロープがある。それから、かつて二人が秘密基地にしていた、廃温室へ向かった。あそこには、ビニールシートがあるはずだ。  バイクを飛ばして、志季の家に戻った。電気をつけず、音も立てずに、死体を残した部屋へと戻る。真っ暗な部屋の隅で、志季は膝を抱えていた。  虚ろな目で、死体を見ていた。懐中電灯で照らすと、錯乱した様子で暴れた。  大丈夫、俺だよと、春介は努めて落ち着いた声で宥めた。震える肩を抱き、背中を撫でてやると、志季は徐々に落ち着きを取り戻した。しかし、視線は死体に向いている。    どうして、ほんの短い間とはいえ、志季をこの男と二人きりにしてしまったのだろう。この暗闇に、死体と二人で残されて、志季はどんな思いだったろう。もう二度と、こいつを独りにはするまい。  死体の服を脱がせ、手足をロープで縛った。なるべく小さく纏めたくて、無理に手足を折り曲げると、嫌な音を立てて関節が外れた。外れた関節ごと手足を丸め、胴体に固定して、上からビニールシートを被せた。農家が使う、黒ビニールだ。決して外れないよう、ロープでぐるぐる巻いて固定した。  ビニールで包んだ死体を、バイクの荷台に括り付けた。荷台の鉄枠に何度もロープをくぐらせて、体重をかけて締め上げた。死体にロープが深く食い込み、その感触が手に伝わった。  最後に、シャベルを二本、死体に重ねて括り付ける。春介が持ってきたのと、志季の家にあったものと、合わせて二本だ。念入りにロープを巻き付け固定した。  こうして準備は整った。行けるかと問うと、志季は頷く。春介は、ギアを入れてアクセルを回した。    90㏄の原付バイクに、死体が一つと、男子高校生が二人乗っている。明らかに重量オーバーだった。  死体を乗せた荷台に極端な重みがかかり、後輪が限界まで沈む。リアサスペンションが底付きし、僅かでも段差に乗り上げると、直接的な振動が骨まで届く。重心が後ろに偏りすぎた結果、前輪が地面から浮き上がり、ハンドルがぐらぐらと左右に揺れた。春介はグリップをきつく握りしめ、体重をかけて押さえ込んだ。  雨が降り始めていた。死体を包んだ黒ビニールに、大粒の雨が打ち付けた。原付バイクの積載能力を大幅に超えた、不自然な大荷物。その輪郭が不気味に黒光りする様を、対向車のヘッドライトが照らし出した。春介は反射的に顔を伏せ、志季は春介の背中にしがみついた。泥水を跳ねて、トラックは走り去った。  国道を逸れ、急勾配の峠道に入る。いよいよ雨脚は強くなる。滑る前輪を押さえ付けて、春介はシフトペダルを踏み込んだ。ギアを一速に入れ、アクセルを全開に握りしめて、つづら折りの旧道を上る。    エンジンは限界まで回転している。甲高い排気音が、土砂降りの雨音を鋭く切り裂く。過剰に熱せられたマフラーに雨水が打ち付けて、白い蒸気を発した。エンジンオイルの焼け焦げるにおいがする。  後輪は完全に沈み込んでいる。リアフェンダーにタイヤが擦れ、焦げたにおいと軋むような摩擦音を響かせている。  ヘアピンカーブに差しかかる。遠心力で、荷物が外側に大きく傾く。姿勢を立て直そうとして、春介はハンドルを切った。  車体は完全に傾いた。前輪が大きく浮き上がった。僅かな窪みに後輪がはまり、その反動が突き上げて、二人の体は空中に跳ね上げられた。  春介はハンドルを握りしめ、かろうじて足をついた。濡れたアスファルトに靴底が削れる。転倒しかかる車体を必死に引き戻す。  大丈夫かと叫ぶ声は、雨音に遮られた。排気ガスと雨水の混ざり合った蒸気が噴き上げ、二人の視界を真っ白に覆い隠した。    エンジンに負荷をかけ過ぎた。アクセルを全開に回しても、手応えがない。車体が急激に重くなる。ガクガクと狂ったように車体が暴れる。限界を超えて熱されたクランクシャフトが悲鳴を上げる。  エンストだ。虚しく排気音を漏らし、それきり沈黙した。春介はキックペダルを踏み下ろす。手応えはなかった。熱ダレを起こしたエンジンと湿気た点火プラグが、火花を飛ばすのを拒んでいた。  二度、三度と、力任せに踏み込んだ。ガキッと引っかかるような反動があり、ペダルが勢いよく跳ね返った。クランクシャフトが逆回転を起こし、ペダルを押し上げたのだった。鈍器で足裏を殴られたような衝撃に、膝が折れそうになる。体が大きく傾いだ。    ヘッドライトが瞬いた。黄色い光が弱くなる。周囲の闇は深くなる。背中に志季の息遣いを感じる。引き攣った浅い呼吸を繰り返す。春介は歯を食いしばる。  祈るような気持ちで、右手のブレーキレバーを力いっぱい握りしめた。泥水の中に左足を立てて踏ん張った。痛む右足をペダルにかける。全体重を乗せて、一気にペダルを踏み抜いた。  ペダルが底に激突する。と同時に、エンジンが点火した。狂ったような爆音が轟いた。ヘッドライトが明るさを取り戻し、暗闇を切り裂いた。濡れた路面、篠突く雨の一筋一筋、道路脇に連なる樹木の影まで、くっきりと照らし出された。    悲鳴のような排気音と共に、バイクは泥水を跳ねて走った。旧道から廃トンネルに入り、林道へと抜けた。ひび割れたアスファルトの道路が続き、その先は砂利道になっていた。  山の斜面に沿って、雨水が流れ込んでいた。勾配は一層きつく、道はどんどん険しくなった。  前輪がぬかるみに突っ込んだ。姿勢を立て直すこともできないまま、バイクは横滑りにスリップした。車体ごと激しく横転し、春介と志季は泥の中に投げ出された。  トットットッ……と聞き慣れた音でエンジンが回る。泥を跳ねて、タイヤが虚しく空転していた。  荷台に積んだ荷物が、泥の中に沈んでいた。ビニールが破けて、男の顔が覗いていた。濁った目と、目が合った。  打ち付ける雨粒が、石礫のようだった。目を開けていられないほど、大粒の雨が顔面を殴った。針葉樹の林の奥から、闇がこちらを覗いていた。    志季が先に立ち上がった。全身で荷物を支えながら、泥だらけの車体を押し上げる。  春介も立ち上がった。泥に滑る手でハンドルを握り、ぬかるみに足を突っ込んで、倒れた車体を持ち上げた。  行けるところまで、バイクで進んだ。泥にはまる度、志季が後ろから車体を押し上げた。春介もバイクを降りて、力ずくでバイクを引き上げた。  荷物を下ろして引きずりながら、さらに山奥へと分け入った。ビニールシートはほとんど破けていた。剥き出しの死体を引きずって、山中を進んだ。    なるべく平らな場所を選んだ。大きな杉の木が密集していた。地面は落ち葉と枯れ枝に覆われて、木の根元は苔生していた。  春介は、シャベルの刃先を突き立てた。足をかけ、体重を乗せて、深く土を切り裂いた。  湿った土の重みが、すぐに腕を痺れさせた。シャベルの先が石にぶつかり、鈍い衝撃が走った。硬く冷たい摩擦音と、振動が肩まで響いた。  春介は、穴の底を覗き込んだ。大きな石がごろごろ埋まっていた。一心不乱に泥を掻き出し、石を掘り返した。雨水が穴の縁から流れ込み、まるで沼の底にいるようだった。  樹々の枝葉を叩く雨音と、金属製のシャベルに泥と砂利の擦れる音、そして二人の荒い息遣いだけが響いていた。汗とも雨水ともつかないものが目に沁みる。今、果たして何時なのだろう。朝が来る前には、山を下りなければならない。    大きくはないが、できるだけ深い穴を掘った。春介は死体を引きずってきて、穴の底へ蹴り落とした。  途中で首が引っかかった。無理に押し込もうとすると、おかしな方向へねじ曲がった。濁った目がこちらを見ている。変形した後頭部に、泥のような血が固まっている。  もう一度、体重をかけて押し込んだ。靴の裏が、弾力のない肉に沈み込む。ゴムのような皮膚が滑る。思い切り蹴り落として、穴の底へと叩き込んだ。血とも泥とも分からないものが弾け飛んだ。  掘り返した土を埋め戻す。水を吸って重くなった土を、隙間なく死体に被せた。念入りに踏み固めて平らにし、落ち葉と枯れ枝を散らばせた。死体を埋めたなんて、決して悟られないように。

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