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1 再会①
「……本当に来るのか」
見慣れない光景に様変わりした室内を眺めながら、蛍 はため息を落とした。
2LDKの自宅マンションで、物置として使っていた狭いほうの洋室。今はそれまであった私物が姿を消し、代わりに初めてベッドの形にしたソファベッドと、いくつかの段ボール箱が新参者として鎮座している。
3月最後の日曜の午後。ソファベッドは先ほど自分がリビングから運んだもので、段ボールは宅配で届いたものだ。この部屋の新たな使用者となる男の私物が入っている。
だから自分の仕事は運び込むまでだ。そして次は──と、腕の時計を確認した。
(ちょっと早いけど、もう出るか)
その男を最寄り駅まで迎えに行くことになっている。どこにいても落ち着かないならもう向かってしまおうと、蛍は自室に戻りジャケットを羽織った。
(最後に会ったのはあいつが高3の時だから……5年ぶり?)
「……大丈夫、だよな」
願うように、言い聞かせるように呟く。
駅までの道はすっかり春めいていた。時折強くなる風に、桜の花弁が混じる。細くさらさらした毛質の蛍のまっすぐな髪も、風に乱された。
──春の嵐にならないといい。
速まっていく鼓動を自覚しながら、そう願うばかりだった。
惣領 蛍。それが蛍のフルネームだが、この姓になったのは中学2年生の時だ。両親は蛍が物心つく前に離婚しており、母親が女手一つで自分を育ててくれた。
その母が再婚し、姓が惣領に変わって新しい父親と弟ができた。
父親は母より5歳年上の地方公務員。義弟は再婚当時小学4年生。4歳年下の弟だ。
蛍が26歳になった今、義弟は22歳。この春無事に大学を卒業し、4月から新社会人となる。
実家は東海の片隅にある田舎町だが、蛍も義弟も大学進学のタイミングで家を出た。蛍は東京、義弟は名古屋の大学へ進んでいる。
蛍がそのまま東京に住み着いたように、義弟も東海で就職し暮らしていくのだろう。だから今後も、滅多に会うことはないだろう。そう思っていた。
予想が裏切られたのは先月のことだ。
『いづくんの会社、東京が本社でねぇ。4月から3カ月間、本社で新人研修があるらしいのよ』
そう、母親から電話で連絡がきた。
『蛍のところに住まわせてあげて。一部屋ほぼ使ってないって言ってたし、いけるでしょ?』
呆然としているうちに、それは決定事項になり通話は切れていた。噓だろ、と蛍が呟いたのはスマートフォンからのツーツー音を4、5回聞いた後だ。
(いや、本社研修のためって。だったら普通、会社が住むところ用意してるんじゃ?)
そう思い後日詳しく聞いたところ、案の定会社の寮があるという。しかし入寮は必須でなく、他に当てがあればそちらからの通勤も可。そして何より、義弟が蛍のマンションを切望しているのだ、と母親は言った。
『寮は古いらしいし、相部屋で窮屈そうだから嫌なんですって。3カ月くらい面倒見てあげなさいよ。昔はあんなに仲よかったのに、あんたが家出てからはろくに話もしてなかったでしょ? 久々に兄弟水入らずで過ごしなさいな』
やはり母親の中ではすっかり決定事項で、断固拒否の姿勢をとるのは難しかった。昔から人にはよくお人好しだの、押しに弱いだの平和主義だのと言われる。母親も押し切れば断ってこないとわかっているのだろう。実際のところ、拒む理由として説明できるようなものも何もない。
問題は蛍の心情的なところにある。それも心の奥深く、人には触れさせない部分に。
会いたくない。会わないほうがいい。会うのが怖い。だから避け続けてきた。
実家を出てからは何かと理由をつけて極力帰省しなかった。さすがに親不孝が過ぎるかとやむを得ず帰省した年も、義弟とはなるべく顔を合わせないように努めた。義弟も家を出てからは、帰省のタイミングをずらせばよかったので助かった。
そんなわけで会うのは5年ぶり。まともに話すのはと考えると、上京した以来で9年ぶりだ。
(……どうして、あいつは)
蛍との同居は義弟が強く望んだことだという。しかし近年めっきり疎遠になっていた自分たちのやり取りは、つい先日まで母親が間に入っていた。彼女経由でメッセージアプリのIDを交換したのが5日前で、その後義弟から2回メッセージが来た。一通は荷物を送ったという報告で、一通は今日の到着時刻を知らせるものだ。蛍はその両方に『わかった』とだけ返信した。
(どうして今になって、会おうとするんだ?)
内心では疑問と不安が渦巻いているが、それを機械上のメッセージに変換することは容易でない。結果、相手の思惑はまったくわからないまま今日に至っている。
「……あ」
いつの間にか駅がすぐ目の前に迫っていることに気づき、小さく声を漏らした。
徒歩約15分。駅からやや遠いのがネックの家だが、こんなふうに考え事をしていればあっという間だ。
家はその分、広さの割に家賃が安い。SEとして働く自分は運動不足になりがちなので、徒歩15分はいい運動の機会と考えよう。この家賃でこの広さに住めるなら。一室は在宅ワーク時の仕事部屋にしてもいい。そんな思惑で単身のくせに2LDKを借りたことを今さら少し後悔するが、遅い。まさか空いた一室に義弟を住まわせることになるなど、あの時予想できるはずもなかった。
(もう来てるか……?)
ちょうど電車が到着した直後なのか、駅の出入口は盛大に人を吐き出している。なんとなく向かって右の壁際に歩み寄りながら、蛍は視線を巡らせた。
顔を見てもわからないかもしれない、という心配はなかった。5年ぶりでも、たとえ外見が大きく変わっていようと、その懸念は微塵も出てこないのがむしろ怖いと思っている。
「っ!」
蛍が息を詰めたのと、視線の先で相手が軽く目を見張ったのはほぼ同時だった。
(ああ、やっぱり)
やっぱり、すぐ見つけてしまった。
(大人っぽくなってるな。髪型も……前に見た時より長くて大人っぽい)
「よう、久しぶり」
相手は歩を速めて蛍の正面まで歩いてきた。ごくわずか角度を上げた口が低い声を紡ぐ。
抑揚のない、淡白な口調に懐かしさが込み上げた。
変わっていない。子供の頃から、こういう話し方をする男だった。必要なことだけを淡々と口にするタイプで、笑いふざけるようなノリのいい性格ではない。ありがちな言葉に当てはめるとすれば『クール』だろう。だから昔は冷たいとかキツいと誤解されることもあったが、それは外面でしかないことを蛍は知っている。
「久しぶり、伊月 」
あれほど不安だったのに、自然と微笑みが浮かんでいる自分に蛍は驚いた。もちろん恐れは消えておらず、笑顔も少し硬かったかもしれない。それでも無理やり作ったものではなかった。数年ぶりに家族の健在な姿を見たのだ。マイナスの感情と背中合わせに、たしかに喜びもある。
それがいいのか悪いのかは決め切れないが、今は良しと考えることにした。3カ月間、兄兼宿主として弟──惣領伊月というこの男と暮らさなくてはいけない自分には、笑顔も歓迎の姿勢も必要なものだ。ぎこちなさ全開になるよりはよほどいい。
「会いたかった」
やはり平坦な声で、伊月は短くそう言った。そこにわかりやすい熱や高揚はない。だが蛍には、他人であれば聞き逃してしまうであろう情感がはっきり伝わってくる。
伊月は蛍と暮らすことを切望している。そう言った母親の言葉は、間違いではないようだった。
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