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1 再会②
●〇●〇
「へぇ、いい部屋じゃん」
自宅へ戻ると、伊月はリビングで背負っていたバックパックを下ろして周囲を見回した。ちなみにキャリーケースくらい携えてくるかと思っていたが、荷物はそれだけだ。
「外観古めだったけど、中は綺麗だな」
「ああ、うん。1回リフォーム入ってるらしいから」
「水回りも? 追い炊きある?」
「あるよ」
緊張した様子もなく言葉を交わしながら、伊月はキッチンへ入った。使い勝手が気になるのか、コンロやシンクを品定めするような目で見た後にためらいもなく冷蔵庫を開ける。
「けっこう料理してんだ?」
庫内を見たまま背中越しに問われ、蛍は「まあそれなりに」と答えた。平静を装ったが、実のところは自分の振る舞いに迷って立ち尽くしている。
(普通だな……いや、いいんだけど……)
5年ぶりの再会、まともに話すのは9年ぶり。そんな隔たりなど一切なかったようなリラックスした伊月の態度に、困惑を通り越して拍子抜けしていた。
自分は緊張で鼓動まで高めていたというのに。今もまだ、脇や背中はうっすら汗ばんでいるというのに。
5年ぶりに見る伊月の姿からも目が離せない。
高校で陸上部に入ったという伊月は、以前会った時点ですでに蛍より背が高く、身体つきもしっかりしていた。174㎝の蛍が軽く見上げなくてはいけないので、180㎝は優に超えているだろう。髪も短く、いかにもスポーツマンという印象だったのを覚えている。顔立ちも整っており、凛々しい眉と切れ長の目が強気な印象を与えがちなものの、かなりイケメンの部類に入る男だ。
(かっこよさは相変わらず。でも、もう完全に大人だな)
冷蔵庫を閉め、今度は自分の前を通り過ぎてテレビのほうへと歩いていく横顔を見ながら思う。
5年前わずかに残っていた幼さはなくなり、精悍な青年へと成長していた。22にもなれば当然のことだが、改めて過ぎた歳月を感じる。
やはり自分たちの間には、まったく別の人生を歩んできた長い年月が存在するのだ。こんな感慨を抱いているのは自分だけだろうか。
「なに、どうかした?」
視線が気になったのか、伊月がぱっとこちらを見て尋ねてきた。蛍はドキリとして、慌てて顔に笑みを貼り付ける。
「いや、ええと……伊月、大人になったなと思って」
「……当たり前」
短い間の後、伊月は吐息をこぼすように薄く笑った。そして蛍の正面まで戻ってくると、右手をポンと蛍の頭に置く。
「兄貴はあんまり変わってないけどな」
近い距離と頭頂部に感じる重みに、肩が強張りそうになった。動揺のあまり瞬時に口の中が渇く。
なぜいきなり触ってくるのだ。こんな距離感で接することは長くなかったので、感情も理解も追いつかない。
「は、離せよ」
結局上擦った声を絞り出し、一歩下がって逃げることしかできなかった。
「それより、部屋に案内するから」
取り繕うように言い、背を向けて廊下へと引き返す。リビングと続き間のベランダに面した洋室は蛍が寝室にしており、伊月に与える部屋はLDKを出た共用廊下側になる。
「はいはい」
微妙に白けたような空気を漂わせつつも、おとなしくついてくる伊月の足音を聞いて、蛍はひとまず気を取り直すことにした。
「そこが風呂と洗面所。トイレはあっち。で、伊月の部屋はここだ。狭くて申し訳ないけど」
他のドアもざっと説明してから、伊月の部屋を開ける。すぐさま中へ踏み入った伊月は、室内を一瞥してこくりと頷いた。
「充分。荷物も大してないし」
「そのようだな。クローゼットは空けてあるから適当に使って」
「わかった。てか──」
話しながら伊月は部屋の左手、窓際のベッドに近づいていく。
「これ、一人で運び込んでくれたのか?」
リビングの本来ソファがありそうな位置にそれがなかったので気づいたのだろう。蛍がうんと返事をすると、伊月は少し眉を寄せた。
「重かっただろ」
「平気だよ。タオル敷いて引きずったから」
「だとしても、俺が来るまで待ってたらよかったのに」
「まあ、昨日も休みで時間あったし、家主としてそれくらいはな。名古屋からはるばる来たおまえに、到着早々労働させるのもなんだし」
「……ふうん」
そっけない反応をしながら、伊月はマットレスが剝き出しのベッドに腰を下ろす。
「あ、シーツや布団はまだクローゼットの上にしまって──」
伊月の前を過ぎて右側のクローゼットに向かおうとした蛍は、ふいに負荷を感じてつんのめった。左手を掴まれ、強く引かれたのだ。
えっと声をあげたが、その時にはもう伊月の側へと倒れ込んでいる。両手で抱き留められた蛍は、そのままくるりと反転した伊月にベッドへ押さえつけられた。
「は……い、伊月っ?」
真上に伊月の顔があるが、蛍の思考は事態を処理できずに停止していた。蛍の両手首を押さえ込んだ伊月は、自身も片膝をベッドに突いてのしかかってくる。
これは押し倒されたとしか言いようのない状況だと数秒かけてようやく思い至り、ドクンと胸が音を立てた。それに重ねて、伊月の問いが落ちてくる。
「いっちょ前なこと言って、兄貴ぶろうとしてんの?」
こちらの混乱や焦燥とは対照的に、皮肉なほど落ち着いた、冷たい手で心臓を撫でるような声だ。
「なに言って……ど、退けよっ」
「嫌だ」
身をよじって逃れようとしたが、両手を拘束する力が強くて敵わない。やっと出せた抗議も、あっさりと一蹴された。募る危機感にこめかみから耳へと汗が伝う。
(これは、駄目だ)
これはまずい。1秒でも早く逃れないといけない。どうすればいい。体格でも力でも負けている。足なら多少は動かせる。思い切り蹴りつけるか? だが──弟に、暴力を? 兄である自分が?
「今さらやめろよ、兄貴面すんのとか」
心を読んだかのように伊月が声を発した。遠慮なく突き刺してくる響きに息が詰まる。
ギシ、とベッドを軋ませて伊月は逆の足も乗り上げ、顔を近づけてきた。
「俺、社会人になるまでは会いに来るの我慢してたんだ」
至近距離で目線を合わせて言う。蛍の頭にあった抵抗の二文字は、その眼差しで凍らされた。濡れた黒い瞳の奥に、抗いようのない強い意思がある。昏くて熱い、燃える炎のような光が。
「成人したらもういいだろって気もしたけど、学生である以上逃げ道にされると思った。だから就職先決めて大学卒業して、一人前の大人だって言い切れる歳まで我慢した」
「いづ──……」
自分は何を言おうとしたのだろうか。わからない。ただ、続きを聞くことへの恐れと警戒心で反射的に口が動いただけだ。
(言わないでくれ)
頭の中でアラートがけたたましく鳴り響いている。でももう、身体は指1本として動かなかった。伝わってくる気迫がそれを許さない。
(聞きたくない。聞いちゃいけない)
耳をふさぎたいのに、目を閉じたいのに、逆に神経のすべてが研ぎ澄まされ、続く伊月の言葉を聞き取ってしまう。
「会ったら絶対、ちゃんと聞くって決めてた」
伊月はさらに顔を寄せた。鼻先の触れる距離で、決めていたというその問いかけをぶつけてくる。
「兄貴、なんで俺から逃げたの」
それはまさにこの9年間、伊月が胸の内で燃やし続けていた言葉なのだろう。何度か会う機会はあったが、問われたことは一度もなかった。しかし、ごく短い時間交わした視線にそれらしいもの言いたげな含みがあるのを、蛍も気づいていた。察していたうえで、見ないふりをして逃げ続けていた。
「なぁっ……」
何も言えない蛍に、伊月の口から切なげな声が漏れる。だが返事を待つことはなく、震えた唇は蛍のそれをふさいだ。ぶつけるように触れられ、避ける間もなく強く押し付けられて動きを封じられる。
「んっ……、っ……!」
驚いて硬直した隙に舌が入り込んできた。蛍の舌を絡め取り、上顎や歯列の裏をなぞり、好き勝手に動き回る。なまめかしいそのキス自体がますます深い拘束となって、蛍は背筋をしならせることしかできない。
「っ、ぁ……っ、いづっ……やめっ……」
息を継ぐ合間にどうにか制止の言葉を紡ごうとするも、すぐにまた唇でのみ込まれてしまう。絡んだ舌が口内を動くたび、ジンジンと頭が痺れ熱に浮かされたような感覚に陥っていった。強く吸われると、粟立つような疼きが腰骨から背中へと這い上ってくる。
おかしくなってしまいそうだ。だが、溺れていてはいけないと警鐘は鳴り続けている。
「あの夜にもう、俺の気持ちはわかってただろ」
唾液の垂れそうな蛍の唇に舌を這わせながら伊月が言った。
「俺ら、もう子供じゃないんだ。全部自分で決めて、自分で責任取れる。したいようにしていい歳だろ」
(そうだ、もう子供じゃない)
あの時はまだ、お互い幼かった。蛍は高3、伊月は中2。17歳の蛍は大人と言ったほうがいいかもしれないが、それでもまだ世間を知らない学生だった。伊月に至っては本当に、目の前しか見えていない少年だ。
だから、駄目なのだ。あそこは戻っていい時間ではない。
(兄弟なんだ、俺たちは。変えられないし、変えちゃいけない)
「俺はずっと、こうしたくて死にそうだった。何年耐えたかわかってる?」
身体を擦り合わせるようにしながら伊月が再びキスを仕掛けてくる。気が昂ったせいかもう抵抗されないと思ったのか、片手の拘束を解いて蛍の顎に触れてきた。
その機を見過ごす理由はなく、蛍は下腹に力を入れて身体を動かす。自由になった手で伊月の胸をグッと押した。
「やめろってっ!」
同時に強い声を放つ。全身で拒絶を示した。さすがに怯んでくれたか、伊月の力が一瞬抜ける。ここぞとばかりに、さらに伊月の胸を押し戻して上半身を起こした。
「け──」
「夕飯の準備してくる。おまえは荷解きしてろ」
何か言いかけた伊月を遮って低く告げると、急いでベッドを降りる。伊月は責めるような目でこちらを見ているが、追ってくる様子はない。
濡れた口元を乱暴に手の甲で拭い、蛍は部屋を出た。
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