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1 再会③

 ●〇●〇 (やっぱり断ればよかった)  キッチンに移動した蛍はワークトップに手を置いたものの、立っていられずその場に座り込んだ。全身が汗で湿り、心臓はいまだドクドクと激しく脈打っている。  こういう可能性を考えていないわけではなかった。つまり、伊月の気持ちがそういった類のもので、今も変わっていないという可能性を。 (……違う。考えてないわけじゃなかった、なんて言い方は嘘だ)  実家を出てから伊月と会ったのは数えるほどだが、眼差しの奥にあるものにうっすら気づいていた。予感はあったのだ。  なのにその予感に蓋をしたのは、蛍がそれを認めたくなかったからに過ぎない。 (勘違いだと思いたかった。少年時代の感情なんて一過性のもので、離れていれば気持ちも移り変わっていくって。なかったことにもできるって)  ただ、自分がそれを願っていただけ。そんな根拠もない願いにすがって、兄としては今回の頼みも断り切れないと受け入れた結果がこれだ。 「俺が馬鹿すぎる……」  しゃがみ込んだ姿勢のまま、片手の指で唇に触れる。  またキスをしてしまった。兄と弟なのに……言い逃れもできないくらい、あんなに深く何度も。  伊月の瞳にははっきりと情欲が揺れていた。そしてそのキスを受けて、眼差しを浴びて、自分は──……。 (違う、違う。駄目だって!)  ぶんぶんと頭を振り立ち上がる。 (こうなったからこそ、俺がしっかりしないとだろ)  伊月はいまだあの時間に囚われていた。そうわかったうえで一緒に暮らすしかないのなら、自分が救い出さなくてはいけない。自分が軌道修正させてやるしかない。 「まだ大丈夫だ」  まだ修正できる。予定していた『兄弟の再会初日』に戻ろう。呪文のように心の中でそう唱えて冷蔵庫を開けた。夕食用の食材は昨日のうちに買ってある。  料理を始めてしばらくすると、時折伊月の部屋からも物音が聞こえてきた。蛍が言った通り荷解きを始めたようだ。一度トイレに出てきたが、こちらへ来る気配はない。それに安堵しながら調理を進めていく。  最近の伊月の好みはわからないので、メニューは蛍の記憶にある伊月の好物だ。大きめブロック肉のビーフシチュー、コーン入りのポテトサラダ、カニピラフ。  中学の時はバスケ部でお遊び程度の活動をしていた伊月だが、昔から食事はよく食べる子供だった。 (多い時はご飯3杯もお代わりして……表情変わらないけど、好物だと特に目キラキラさせて食べるんだよな)  感情を表に出す子ではない。細身の蛍よりよほど男らしい外見をしているが、心根はとても繊細な子なのだ。警戒心が強くて人見知りもする。心を開いて打ち解けるまでに時間のかかるタイプ。  蛍との距離感も簡単には縮まらなかった。けれどゆっくりと歩み寄り、垣根がなくなれば自分の後ろを追い回すほどに懐いてくれた。  いつしか蛍にとっても、伊月は可愛くて仕方のない存在になっていた。  可愛い。伊月が喜ぶならなんでもしてあげたい。わかりにくいかすかな笑顔を何度でも、いつでも見ていたい。  血は繋がっていないが、これからも兄として。  ──兄として? まとわりつくようなこの感情は、本当にそうか?  自分の中で自問が生まれ始めた時に、それまで見えていた世界も色を変え始めた。そして自分が怖くなった。  自分は異質で、歪んだ目を周りに向けている。伊月にも……いやむしろ、伊月にこそ強く。  年々どうしようもなくなり、物理的に断ち切る以外の方法が見出せなかった。だから東京の大学を受験し、家を出ることにした。  伊月が囚われてしまうことになった夜は、彼が蛍の上京を知った日に訪れた。  ※※※※ 「兄ちゃん、ホタル見に行こうよ」  6月初旬の夕暮れ時、蛍の部屋へやってきた伊月が言った。  この頃の伊月は蛍のことを『兄ちゃん』と呼んでいた。中学生にもなれば反抗期で当たりがきつくなったり離れていったりもしそうだが、伊月にいたってはまったくそんなことなく、幼少時と変わらず仲のいい兄弟だった。  とはいえ唐突な誘いに、勉強机に向かっていた蛍は手を止め、目を瞬く。 「なんだ、いきなり」  自然の多く残る田舎町だ。徒歩で行ける距離に、地元ではホタルの名所と言われる川原があった。水質変化のせいか年々数は減っていたが、蛍と同じ名を持つ初夏の風物詩。蛍たち家族もこの季節になると、以前はホタル狩りに出かけたものだが……。 「ホタルなんて、最近はもう見に行ってないだろ。いるかもわからな──」 「いるって。宮下(みやした)のばあちゃんが言ってた。今でも毎年見に行ってるって」  蛍を遮って、いつになく強い口調で伊月が言う。宮下というのは近所に住む気のいいご年配で、あの人の情報なら信用はできそうだが。 (なんで急にこんなこと言い出すんだ?)  学校で観察の課題でもあるのかと思ったが、そういう雰囲気ではない。どこか張りつめた真顔で、伊月はじっと自分を見ている。 「行こうよ。あの川原に行きたいんだ」 「……わかったよ」  疑問は募ったが、蛍は了承して立ち上がった。「ちょっと気晴らしに伊月と散歩してくる」と蛍が母親に話し、二人で家を出る。  川原までは20分ほど。その道中、伊月は思い詰めたような顔で黙り込み、ずっと地面を見ていた。恐らくホタル観賞が主の目的ではない。何か他に、あの場所へ行きたい理由があるのだろう。そう察した蛍も沈黙に付き合った。  川原に着いた時には日も沈み、辺りは薄闇に包まれていた。川幅はさほど広くない。なんなら川べりのほうが広く、土手の近くは背の高い草が生い茂っていた。設置された石段を降りてその草むらを横切ると、川までは背の低い草地が続いている。 「足元気をつけろよ」  蛍は前を行く伊月に声をかけた。伊月は返事をしない。仕方ないので蛍はゆっくりと歩きながら周囲を見渡した。 「いないな、ホタル」  時期的にはピークのはずだが、やや時間が早いだろうか。それとも場所が悪いか。定かでないが、見た限りそれらしい瞬きは見つけられない。  この声も無視されるかと思ったが、伊月は足を止めて同じように首を巡らせた後、「うん」と答えた。横顔に寂しさがうかがえる。それがメインではなくても、懐かしい光景を見たいという思いはあったようだ。 「兄ちゃん」  呼びかけながら伊月は蛍へと視線を定めた。2メートルほどの距離を開けて、二人は川原で向かい合う。 「東京に行くってどういうこと」 「……母さんから聞いたのか」  薄々わかっていた蛍は驚くことなく聞き返した。それ以外、伊月がこんな行動を取る心当たりがない。志望校を東京の大学に決め、ここを受験すると両親に話したのは先週のことだ。 「今日聞いた。どういうこと。家出てくの」  睨むような目で伊月もまた問うてくる。きりっとした顔立ちなので、こういう表情は他人になら怒っていると取られるだろう。だが蛍には、怒りよりも悲しみが大きいとわかる。 (取り乱すな)  蛍は意識的にゆっくりと呼吸した。吐いて、吸って、口を開く。 「そうだよ。俺は東京の大学に行く。向こうにいい学校があるんだ」 「4年だけ? 卒業したら帰ってくる?」  伊月が2歩、前に出た。小石の擦れる音が耳につく。 「それは何とも言えない。求人数考えたら向こうで就活したほうがいいかもだし──」 「嘘だ」  最後まで聞かずに言い放った伊月は、残る距離を一気に詰めてきた。ずんずん歩いてきた勢いのまま、蛍の両腕をガシッと掴む。 「勉強とか就職のためなんて嘘だろ。俺から離れるためなんだろ」  蛍はくしゃっと顔が歪みそうになるのをとっさに耐えた。  焦るな、慌てるな。見透かされることなどわかっていた。それでも建前を貫き通してこの地を離れようと決めたのだ。 「そんなわけないだろ、何言って──」 「ごまかすなよ!」  精いっぱい明るい声で言おうとしたのだが、それもまた遮られてしまう。  頭一つ分ほど小さな伊月は、きつく蛍の上腕を握り、すがるように見上げてきた。その瞳が今にも泣きそうに潤んでいて、蛍の胸に刺すような痛みが走る。傷付けることは承知のうえだったが、実際にこんな目を見ると罪悪感が肌を切り刻んだ。 (ごめん、伊月。だけど、これ以外にないんだ)  言えない謝罪をのみ下して、蛍は伊月の肩を掴み返した。 「伊月、落ち着け」  できるだけ優しく言って、すがる身体を引きはがそうとする。だが伊月は余計むきになり、爪が食い込むほどに指先へ力を入れてきた。 「なんで離れようとすんだよ。絶対に嫌だ、俺は離れたくない」 「伊月っ……」 「初めてこの川原に来た時、これから毎年ここでホタル見ようって約束したよな。俺覚えてるよ。これからもまた、毎年来ようよ。ずっと家にいてよ」  訴える伊月の目の縁には涙が盛り上がり、声は震えていた。こんなにも必死に感情をぶつける伊月をこれまで見たことがない。自分はそれだけのことをしているのだという罪の意識が蛍を苛む。  それでも、決めたからにはやるしかない。蛍はこれが最善策だと信じている。 「来ないよ。そもそもおまえが中学入ってからはもう来てなかっただろ」  引き絞られるような痛みを感じつつも、「俺は卒業したら家を出る」と改めて口にした。  伊月の唇が複雑に歪んで、浮かんでいた涙がとうとう頬を伝う。 「やだよ! 俺、俺っ……!」  伊月の右手が離れた。しかしその手はすぐに動き、蛍のTシャツの胸元をぐいっと引っ張る。勢いに負け前傾した蛍の唇に、伊月は自分の唇を押し付けてきた。 「っ……!」  ほんの一瞬の、色気も何もないただ触れただけの稚拙なキスだった。それなのに、薄い皮膚が温もりを感じた瞬間、痺れるような感覚が全身を駆け抜けた。 「伊月……」  つかの間、麻痺したように何も考えられなくなる。微弱な感電に立ち尽くす蛍を、伊月はナイフのような眼光で見据えた。 「蛍」  蛍を呼ぶ声として、伊月は初めてその二文字を紡いだ。 「俺、兄ちゃんって呼んでても、兄ちゃんだとは思ってないから」 (ああ、やっぱり中学生なんてまだまだ子供なんだな)  もっと感情が波立つかと思ったが、蛍はどこか他人事のようにそんなことを考えた。  子供だからこんなにもまっすぐ、迷いのない目で言える。  きっと伊月にはどれだけ説明しても伝わらないだろう。先ほどの一方的なキスがどれだけのものを壊したか。どれほど蛍を揺さぶり、抱いた苦と甘、対極な感情が暴力のようにぶつかり合う中でもだえているか。 「行かないでよ。一緒にいたいよ」 (一緒になんていられるわけない)  こんな形になっては尚更だ。今の自分たちは離れたほうがいい。 「二度とそんなこと言うな」  押し殺した声で告げ、蛍は来た道を戻った。伊月は一言もしゃべらずついてくる。すがってどうにかなるラインではないことを理解する程度には成長してくれていたことに、蛍はひそかに胸を撫で下ろした。  その日を境に、兄弟はほとんど会話をしなくなった。蛍は受験勉強と称して頻繁に外出しては塾や図書館で過ごした。家では自室にこもる。そんな日々を過ごしながら受験を成功させ、卒業を待った。  ※※※※  ──ピピピピピピピ!  耳障りな電子音で、蛍はハッと我に返る。 「っと、やば」  冷蔵庫の扉につけたキッチンタイマーが鳴っていた。シチューの煮込み時間が終了した知らせだ。急いで止め、鍋の蓋を開けてシチューの具合を確認する。 (……うん、いい感じだ)  昔を思い出して物思いにふけっている場合ではない。あの夜に惑わされないために、蛍は今ここにいる。 (兄として接する。俺が今できるのはそれだけだ) 「晩飯できたよ」  手早く料理の配膳を済ませ、伊月を呼びに行く。カラになった段ボール箱を畳んでいた伊月は手を洗って食卓に着くと、うっすら口元を緩めた。 「俺の好物ばっか。冷蔵庫の材料見てそうかなとは思ってたけど」 「何がいいかわからないから……」 「全部今でも好きだよ。サンキュ」  言葉通り、伊月は嬉しそうな顔で食事を始めた。先ほどのことなどなかったように、勢いよくシチューをパクついている。  またあの調子で来られたら、と内心では構えまくっていた蛍も幾分緊張が解けた。9年前そうだったように、今も切り替えをする理性は持ってくれている。  それなら大丈夫だ。表に出してはいけない部分は、このまま封じ込めてしまえばいい。  根付いた感情を消し去ることは簡単じゃない。でも、仕舞い込んで鍵をかけることはできる。 「全部すげーうまい。兄貴、こんなに料理できるようになってたんだな」 「自然とな。自炊、嫌いじゃないから」  そんな会話をしながら食事は穏やかに進み、食後も二人でコーヒーを飲んだ。後片付けの際にも、順番に風呂を使った時にも、何も起こらなかった。 (うん、きっとうまくいく。俺たちはただの兄弟に戻れる)  今はもうただの弟でしかない伊月を見て、蛍はそんな希望を大きくしながら眠りについた。  油断していたと後悔することになったのは、深夜。気配に目覚めると、常夜灯だけが灯された暗い室内で目の前に伊月の顔がぼんやりと見えた。 「っ、い、づ……?」 「一度拒まれたくらいで諦めると思った?」  自分の身体をまたいだ伊月が、両膝をついて覆い被さっている。妙に青白く見える顔がまったく知らない人物に思えて怯えが走った。首がヒクッと引きつれる。 (まさか)  冗談だろ、と言いたくなる。いくらなんでもここまで強引な行動に出られるとは思っていなかった。  伊月ももう子供ではない。22歳、新社会人。数日後に入社式を迎えるという、彼自身も大変で重要な時期だ。だから無茶なことはしまい──そうたかを括っていた、自分のほうが愚かなのだろうか。 「悪いけど、こっちはとっくに覚悟決めてんだよ」  とっさに布団をめくって起き上がろうとしたが、伸ばした手を伊月はあっさり押さえ込む。 「今度はもう、絶対に逃がさないから──蛍」  兄と呼ばれなかった。火のような熱さをまとった声に、蛍は己の愚かさを痛感するしかなかった。

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