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3 光の夜①

 いつから自分たちは、ただの義兄弟ではなくなってしまったのだろう。  母親は心優しくほがらかな女性で、パートをふたつ掛け持ちしながら懸命に蛍を育ててくれた。そんな母が職場の上司の紹介で出会ったのが、役所勤めをする男やもめ。惣領という名の、伊月の父だ。彼もまた温厚で善良な男性で、蛍はお似合いだと思った。中2になっていた自分はもう『お父さんがいなくて寂しい』などと泣く歳ではなかったが、母親の苦労が減り、彼女が幸せになれるなら再婚も大賛成だった。  4歳年下の義弟伊月は、初対面時は父親の後ろに隠れているようなコミュ障丸出しの少年だったが、日々を過ごすうち、徐々に心をほどいてくれた。蛍のほうにも戸惑いはあったものの、いい家族、いい兄になりたいと思っていたから積極的に声をかけ続けたし、親しくなっていけたのは嬉しかった。  いつしかごく自然な声音で自分を『兄ちゃん』と呼ぶようになり、無骨ながらも喜怒哀楽を素直に見せてくれるようになった伊月。  義理でも、心から愛おしく思える弟だったはずだ。けれど、蛍の心は緩やかに変わり始めた。  きっかけになった瞬間を、蛍は自覚している。  再婚した季節は春だった。  そしてあれは再婚の翌年、蛍が中3、伊月が小5の夏だ。  ※※※※ 「うわぁ、めっちゃ飛んでる! 見ろよ、伊月!」 「うん、すごい……! 去年より多いかも」 「そうだな。去年はバタバタしてて、来るのがちょっと遅い時期だったから」  6月半ば、惣領一家は川原へホタルを見に訪れていた。  再婚を機に、家は新たに借りた戸建てへ引っ越している。さして広くない田舎町、この川原は結婚前からどちらの親子も生活圏だったが、惣領父子の家は徒歩ではやや厳しい距離だった。事故で急に母親を亡くした父子は2人の生活に精いっぱいなところもあり、これまで来たことはなかったという。  寂しい思いも山ほどしてきただろう。まだ小学生の伊月は、二度目のホタルに目を輝かせ、うっとりと見入っている。そんな伊月がふと、蛍を振り返って言った。 「兄ちゃんも、ホタルみたいにピカピカしてるよな。名前も同じだし、そっくり」 「俺がピカピカ? どこが」  本当に疑問で、蛍はつい眉をひそめてしまう。  いわゆるカースト上位というような、目立つ人間でないのは自分でよくわかっていた。勉強、運動共にそこそこ。容姿もそこまで目を引くわけではない。  何より性格が、人の上に立つタイプではまったくなかった。  母親の負担にならないようにという思いから、なんでも極力受け入れ、わかったよ大丈夫だよと笑顔で返すことが無意識のうちに染みついていたのかもしれない。母親の苦労を考えればそれが当然だと思っていたから、苦に感じたことはないのだが。親子喧嘩をした覚えもほとんどない。  人の輪の外で、静かに笑いながら見守っているタイプ。争い事も渦中に入っていく気概はなく、一歩引いたところでハラハラしているタイプ。そんな性分だから、部活の先輩に『人の顔色うかがいすぎじゃないか』と言われたり、友人には『おまえ平和主義だよな』と言われたりした。  争いを好まない平和主義、場を和ませるための笑顔が染みついている。学年が上がって人間関係が複雑になってくると、だからこそ争いの渦中に放り込まれることもあった。誰もやりたがらない委員に推薦されたり、揉め事や喧嘩の仲裁を頼まれたりという類だ。  川原を訪れたその日も、蛍はまさにそんな自分のポジションを実感する毎日の中にいた。  受験生になり、将来の不安やストレスで情緒不安定になる生徒が増えているのだろう。教室でも部活でも、大小のぶつかり合いがよく起こるようになった。そんな時、蛍は当然のように『ちょっと間入って』『おまえからあいつにうまく説明してくれよ』『フォローしといてやってくんない』と頼まれる。頼まれずとも、ここは自分がいくしかないのかもしれないと感じ、進んで関わってしまう時もある。  おまえいいやつ過ぎて損するタイプだよな、と笑う友人もいた。苦笑を返しながら、少しだけ疲れを感じていた。  そんな自分が、ピカピカとは。首をかしげる蛍に、伊月はさらりと答える。 「だって、いつもニコニコしてるじゃんか」    蛍は思わず、情けなく目尻を下げて笑った。 「それはピカピカとは違うよ」 「違う? どう違うの?」  今度は伊月が、不思議そうに頭を傾ける。 (全然違う。俺のはただの愛想笑い。本当に楽しくて、笑いたくて笑ってる時なんて、きっと半分以下だ) 「……笑ったほうがいいかなって思って、そうしてるだけの時もあるから」  小学生の義弟に何を話しているんだろうと思いつつも、なんとなく伊月には取り繕うだけの言葉を言いたくなかった。だが、こんな曖昧な物言いをしても義弟は困るのではないか。不安がよぎった時、伊月は感心したように目を丸くして言った。 「そんなのできるのすごいじゃん。俺、笑ったほうがいいと思っても全然できない」 「え……」  蛍はぽかんと口を開く。さらに褒められるだろうとは思ってもいなかった。しかし伊月は、本心で称賛しているようだ。 「俺、怖いとか、怒ってるのか、とかよく言われる。怒ってないし、怖いって思われたくないけど、兄ちゃんみたいにニコニコできない。兄ちゃんすごい」 「伊月……」 (ああ、そうか。伊月はそういう……)  自分を出すのが苦手な、おとなしくて不器用な少年。そんな伊月には伊月なりの生きにくさがある。だから、心からの尊敬を向けてくれていた。嘘がないことは目を見ればわかる。 (俺の作り笑いを、そんなふうに褒めてくれるんだ)  澄んだ瞳で自分を見上げる伊月を、蛍はこの時、これまで以上に可愛く思った。もっと伊月が小さかったらぎゅうっと抱き締めるか、肩車でもしてあげたい気分になった。 「けど、いつもニコニコは疲れる時もあるんだよ」  感動ついでにぽろっと弱音をこぼしてみる。すると伊月はしばらくうーんと考えてから、親指でクイと自分を指した。 「じゃあ、疲れたら俺に言ってよ。一緒に休憩しよ」 「……休憩?」  きょとんとおうむ返しして数秒後、伊月はぷはっと噴き出す。 「え、なんで笑うの」 「ああ、いや、ごめん。……嬉しくて」 (伊月と一緒に休憩か。そうだな──それはきっと、すごく名案だ)  自分が自虐的にとらえていた部分さえ肯定してくれる伊月が、疲れた時にも拠り所になってくれる。自分とは違う伊月は、作り笑いなんてしない。本物の笑顔を見せてくれる。そんな伊月の前でなら、自分も本物の笑顔でいられるだろう。  伊月という弟ができたことを、改めて喜ばしく思った。 「俺にとっては、伊月もピカピカしてるよ」 「へ? 俺がぁ……?」  自然と出た言葉だが、伊月はまた不思議そうな顔をする。蛍はうんと頷いて、川辺で瞬くホタルに目をやった。 「あんなふうにピカピカして、すごく綺麗だし……」  次に、そっと伊月の手を取って空を見上げる。 「あのお月様もだ。ほら、伊月の『月』だろ?」 「……お月様」  手を繋いだまま、伊月も上空を振り仰いだ。今日は空も晴れており、少しだけ欠けた月が白々と浮かんでいる。柔らかい光が川原に降り注いでいた。 「太陽みたいに眩しくないけど、月も夜の世界を優しく照らしてくれてるよな」 「……優しいピカピカ?」 「そう、優しいピカピカ。伊月もそういう感じ。ぴったりの名前だ」 「……じゃあ俺たち、ピカピカ仲間だ」  呟くように言った伊月の横顔は、じんわりと、嬉しそうに微笑んでいた。 「たしかに。俺たちきっと、すごく相性いいよ」  そう言って微笑み返したその夜が、最初だったと思う。  自分の中の特別な場所に、伊月がするりと入り込んで棲みついた。  恋愛事への関心や興味は薄く、機会もなかったので自分が同性愛者かもしれないと気づいたのはもう少し後の、高校に入ってから。  その時にも、伊月はやはり特別な場所にいた。  でも、伊月に対してだけじゃない。イケメンのクラスメイトはかっこよくてドキドキするし、体育の着替えでは友人の鍛えられた身体にそわそわする。伊月に対するものが一番大きいとしても、それは一番傍にいるからで、そういうものだと決まったわけじゃない。だって義理とはいえ弟だ。家族だ。  今となっては、懸命にそう言い聞かせていたのだとは思う。だが、年々ごまかし切れなくなってきて──。  ※※※※ 「おい、惣領! 聞いてるか?」  鋭い呼び声に、蛍は慌てて立ち上がった。 「はっ、はい。すみません」  月曜の午後、デスクを向かい合わせに並べたオフィス。奥のお誕生日席から、上司の大間(おおま)がこちらを不機嫌な顔で見ている。急いで駆け寄ると、薄いファイルを手渡された。 「これ、坂東(ばんどう)に返しとけ。んで、こんな暇があるなら海外事業部の案件を前倒せって言っとけ」 「坂東くんにですか?」  蛍は商社のシステム部で社内SEとして勤務している。今年で入社5年目になり、昨年から主任という役職を得ていた。いくつかあるチームの長になる役割で、坂東は自分のチームに所属する部下だ。年下でまだ大学生にも見える若者だが、業界経験を持つ中途採用者で腕は立つ。  しかし渡されたファイルが何かわからず尋ねると、坂東が自主的に提出した資料だという。人事部からの要望を元にした、システム改修案とのことだ。 (は、なんだそれ。たしかに人事部からシステム改修の相談は来てるけど、まだプロジェクトとしては先で具体的なことは何も決まってないのに)  経験を見込まれて入社した坂東が、早くこの会社で業績を上げたがっていることは知っていた。とはいえ、スケジュールにもないことに単独で着手しているとは。意欲的なのはいいことだしいずれ役立つものにはなるだろうが、今すぐ必要な作業ではない。 「おまえ、ちゃんとあいつの舵取れよ。よそでデカいプロジェクトの経験があろうが、うちにはうちの順序とやり方がある。部下に好き勝手させてんな」  蛍がまったく把握していなかったことを知った大間は、呆れたようにデスクを指で叩いた。 「はい。すみません、私の管理不足で」  蛍は頭を下げて自席に戻る。そういえば離席中の坂東はどこへ行っているのだろう。コーヒーブレイクにしては長い気もする。 (まさか、一人で勝手にいろいろ動いてたりしないよな……?)  伊月を自宅に迎え、同居生活が始まったのは昨日のこと。昨夜の一件が頭を離れずぼんやりしていて、坂東がいつから席にいないかも覚えていない。 (今は伊月のことを考えてる場合じゃない。仕事に集中しないと)  深呼吸をして、蛍は気持ちを切り替えた。 「お疲れさん。まだ終わらないのか?」  定時を50分ほど過ぎた頃。ぽんと肩を叩かれてPC画面から顔を上げると、同期の仲根(なかね)が傍らに立っていた。大学でアメフトをやっていたという体格のいい男で、外見はあまりシステム関係者らしくないが、こう見えて彼も優秀なSEだ。蛍と同じく主任で、別のチームを取りまとめている。 「うん、今日はもうちょっとやっていこうかと思って」  今日はと言ったが、蛍が定時で退社する日はあまりない。上場企業のシステム部だけあって常に複数の仕事を掛け持ちしているうえ、各部署から毎日のように小さなエラー報告や相談が入ってくる。主任になってからは部下の仕事を巻き取ることもあり、業務量が格段に増えていた。2時間以上の残業もざらにある。 「そうか。なんか昼間、大間係長にやられてたけどそっちは解決してる?」 (う……あれ、聞いてたのか)  入社当時からの付き合いで立場も同じとあり、苦労をわかり合える同朋だ。それぞれ別のプロジェクトを担当することが多いが、二人で飲みに行っては愚痴を言ったり意見を交換したり、こんなふうに気遣い合う仲が続いていた。  とはいえ坂東の件については自分の至らなさもあってバツが悪く、蛍はあいまいに微笑む。 「うん、一応解決した」  坂東にはあの後声をかけ、余裕があってもスケジュール上の業務を優先してほしいことと、それ以外の提案や意見がある場合はまず自分に相談してほしいことを話した。わかりましたと返事した坂東は仏頂面だったが、一応は納得してくれたようだ。 「ならいいけど。今日、いつも以上に青白い顔してんぞ。あんま無理すんなよ」  言って、仲根は「やるよ」とシリアルバーをデスクに置いた。 「これ食って頑張りなさい。でも適度なところで帰れよ」 「わかってるよ。ありがとう」 (相変わらず面倒見がいいやつだな)  気遣い合う仲といっても、実のところ蛍のほうが気遣われる側になってばかりだ。仲根は大らかな性格で物事にもどっしり構え、チームメンバーから頼りにされている。同僚だが同時に、自分も彼のようにできればという憧憬の対象だった。仕事を詰めるのは、彼に後れを取ってはいけないという焦燥感が一因でもある。 (でも、たしかに今日はずっと頭が重いな。週末まで長いし、無茶はしないようにしよう)  もらったシリアルバーはありがたく頂き、1時間半ほど残業したところでオフィスを出た。

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