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4 変化①
数日後の4月1日、伊月は入社式に出席し社会人生活をスタートさせた。
蛍のほうは3月から進めていた最も大きい案件、海外事業部が使用している自社専用システムのリプレイズが佳境に入っている。いくつか想定外のトラブルも起こったため日に日に多忙になっていき、リリースを目前に控える4月中旬には、鬼のような忙しさだった。
「ただいま……」
「おかえり」
23時前、消え入るような声でリビングに入ってきた蛍を、すでに入浴を済ませた半濡れ髪の伊月が迎える。
「飯、駅前のデリで適当に買っといたから食うならどうぞ」
「ありがとう……でも今夜はいいかな。仕事しながらおにぎりも食べたし。明日の朝に頂くよ」
申し訳ないと思いつつもそう言うと、伊月は少し目を細めて「了解」と頷いた。
「じゃあ朝、ちゃんと食べろよ。食事はできるだけ疎かにすんな」
「うん、わかってる」
伊月が心配してくれているのは毎日ありありと伝わってくる。しかしリリース前が多忙なのは仕方ないとも承知しているようで、基本的には口出しせず見守ってくれていた。今も、とにかく早めに寝たいという蛍の心情を察してくれているのだろう。
伊月自身、新人研修で大変な時期だ。残業はないが、平日の9時から18時までみっちり知識を詰め込まれているという。だから自炊や家のことは、お互い可能な範囲で構わないというルールを作った。仕事だけでかなり気疲れするだろうし、飲み会など終業後の付き合いもあるだろう。実際伊月が自炊することも減り、代わりに今日のように何かと買い込んでくれている。
「さっさと風呂入って寝な」
蛍の横を通り過ぎる際、伊月は足を止めてするりと蛍の腰を抱き寄せた。頬にキスをして、すぐに離れる。
「……うん」
何事もなかったように廊下へ出ていく伊月の後ろ姿を、蛍はなんともいえない心持ちで見送った。
介助と称して口でされた日以来、伊月は蛍に手を出そうとしてこない。恐らく、多忙を極める蛍の体調やメンタルを気遣っているのだろうと蛍は考えている。考え事があると鬱々としてしまい眠れない蛍の、考え事をひとつ減らしてくれているのだろう。
だが、ただの弟に徹してくれているかといえばそうでもない。時折先ほどのように、軽いスキンシップを涼しい顔で仕掛けてくる。気遣いつつも、『諦めたわけじゃないよ、それは忘れないで』という意思表示なのかもしれない。
大体今のような別れ際にされ、伊月が去っていくのをいいことに、蛍もなかったことのようにふるまう日々を送っていた。
「……むしがいいよな」
入浴を済ませ、自室のベッドに腰を下ろした蛍は自虐のため息をつく。
(応えることなんてできないと思ってるくせに、伊月が与えてくれてるつかの間の猶予に甘えて……)
ハグや軽いキスを普通に受け入れてしまっている。拒むでも責めるでもなく受け流して、問題を先送りにしている。余計な期待をさせるだけかもしれないのに。残酷でずるい。
自己嫌悪でずぶずぶと床に沈んでしまいたくなっていると、ヘッドボードに置いたスマートフォンが震えた。メッセージの着信だ。
こんな時間に連絡してくる者の心当たりは多くなく、見ると予想通りの人物からだった。
『仕事、まだ忙しいんだっけ?』
(恭一さんも割と忙しそうだったけど、落ち着いたのかな)
送信者の名は堀野 恭一 。アプリで知り合い、1年ほど関係を続けている相手だ。31歳で年上なので『恭一さん』と呼んでいる。フリーのWEBデザイナーで、バイ。他にも相手がいるらしく、自分とは身体だけの割り切った関係。
エスコートがスマートで、過剰に興味を持ち、蛍の内に土足で踏み込んでくるような真似をしない。会っていて楽というか、相性がいいように感じて蛍にしては珍しく長く続けている男だった。
しばらく忙しくて会えないと伝えてあったので、久々の連絡だ。一瞬伊月の顔が脳裏をよぎったが、瞬きをして残像を追い払った。気にする必要も、ましてや伊月に断る必要もない。弟なのだから。
予定が合ったら会おうという話を先月からしているのに、いきなり拒絶や無視もできない。
(もう何年も、こうやって生きてきた。これからだって……俺には、こういう生き方しか)
端的にリリース日と、それ以降なら落ち着くという内容を返信する。1分も経たずに再びメッセージが来た。
『リリース日は、また前日から深夜作業のパターン?』
そうです、とだけ返す。了解とスタンプが来て、やり取りはそれで終わった。候補日の連絡まで来るかと思ったが、向こうもまだ予定が定まらないのかもしれない。
(知らせる義理もないはずだ。でも、もし知ったら伊月は……)
スマートフォンを戻しながら、胸にはざらざらした澱 が溜まっていく。正体はわかっていた。先ほどまでも感じていた自己嫌悪。罪悪感、後ろめたさ。そして、それを認めたくない苛立ち。
(本当に、俺はずるい)
ずぶずぶ、ずぶずぶずぶ。泥の中に沈んで埋まってしまえればいいのに。
「……いや。とにかく、今は寝ないと」
考え込んでいる時ではない。現状の最優先事項は仕事だ。体調をキープし、リリースを乗り切る。
社会人としての責務を果たすことを第一に考えよう。そう気を取り直し、明かりを消してベッドに潜り込んだ。
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