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「桃ちゃんだけには、勘違いしてほしくない」
泉さんが僕の最寄り駅まで送ってくれた翌日。
僕はいつものように大学の図書室で、卒論の準備に勤しんでいた。
暖房のせいか、換気ができていないのか、空気が重い。
頭に、もやーっと霧がかかったような感じ。
今日はこれ以上やっても、だめな気がする。
早めに家に帰って、ゆっくり休もう。
あとは明日の自分に託す! そう決意した僕は、駅までの道をゆっくり歩いた。
こんな気分のとき、泉さんならどんなコーヒーを淹れてくれるんだろう。
そんな考えが頭を掠めた瞬間、すーっと霧が晴れたような、少しすっきりした気分になった。
……コーヒー飲まなくても、気分変わってる。
でも、泉さんの淹れてくれるコーヒーが飲みたい。
泉さんって、すごいな。
火曜日、泉さんのお店は定休日。
あの日以来、他の店のコーヒーは飲んでいない。
だから、今日は真っ直ぐ駅へと向かう。
もうすぐで駅に着く、というときに、聞き覚えのある豪快な笑い声が聞こえた。
声の方を見る。
車道を挟んで向かい側の歩道。
……泉さんと石井さんが、並んで歩いていた。
僕の足は、止まった。
石井さんが泉さんの胸元をとんっと優しく押す。
それに対して、また「あはは!」と笑う泉さん。
……美男美女。すごくお似合いだな。
胸がきゅっと締め付けられた。
霧は晴れたはずなのに、苦しい。
いつのまにか、泉さんが僕を見つけて、
「おーい!」と手を大きく振っていた。
石井さんもこっちを見ている。
僕は居た堪れなくなって、早足で駅に向かった。
「え……、桃ちゃん、なんで……」
俺に気づいたのに、無視して早足で行ってしまった。
「んー、なんか勘違いしちゃったのかな」と、石井が呟く。
「勘違い? 俺と石井がなんかあると思われてるってこと?」
「分かんないですけど! 店長、追いかけたほうがいいですよ! 絶対!」
と石井が目をギラつかせて、ガッツポーズしている。
「わかった。じゃあ、あとは任せるから。領収書もらい忘れんなよ」
石井の「了解です!」を聞くか聞かないか、俺は駅に向かって走り出した。
駅の階段を降り切ったところで、見慣れた短い黒髪と、華奢な後ろ姿が目に入った。
「桃ちゃん……待って……!」
僕のことをそう呼ぶ人は一人しかいない。
後ろを振り返ると、両膝に手をつきながら息を切らした泉さんが、僕を真っ直ぐ見ていた。
「泉さん……」
「桃ちゃん……さっき、なんで行っちゃったの?」
「……あの、なんていうか、お邪魔かなと思って……」
「邪魔とかないし、石井とは買い出し行ってただけだから……」
泉さんは、まだ息を整えきれないまま話し続けた。
「桃ちゃんだけには、勘違いしてほしくなくて……それだけ言いたくて……」
こんなにも余裕がなくなってる泉さん、初めて見た。
『桃ちゃんだけには』……?
「僕だけ……?」
もう、聞いてしまっていた。
「そう、桃ちゃんだけには勘違いしてほしくないから。石井はただの仕事仲間で、それ以上でもそれ以下でもない」
「……そうだったんですね」
それしか言えなかった。
でも、さっきまで胸を締め付けていた苦しさが、少しずつほどけていく。
泉さんの言葉はいつも僕の心を溶かすんだ。
「泉さん、ありがとうございます」
僕は泉さんへのこの感情が、特別なものなんだということに気がついた。
そして、それを宝物のように大切にしようと思った。
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