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柚子side

◇ 「おはよ」  まだ少し重い瞼を閉じたり開いたりしながら、徐々に明るさに慣れゆっくり目を開けると、俺の顔を覗き込む男が視界に入ってきた。  きれいな黒髪に、少しだけきりっとした目。  だけど、笑うと可愛さがあらわれる。  優しく微笑むその男に、つられて俺も微笑み返した。 「……おはよ、」  でも、そういえば昨日……と、雨の中みっともなく濡れながら泣いていたことや、着替えさせてもらったこと、頭を撫でてもらったこと、色んなことを一気に思い出し、恥ずかしさが駆け巡る。  頬の熱が内側からじりりと上がり、思わず視線をそらせば、その男の手が視界に入り、今度はその手の温もりまで思い出してしまった。  赤くなった顔を絶対に見られたくなくて、俺は布団を少しだけ上げると、そのまま顔を隠した。 「あんた、家近く?」  それなのに男は、そんなことはお構いなしに、せっかく隠した顔が見えるようにして、布団を勢い良く下げた。   「なぁに照れてんの?」  両頬を包まれ、顔を近づけられたせいで、顔を逸らせない。 「照れてない、し、ちょっと、遠い……」  この状況から逃げられず、戸惑った俺は目を伏せ、それだけ返事した。  男は「あんたって、からかいがいがあるね」などと言って笑い、俺に触れるのをやめてくれた。  それでもこの頬の熱は、確実にこの男に気づかれただろう。 「遠いんだ?」 「うん」  この男の家の前を通っていたのは、ホテルからの帰りだったからで、たまたまだ。  いつもは津森さんがある程度の場所まで送ってくれていて、俺はそこからはバスで帰るようにしていたから良かったものの、実際は大学を挟んだらこの男の家とは真逆の場所にあるはず。 「ふーん。あんた名前は?」  わざわざ場所を説明するまでもないよねと、そんなことを考えていると、それ以上はどうでもよかったらしく、今度は名前を聞かれた。 「え?」 「名前。俺は、橘夕(たちばなゆう)」 「ま、真宮(まみや)柚子(ゆず)……」 「ゆず?」 「う、うん」 「へぇ」  何か、嫌な印象でも持たれたのだろうかと、彼の表情を確認した。  俺もこの名前に良い印象がないから、自己紹介後に他人からどう思われるかを過剰に気にしてしまう。  俺の性癖に気付いたクラスメイトにからかわれるようになったきっかけの一つに、この名前があったから。   『お前女になりてぇの?』 『名前も女みてぇだもんなぁ』  あの頃は、そのせいで何もかもが嫌に思えた。思い出すだけで息が詰まりそうになる。  ……けれど、そうじゃあないと言ってくれたよね。    目の前の男、橘くんが優しく微笑む。 「可愛いね、名前」  その一言に、思い出してはいけないことが、ぼんやりと浮かんできた。 「あんたに、ぴったりだ」  そんなふうに言ってくれたよねって。橘くんの言葉と重なって、大切で残酷な記憶が、当時の彼の言葉で蘇る。 『柚子くんって言うの?』 『君にぴったりだね』  彼の声がすぐそこで、聞こえたような気がした。 「あ……、」  俺の頬を、涙が伝う。浮かんでくるのはあの時の彼の笑顔。でももう取り戻せないし、その笑顔を見られることは二度とないんだ。  ……津森さん。  名前を好きになれたのも、あなたのおかげだった。

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