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柚子side

 ぽたりと涙が頬を伝い、枕にいくつもの染みを作っていく。  どうにかして止められるものではないから、声を押し殺して泣く俺を、目の前の橘くんは困ったような顔で見ている。  でもそれも、溢れ出る涙で滲み、ぼやけたこの世界では見えなくなった。 「また思い出したの? 嫌なこと」 「……っ、あ、」 「バカだね。早く忘れなよ」 「ひ、ぅ……」 「……泣かないで。目、腫れるよ?」  いつか、この感情を、これまでの津森さんとの日々を、彼の笑顔を、声を、触れた肌の温かさを、忘れられる日が来るのだろうか。  俺にたくさんの初めてをくれた人のことを、忘れられる……?   でも、忘れたら、どうなってしまうのかな。  彼との楽しい思い出を忘れたら、俺はどうやって生きていけば良いの?  楽しかった思い出が全て消えてしまったら、俺に残るのは今までの苦しみばかりだ。  ……そんなの、あまりにも怖すぎる。  無理やり指先に力を入れてシーツを掴む。  すると橘くんが、上から包むようにして自分の手を重ねてきた。  恋人繋ぎをされ、親指を彼の指の腹で撫でられる。 「泣き虫め」  それから、彼は自分が着ているトレーナーの袖で、躊躇なく俺の目をゴシゴシと拭いた。 「……っ」  ひりひりとする瞼をゆっくりと開けると、開けたはずなのに視界は真っ暗なままだった。  視界が遮られているからよく分かる。とくん、とくんと、リズムよく聞こえる彼の心音。優しく頭を撫でてくれる手の感触。  抱きしめられていると、理解するのに時間はかからなかった。  昨日と同じ石けんの香りに包まれながら、彼の温もりも感じる。  橘くんの吐息が耳にも、首筋にもかかり、くすぐったさからぞわりとした。 「柚子さん、あんた大学生でしょ? 土曜も講義入ってんの?」  動かせる範囲で首を横に振り、土曜日は何も無いことを伝えると、橘くんはさらに強く俺を抱きしめた。 「じゃあ今日はずっと一緒にいよう。あんたが泣き止むまで俺が傍にいてやる」 「……っ、」 「だからいっぱい泣いていいよ」 「ふ……ぅ、……っ」  優しくされると、その分弱虫になる。  病気の時とか、気持ちが弱っている時に優しさをもらって、わけもなく泣けてくる時と同じだ。  津森さんのことでこうなってしまったけれど、きっとそれだけじゃあない。  これまでの人生で、他人に優しくされることに慣れていないから、余計に心に染みるのだろう。 「……ぅ、……あ、」  橘くんは、何も聞かなかった。  昨日からずっと、こうして泣いているのだから、本当はその理由が気になっているはずなのに。  何があったのか、どうしてこうもずっと泣いているのか、何も聞くことなくしばらくの間抱きしめてくれていた。  俺はそれに甘えて、彼の胸で思いきり泣いた。 「すっきりした?」  ようやく息も整ってきた頃、橘くんが俺の顔を覗き込むようにしてそう聞いた。  瞼はさっきよりもひりひりと痛く、鼻も詰まっている。ずるっと鼻を啜ると、笑いながらティッシュを渡してくれた。  少し恥ずかしい気持ちがして、彼から顔を背けて鼻を擤んだ。  俺は一体、どのくらい泣いていたのだろうか。  ふと目を遣ると、俺を抱きしめてくれていた橘くんの服は、大袈裟かもしれないけれど絞れそうなほどに濡れていた。  色が変わってしまったその服を見て、恥ずかしさやら申し訳なさで複雑な気持ちになる。 「ごめん……」  聞こえるか分からないくらいの声でぼそりと呟くと、そっと橘くんの胸に顔を埋めた。 「いいよ別に。それよりさ、お腹すかない?」  こんなに泣く人は初めて見たよと、ぽんぽんと俺の頭に触れながら、橘くんが笑う。  普段から涙もろいというわけではなかったのに、今回は本当にたくさん泣いてしまったな。  でもすっきりしたかと言えば、そんなことは全くなく、だからこそモヤモヤした気持ちが晴れない。  けれど、橘くんにこうして優しくしてもらえたことで、少しだけ心が満たされたのは事実。  ……感謝、しなきゃね。  そんなことを考えていると、タイミング良くお腹が鳴り、ぐぅ……という低い音が部屋に響いた。  泣き顔を散々見せた後、今度はお腹の音を聞かせるなんて。  呆れられるかもしれない。ああもう、どうしよう。顔が上げられなくなってしまった。 「あれだけ泣いたら、そりゃあお腹もすくよ」  それなのに橘くんは、そんなことを気にしているのが馬鹿みたいに、明るくははっと笑ってくれた。 「……うぅ、」  恥ずかしいのさらに上を、どんなふうに表現すべきなのか分からないけれど、確実に恥ずかしいを超えてると思う。  気にしなくて良いとしても、それでも俺は顔が上げられないよ。  俺は深く俯いたまま、橘くんの服をきゅっと握った。

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