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柚子side

「……っ、」  昨晩、雨の中を泣きながら歩いているところを彼に見つかり、言われるがままに家に連れてこられた。  冷たくなった体を拭いてもらい、こうして服も貸してもらった。そもそも着替えさせてくれたのも彼だ。  濡れている髪も丁寧に乾かしてもらったし、理由も聞かないままで涙も拭ってもらった。  泣き止むまで温かな手で俺を抱きしめてくれた彼に甘えてしまっただけではなく、今は、ご飯を買いに行ってもらっている。  ……俺は本当に、何をしているんだろう。こんなにたくさんのことをしてもらっているのに、お返しできるものは何もない。  橘夕という、彼の名前しか知らない。  同じ大学生だとは思うけれど、学年も学部も分からない。  一人暮らしということは、恐らく近くの大学に通っているのだろう。  県内にはいくつか大学があるけど、ここに住んでいるということは、ほぼ間違いなく俺と同じ大学だ。  良い人だったんだから、気にすることないのでは? これからできることを返していけば良いよ、って普通ならそう考えるかもしれない。  けれど俺は、普通ではないから。 「……はぁ、もうどうしよう」  当たり前のように甘えてしまったけれど、冷静さを取り戻した今なら分かる。居心地の良さに甘えるべきではなかったって。  他人から優しさを与えられることが滅多にないから、そのせいで自分が普通ではないことを忘れていた。  これ以上彼と関わらない限りは大丈夫だろうとは思うものの、男が原因で泣いて、お世話になったことがバレたら、その時は何もかもが終わってしまう。  過去から、これまでの全てから逃げたくて、わざわざ地元から遠い大学に来たんだ。  それなのに、自ら居られなくなる原因を作ってしまったかもしれないことが怖い。ここにも居られなくなったら、俺はどうしたらいい?  形だけでも良いから、今まで得られなかった居場所を、ここで見つけるって決めたのに。  ……ダメだ。  さっきまでは恥ずかしさから顔が熱っていたけれど、今は正反対。倒れてもおかしくないほどに、真っ青な顔をしていると思う。  急に襲ってきた緊張感から喉は渇くし、心臓の音が身体の内側から響いて、耳を強く刺激する。  喉の奥のほうがなんだかもやもやして、吐き気さえもする。  俺は震える手を伸ばし、自分の荷物を取った。まだ乾き切っておらず、湿った感じが手に伝わる。  それから、鍵をどうしようだとか、急にいなくなれば彼を驚かせてしまうだろうなとか、そういうことを考える一切の余裕もなく、橘くんの部屋を飛び出した。  彼の服を着たままだっただけではなく、昨日の自分の服も忘れてしまっていることに気付いたのは、家に帰り着いてから。  けれど、そんなことはもうどうでも良かった。お互い捨てれば良いだけだ。 「はぁ……、」    今まで一度も彼に会わなかったんだ。  気付かなかっただけでは? と言われればそうかもしれないけれど、俺の中では何となく見たことある、とさえも思わなかったからきっと大丈夫。  根拠なんてないけれど、今はそう思わなきゃ立っていられない。怖すぎる。  連絡先も知らない。  橘くんの家も、俺の家からそんなに近いわけじゃあない。  元々あちら側を歩く機会なんてなかったし、俺も近付かないようにすれば良い。    大丈夫。忘れるし、忘れてもらえるはずだ。そもそも、また会いたいと思ってもらえるほどの価値もない人間だし、なんとなく人に好かれそうな彼が、わざわざ俺を求めることもないだろう。  “こんなに泣く人は初めて見たよ” 「……っ、」  橘くんの声を思い出し、俺は大きく左右に首を振った。  彼の家を出る前にあった空腹感は当たり前だけれど戻ってくることもなく、唇と喉が乾くばかり。  俺は冷蔵庫を開けお茶の入ったボトルを手に取ると、コップに注ぐことなく、直接喉を潤した。  それから、着替えも何もしないままでベッドに寝転んだ。ギシリと嫌な音が響き、それに驚かされたと同時に、自分のではない石鹸の匂いがし、それにまた心臓が騒ぎ出す。  彼の声、指先の熱、優しく笑う彼の笑顔。 「くそっ、」  少しでも落ち着けるように、大きく息を吸い、それから長く吐き出す。 「ふ、……う、」  寝てしまえば、夢だったと思うことができればと、俺は布団を深く被り、強く目を瞑った。

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