14 / 101
柚子side
「……橘くん」
「ん? なに?」
ん? って。こっちが何、だよ。
そんな優しい声色で返事をしないでほしい。警戒したり緩んだり、ただでさえ頭の中が忙しいのだから、気持ちのほうでも振り回されたくない。
「もう、帰ってもいい?」
「何で?」
「何でって、そもそもここにいなきゃいけない理由が分からないし……。もう話すこともないみたいだし……」
俺の質問に対して黙り込んだ橘くんは、目を細め、何かを考えているような表情をした。
連れてきた意図を、どんなふうに伝えるのか、そんなことを考えているのだろうか。
「……っ、」
とはいえ、あまりにも真剣に見つめられるから、俺は視線を逸らして、さっきと同じように抱えた膝に顔を埋めた。
やっぱり真っ直ぐ射抜かれるように見られるのは怖い。
俺が見つめられることに、この距離感に、慣れていないからとかそういうことだけじゃあない、何かがあるから。
「柚子さん」
顔を上げてはいけない気がして、さらに埋めたところで、頭に置かれた彼の手がするりと下がっていき、熱を帯びた耳に触れる。
思わず身を捩ると、その隙に彼の手は俺の頬にまで届く。少し、くすぐったい。
「橘くんっ、……っあ、」
咄嗟に顔を上げてしまった俺に優しく微笑み、指先で頬を撫でる。
あんなに怖かったのに、今の橘くんから目が離せない。どうすれば良いのか、どんな反応をするのが最適なのか、何も分からなくなってしまう。
「きーちゃん」
「……え?」
「あんたのあだ名」
「え?」
「柚子は黄色いから、きーちゃん。俺以外には呼ばせないでね」
良い? と顔を近づけながら尋ねる彼に、うまく声が出ない。どうせ、拒否したところで勝手にその呼び名で呼ぶくせに。
何の返事もしないでいたら、もう一度「きんゃん」と呼んだ橘くんは、唇がぶつかりそうになるまで一気に距離を縮めてきた。
慌てて顔を埋めようにも、添えられた彼の手がそれを阻止する。
「なに……っ、ねぇ、」
「きーちゃん」
「それ、呼ぶな……ぁっ」
自分でもなぜこうなっているのか分からないくらいに気持ちもぐちゃぐちゃで、うるさい心音が内側から響き、呼吸が乱れる。
この音を聞かれるんじゃあないかって、さらに緊張が増して、大きく息を吸って目を瞑ると、頬に柔らかい感触がした。
耳に吐息がかかったことで、彼にキスをされたと分かった。
「橘くん……!」
「ねぇ、柚子さん。前に言ってたよね。土曜日は授業ないんでしょ? だからさ、今日は泊まっていきなよ」
「……っ、」
「着替えはこの間うちに置いて行った服を着ればいいし。パンツとかは貸すし。ね?」
「なん、で?」
どうしてそんな話になるのか。
そもそも俺にキスをした理由は? 揶揄っているの?
何事もなかったかのように泊まりの提案をしているけれど、だいたい土曜日に学校がないからといって、この家に泊まらなきゃいけない理由にはならない。
確かにあの日はいっぱい迷惑をかけたし、お世話にもなった。
けれどあれだって、俺が自ら頼み込んでしてもらったわけじゃあない。彼が俺に声をかけて助けただけ。
ある意味で俺が、彼の行動に巻き込まれたんだから。俺ばかりこんなふうに好き勝手にやられるのは違うだろ。
俺はもう、とにかくこの場から逃げ出したくて、橘くんの胸を思いっきり押した。
それなのに彼はびくともしなくて、反対にその手を掴まれてしまった。
振ってみても、捻ってみても何も変わらず、彼がこの手を離してくれる気がないということだけ分かった。
握られた箇所が熱い。
「あんた、泣くじゃん」
「……っ、」
俺の腕を掴む彼の手に、さらに力が入る。
痛い、と言ってみるも、その力が緩められることはなかった。
「すぐ泣くじゃん」
「だったら、何?」
キスをして、俺が離れていかないようにこんなことまでして。結局、彼のやりたいことが何も分からない。
俺が泣いたら何? 心配? 心配してどうするの? 泣いた本当の理由も知らないくせに?
どうせ理由を知ったら、こんなこと絶対にやらないくせに。
ともだちにシェアしよう!