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柚子side
◇
「きーちゃん!」
「……、」
声をかけるにしてはまだ距離があるところで、橘くんは周りを気にすることもなく俺の名前を呼んだ。
橘くんが同じ大学にいることがはっきりと分かった今、彼が近くにいないかつい探してしまうようになったせいで、早い段階で気づいてしまうこともこうして彼が俺の名前を叫ぶようにして呼ぶきっかけになってしまっている。
けれど、警戒しておかなければ、突然背後からやってきて抱きついてきたりするし、とにかくボディタッチが多くて困るから。
これまでは友人同士だとしても、そういうじゃれ合いなんてものがなかった俺は、構えていなきゃいちいち心臓がうるさくなってしまう。
そんな俺に対して、今では完全にポジティブな感情だけで俺を探している橘くんは、俺を見つけると、「きーちゃん」と、何がそんなに嬉しいのか分からないほどに大きく笑っている。
今までになかったことだらけで、ただでさえ戸惑っているというのに、そんなふうに俺に声をかける彼の周りには、いつもたくさんの友人がいて、その橘くんの友人らの視線まで浴びだしたからたまったもんじゃない。
最近ではその友人たちに、橘くんと一緒にいない時でも声をかけられるようになってしまった。
隣にいる大学からの俺の友人にも「お前、いつから後輩と仲良くなったんだ?」と不思議がられるほど。
囲まれることに慣れていない俺は、純粋な気持ちでその状況を喜ぶことはできないものの、それでもその時に感じる恥ずかしさやら嬉しさやらが嫌ではない。
「きーちゃん」
駆け寄ってくる橘くんを待ちながら、少しだけ彼を睨んだ。
「きーちゃんって呼ぶの、やめてよ」
「え? 何で?」
「恥ずかしいし……」
「ん? 可愛いからいいじゃん」
可愛いか可愛くないかで決めることではないのに。彼の考え方は、俺にはよく分からない。
変わらず少し睨みつけたままでいると、「そんな顔しないの」と、頬を摘まれた。
そのまま距離を縮められ、視線を合わせられる。彼の瞳の光もはっきりと見えてしまうくらいの近さ。
「近すぎ! それに可愛いから良いとか意味分かんないよ」
「そう?」
「うん」
「俺ってけっこう分かりやすいと思うけど?」
「そう?」
「うん。……ははっ。鈍感なきーちゃん」
橘くんはよく笑う。目を細めて、口も大きく開けて。目尻のシワが、彼の優しさを表しているよう。
そんなふうによく笑うから、自然と周りに人が集まって来るのだと思う。
強引なところもあるけれど、橘くんは人のことを良く見ているから。
「いい加減、手を離してくれない?」
「ははっ、赤くなってる」
「そりゃあこれだけ摘まれたらね」
「ごめんね」
「……謝る気なんてないくせに」
あれから何度か津森さんから連絡があった。一度、出てみたけれど、怖くなってすぐに切ってしまった。
そういうことがあった後、橘くんは必ず頭を撫でてくれる。何があったかなんて何も伝えていないのに、おそらく俺の雰囲気で察してくれているのだと思う。
それでも、相変わらず橘くんは何も聞き出そうとはせずに、そっとしておいてくれる。だからそれが、俺にとって本当にありがたい。
「きーちゃん、これから授業?」
「そうだよ。橘くんは?」
「俺も。今日は長いんだよなぁ」
「そうなんだ。頑張ってね」
「頑張ったらご褒美くれるの?」
「はぁ〜?」
橘くんは、まだよく分からないけれど、良い人だってことはなんとなく分かる。それに、そのまだよく分からない部分を、これから少しずつ知っていきたいとも思う。
別に恋愛対象としてということではなくて、感じている居心地の良さを、確かなものにしたいというか。……難しいけれど。
津森さんとは嫌な終わり方になってしまったけれど、だからこそ橘くんに出会えて良かったと思う。
何気ない日常が彩って、この大学生活の楽しみが増した。本当の意味で深く人と関わることは俺にはできないけれど、この毎日を大切にしたいと思える。
橘くんとの出会いは、俺のことを可哀想に思った神様が、引き合わせてくれたのかもしれない。
そんなことを考えるなんて、馬鹿げているのは思うけれど、それでもそんな気さえしてくるんだ。
「何のご褒美が良いか考えとくね」
「俺、あげるなんて言ってないんだけど」
「けち。じゃあね、柚子さん。頑張ろうね」
「はいはい」
橘くんとは、ずっと一緒にいられた良いなと、笑っている彼を見ながらぼんやりとそう思った。
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