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柚子side

「柚子さん」  俺の名前を呼ぶ橘くんの声は、たった数日聞いていなかっただけなのに、かなり久しぶりに思えるし、そしてこれまでと何も変わっていないように聞こえた。  懐かしいとすら思ってしまう。  けれど、どんな顔で彼を見つめれば良いのか分からないから、下を向いたままでいるしかなく、俺は履きかけていた靴から足を出し、一歩後ろへと下がった。 「柚子さん」  橘くんもまた一歩奥へと入り、少し開いたままだった玄関のドアを完全に閉めた。  自分の家なのに、閉じ込められてしまったような気持ちになる。  もう逃げることはできないし、あの日何も話さずに一方的に避けた分、ここで向き合うしかないのか。   「何で、来たの、」  これまでと変わらない、優しい声で俺の名前を呼んでいたけれど、それからどんな言葉を続ける気なの?  わざわざ高岡にまで頼んで、それでも俺に会いたかった理由は何? 「聞きたいことと、言いたいことと、とにかく色々あって」  その“聞きたいことと言いたいこと”は、伝えられる前から予想できる。  橘くん以外からも、数えきれないほど向けられてきた言葉だ。  俺は俯いたまま、噛みちぎってしまいそうなくらいに、強く唇を噛んだ。  優しい声に油断してはいけない。壊れないように、構えておかなければ。 「柚子さん」 「……、」 「柚子さんって、男が恋愛対象なの?」 「……っ!」  頭が、真っ白になった。 「……ぁ、」   『お前ってホモなの?』 『うっわー、コイツ男が好きなんだって』 『こえーよ、それ』 『俺らも危ないんじゃね?』 『キモいよ、普通じゃねぇって』  嫌な場面が一気によみがえる。手足が震えて、立っているのもやっとだ。  唇は乾くし、頭も胸も痛い。息の吸い方も分からなくなってくるよう。  わざわざ言いたかったことはそれなのかと、腹も立つ。 でも、何よりも、その言葉を橘くんに言われたことが一番悲しかった。 「柚子さん」  玄関にいる橘くんが靴を脱いだ。ぼーっとしている頭でもそれは分かったから、俺は反射的にまた一歩後ろに下がった。 「柚子さん」  これまでみたいに、優しく名前を呼ばないでほしい。呼ばれるたびに心臓が痛くなる。  変わらない振りをして、酷いことを言うくせに。先に嘘をついて裏切ったのは俺だけれど、だからってわざわざ、家に来てまであの質問をする必要なんてなかったはずだ。  この後、何を言われるのだろうか。もうこれ以上は耐えられない。 「こ、な……いで、」  ふらふらとした不安定な足取りで、後ろへと下がり続けるも、橘くんとは離れるどころか距離が縮まっていく。  これ以上、踏み込まないでほしい。気持ち悪いと、普通じゃあないとそう思うなら、もう関わらなければ良い。それで済ませてよ。  俺と、橘くんは、そういう意味では違う世界に住んでいるのだから。  分かり合えなくて良いし、理解しなくても良いから、わざわざ拒絶の気持ちを見せつけないで。……頼むよ。 「柚子さん」 「こな、い……で、や、だ」 「柚子さん、逃げないで」 「……っ、う、あ!」  足がもつれて倒れそうになった俺を、咄嗟に手を伸ばした橘くんが支えてくれた。  腰に回された手が少しずつ背中へと伸ばされ、そのまま彼の胸元へ抱き寄せられる。  ふわりと香る、彼の石鹸の匂い。変わらない安心感のある匂い。 「柚子さん、嫌なことを言いたかったわけじゃあないんだ。ごめんね。柚子さん、ごめん」  丁寧に俺に触れていた指先にも、抱きしめる腕にも力が入り、痛いと身を捩るけれど彼は離してくれない。  思い出してしまった嫌な場面は頭から消え、耳にかかる彼の吐息のリズムに合わせ、さっきまでうまく息を吸えなかった俺も呼吸が整っていく。 「柚子さん。男が好きなら、俺も好きになってもらえるってこと?」 「……え」 「俺、柚子さんがすごい好きだ。あんたのこと、ずっと愛おしくてたまらなかった。雨の日に見つけてから、ずっとだよ。一目惚れだったんだ」 「……っ」 「絶対にこの人だって、感覚的に分かる。俺、あんたのことを手に入れたい。俺のこと、好きになってほしい」  ノーマルな人でも、俺がゲイだという事実を自然に受け入れて、これまで通り接してくれる友人がほしいとずっとそう思っていたし、それが叶うか叶わないかの視点しかなかったから、橘くんの言葉を素直に飲み込めない。  彼は俺と同類じゃあないはずだ。それなのに俺のことを好きだって……?

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