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第2話
「そんなに怒ることはないだろ。横澤さん」
弱りきったふりで答えたが、『木下を切り捨てろ』と詰め寄られないだけ今日はマシだ。
何度も勧められ諭されたが、まだうなずく気持ちにはなれない。
「……知世(ともよ)は、どうしてるだろうな」
ふと、つぶやき、ハヤシライスをスプーンですくう。
「悪い噂はなにも聞きません。あちらで親切にしてもらっているんでしょう」
岡村もスプーンを動かし続ける。
実兄によってリンチ同然の暴行を受けた壱羽(いちば)知世は、生死の境をさまようほどの重傷を負い、片頬に大きな傷を残した。退院してからは、男娼あがりのユウキに誘われ、彼の養父のもとで一緒に暮らしている。
「いまの俺を見たら、なんて言うんだろうな」
「……いまのあなたには、なにも言いませんよ」
「じゃあ、ちょっと前の俺なら?」
「きっと、なにも……」
食事を続ける岡村に対し、はす向かいに座った佐和紀は頬杖をついた。
「時間を無駄にしたとは思ってない」
ぼそりと言って、穏やかなカフェミュージックが流れる店内を見回す。
喫煙エリアの二階が満席になることはなく、外回りの営業職が携帯電話をいじりながら食事をしていたり、大学生らしき男がヘッドフォンをつけながら書き物をしていたりする。
女の子グループの笑い声が階下から響いてくるのも、いつもの風景だ。
「軽井沢で療養しているんだっけ?」
自嘲に似た笑みを浮かべ、ほっそりとした知世の姿を思い起こす。
本来なら、年頃の知世は階下から聞こえてくるような笑い声に囲まれ、穏やかで楽しい学生生活を送っているはずだった。
あの兄が、いなければ。
あの家族のもとに、生まれなければ。
一本引かれた線を境に、知世は自力で幸せになれるはずだった。
しかし、弟を悪夢の中へ引き戻した兄は、薬物中毒の末に不審死を遂げ、その裏には『女狐と揶揄される由紀子(ゆきこ)の存在があった。魅力的な容姿と強い自尊心に裏打ちされた鉄の心臓を持つ女は、佐和紀と別居婚状態にある周平(しゅうへい)の過去だけでなく、姉と慕った京子(きょうこ)の過去にも禍々しく食い込んでいる。
佐和紀と敵対しながらもあきらめ悪く暗躍する彼女のバックには、高山組を分裂させようと企む真正会が控え、事態は知世と兄のいざこざを越えて、大滝組(おおたきぐみ)へも影響を及ぼしていた。周平が忙しく立ち動いていると噂の、北関東組織の麻薬問題だ。由紀子は新規麻薬販売ルート構築の先駆だった。
「……このごろは、横浜との往復だと聞いています。知世は樺山(かばやま)氏と気が合うようで、身のまわりの世話をしているそうです」
「世話係ってことか。タモツの仕込みだから、役に立つだろうな」
頬杖をついたまま、ぼんやりと思い出す。
横浜にいた頃、佐和紀の世話係は三人いた。アメリカへ留学した石垣(いしがき)保(たもつ)と周平のそばに残っている三井(みつい)敬志(たかし)、そして目の前にいる岡村慎一郎(しんいちろう)だ。
石垣がいなくなり、空いた世話係の席に収まったのが、岡村に惚れて転がり込んだ知世だった。
「行こうか。冬の軽井沢」
軽い口調で提案して、佐和紀はスプーンを握った。食事に戻りながら言う。
「美園がさぁ、誘っておきながら、すっかり忘れてるんだよな。まぁ、ここのところ、広島だ、福岡だ、って一緒に飛び回ってたから、そんな暇もなかったけど。……ホワイトクリスマスもいいと思わない?」
「お望みなら、手配します」
「あの男に別荘を提供させよう」
脳裏に、初めて訪れた軽井沢でのクリスマスが思い浮かぶ。
雪に埋もれた林の中にある小さな別荘の持ち主は、大滝組組長のひとり息子で、いまや世界中を飛び回る『パーティーピープル』にジョブチェンジした大滝悠護(ゆうご)だ。
佐和紀はいまでも、直通の電話をかけることができる。大阪に来てからは連絡を取っていないが、うざったいほど首を長くして待っているはずだ。
「あいつはうるさいから、来ないように釘を刺しておく。直登は連れていけるけど、木下は来ないだろうな。誘ってはみるけど」
「誘うんですか」
気の置けない仲間同士で過ごす、明るくにぎやかなクリスマスを夢想していたのだろう岡村の表情が曇る。佐和紀は思わず破顔した。
「嫌いなんだな」
「好きになれる要素がありません」
「だよな」
相づちを打って、佐和紀はスプーンをのんびりと口へ運んだ。
***
誰もが『木下と縁を切れ』と迫ってくる。
妥当な意見だとうなずきながら、佐和紀は突き放せずにいた。
薄いくちびると切れ長の瞳がさっぱりとした印象の木下は、すらりとした長身も相まって女に好まれるタイプだ。しかも口がうまくて、あからさまなまでにずる賢い。
マンションのベランダで文庫本の詩集を眺めながら煙草をふかしていた佐和紀は、人の気配を感じて振り返った。
「お母ちゃん、カネちょうだい」
ふざけた木下に手のひらを見せられる。
佐和紀はくわえ煙草でスカジャンの裾を跳ね上げ、ジーンズの腰裏へ文庫本を挟んだ。
「産んだ覚えがない」
煙草を指に挟んで離し、溜まった煙をふかして答える。
「まず、産めないだろ」
木下は自分で振ったネタにツッコミを入れて、ひやひやと笑う。
「ナオは? バイトは再開させてないんだろ」
「コンビニへ行かせてる。練習に」
かけた眼鏡を指で押し上げ、佐和紀は答えながら煙草を吸った。
直登は買い物が苦手で、頼んだものを買ってくることができない。一本のジュースを頼んでも、持たせた金で買えるだけのビールを買ってきてしまう。
「へー、できるようになるといいけどな」
開けたままの掃き出し窓にもたれ、木下はベランダの向こうへ視線を向ける。退屈そうに乾いた表情で続けた。
「ナオってさ。子どもの頃は『この金で買えるだけ酒を買ってこい』って言われてたらしいね。ときどきは普通に買い物してくるだろ? なんか、トリガーみたいなのがあるんだよな、きっと。それを見たら、酒を買い占めたくなる、なにかが、さ……」
「おまえには、子どもの頃の話をしたんだな」
佐和紀は目を細め、ときどき小さな子どもに戻る直登の表情を思い起こした。
間違いなく、佐和紀が関わった横須賀での過去が、直登の心に深い傷を作っている。サーシャと呼ばれていた頃だ。直登の兄である大志(たいし)は、佐和紀をかばって重傷を負い、長い入院生活の末に亡くなった。
横須賀から逃げた佐和紀は、すべてを忘れて生きていたのだ。楽な人生ではなかったが、大志を見守り続けた直登の苦しさとは比べようがない。
重みがわかるからこそ、周平と作ってきた横浜での暮らしを捨てた。
いまや過去にしか存在しない大志と、傷を抱えてしまった直登への償いだ。
「まぁ、いろいろとね。時間だけはあったからな」
直登と過ごした日々をたどるように言った木下はため息をつく。佐和紀が煙草を勧めると、箱から一本抜いてくちびるに挟み、貸したライターで火をつけた。
木下はピーコートを着たままだ。身なりはいつも整っていて、金に困っているようには見えない。佐和紀の渡す金なのか、女から巻き上げているのか。
それとも、その両方を博打に突っ込んで儲けたのか。
下手を打ってヤクザに追い込まれていると噂されていたが、精神的にまいっている様子はない。金をせびられることもあるようだが、佐和紀が心配した殴打痕も近頃は見かけなくなった。
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