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第3話

 煙草の煙を吐き出し、世間話のネタを探す。  話したいことはたくさんあったが、どれも世間話ほど軽くはない。切り出すタイミングに困る話題ばかりだ。  岡村に頼んだ新拠点のこともある。  部屋が決まれば、木下も一緒に連れていくつもりだった。  しかし、説得は難航するだろう。木下は真正会との繋がりが深く、敵対する阪奈会に近い佐和紀とは利害が一致しない。強引に引き剥がせば、反発することは目に見えていた。  ちらりと視線を向けて、木下越しの部屋を眺める。  しばらく身を寄せていた京都から戻り、足を踏み入れた瞬間、佐和紀は部屋の異常さに戦慄をおぼえた。それほど、部屋はゴミで溢れ、空気は淀み、荒んでいたからだ。  岡村にも言えないほどの羞恥と後悔に苛まれ、すぐに片づけを始めたものの、佐和紀の心は自己嫌悪に打ちひしがれた。  直登を支えてやらなければならない立場の佐和紀が、一緒になって迷った末の堕落だ。  周平から渡された文庫本がなければ、心はぽっきりと折れていただろう。あの文庫本のおかげで、佐和紀は自分を取り戻すことができたのだ。  過去は過去、迷いは晴れたと自分に言い聞かせ、直登を従えながらゴミを始末した。ふたりで隅から隅まで雑巾をかけ、湿気でカビの生えていた布団も買い替えた。  ついでに木下の寝床もベッドマットごと新調したが、相変わらず、マンションには金を取りに戻るだけだ。  佐和紀はすぐに金を渡さず、いくらか会話をしようと努力した。それでも長居せずに出かけてしまうのだが、金を取らないで消えることも増えている。懲りずに言葉をかけているうちに、以前の気安い関係を取り戻しつつあった。 「なぁ、サーシャ」  ぼんやりした声で呼びかけられ、佐和紀は視線を転じた。  ベランダに十二月の冷たい風が吹き、街の向こう側では夕暮れが滲む。夜はひたひたと空に広がり始めていた。  木下はベランダの外を眺めたまま、ぼそぼそと話し出す。 「俺さ、女に、惚れたんだ……」 「へー、どんな?」  興味ありげにさりげない相づちを打つ。本当は知っていた。京都の桜河会(おうがかい)に身を寄せていたとき、昔馴染みの真柴(ましば)へ打ち明けたのを漏れ聞いたからだ。  そのうちに話してくれるだろうと思い続け、ようやく、そのときを迎えた。佐和紀は内心で胸を撫でおろす。 「ちょっと寂しそうな……不幸なひと……だ」  木下は小さな声で言った。佐和紀はかすかに笑って問いかける。 「上手く、いきそう?」 「どうだろ。わけありでさ……。最近やっと、身の上話みたいなのをしてくれるようになった」 「付き合ってるんじゃないのか。どこかで働いてる子?」 「……いや、囲われてるらしい。だから、いまは真正会と手を切れない」  木下の足先が、小刻みに動いているのを見て、佐和紀は口を閉ざした。  相手の女は、想像以上に複雑な環境にいる。女と会うためには、真正会を通さなければならないのだろう。 「おまえが、前みたいに殴られたりしてないなら、いいけど……」  木下が黙り込んでしまったので、佐和紀は思い切って続けた。 「でもさ、いつまでもこのままってわけには、いかない。おまえもわかってるとは思うけど、俺は阪奈会につく」 「つく、って……。どういうこと。真柴のところじゃないのか」  真柴が所属しているのは京都の『桜河会』だ。  高山組には属さず、独立を守っている。次期会長の真柴と若頭補佐の道元(どうげん)は、佐和紀に従う約束だが、それはまだ木下に明かせない極秘事項だった。 「そっちは、真正会とどうなってる? その女と上手くいけば、残る『借り』はないんだろうな」  木下の顔をじっと見つめ、変化を見逃さないようにする。  そもそも、木下を窮地に追い込んでしまったのは佐和紀だ。  大阪の繁華街でクラブイベントなどを主催している不良集団・紅蓮隊の内部分裂に絡み、麻薬売買のルートを作ろうとしていた真正会の出鼻をくじいた事件の裏で、木下は紅蓮隊のメンバーを下部組織へ斡旋しようとしていた。  上手く立ち回って切り抜けるはずだと、佐和紀は軽く考えていたが、実際は下手を打って追い込まれ、湯水のように渡していた大金が仇となったのだ。いまに至るまで、金づるとして利用されている。負のループから危うくも逃げ出したのは、途中で付き合う人間が変わったからだ。そのあたりは、律哉と堀田(ほった)からの情報で知った。 「なんか、ちょっと、ずるいよな」  木下が顔を歪めた。不満げな冷笑を浮かべ、煙草をふかす。  子どものような表情に、佐和紀は自然と微笑みを向けた。 「だからさ、その自信……っていうの? そういうふうじゃなかっただろ。サーシャってさ、髪の色で性格が変わったりすんの?」 「するわけ、ないだろ」  笑って答えると、木下はますますムスッとした表情になった。 「じゃあ、俺がいいように扱ってきた『チンピラのサーシャ』は、どこに行っちゃったんだよ」 「ここにいるだろ」   くちびるを尖らせた木下の視線が、佐和紀へ向く。涼しげな薄味の顔は飄々として見えるが、世を拗ねた不機嫌さが抜けきらない。 「……男と、よりを戻したんだろ」  じとっとした目で見られ、佐和紀はなおも微笑んだ。肯定も否定もしない。けれど、身体は正直だ。  離れてやさぐれた心も、愛を注ぎ込まれていると自覚すればすっかり持ち直して、ふたたび荒むことはない。相手が周平なら絶対だ。あの男の愛情は栄養分が高い。ショボついていた佐和紀の目は、かつての視野を取り戻していた。 「男同士で、本気とか、あんのかよ」  ケンカを売るように言われ、佐和紀はベランダの柵で煙草を揉み消した。短い吸い殻は足元の瓶へ捨てる。  佐和紀の中に芽生えていた迷いや鬱屈や怠惰の類いを払ったのは、やはり周平だろう。  桜河会幹部勢揃いの出迎えを受け、真柴に発破をかけられ、すみれと赤ん坊に会ったことも目を覚ますきっかけにはなった。しかし、最終的には周平だ。言葉にはしなくとも『見るべきもの』を指し示してくれた。  それは、横浜で暮らしていた頃から、そっとささやくように教えられたことばかりで、すでに佐和紀の心の中に揃っている。 「おまえが女に惚れるんだから、俺だって男相手に惚れたりするよ」  佐和紀の言葉に、木下は苦々しげな表情で眉を歪めた。 「それは違うだろ」 「なにが。ありえないって決めてかかるから、変に思うだけだ。……まぁ、気づいたら好きだったから、あれが男でなきゃダメってことは、ないんだけどね」 「……俺のこと、恨んでるんだろ」 「誰が? ……俺?」  驚いて聞き返すと、木下は深刻そうにうなずく。  佐和紀が京都へ身を寄せている間に、木下には相当の心境の変化があったらしい。恋をすることをきっかけにして、堕落した生活から抜け出そうとしているようにも見える。 「あぁ、横澤とのこと?」  佐和紀は眉根を開いて小首を傾げた。横澤の正体を、木下はまだ知らないのだ。 「あれもいい男だよ。悪くはない」  真実を隠したままで答えると、佐和紀に身売りを強要したと思い込んでいる木下は、人並みの後悔を顔に浮かべた。 「……言ってないのか」  あ然とした言葉はふたつの意味を持っている。  横澤との新しい関係を周平に話していないこと。  そして、元の鞘に収まった周平との関係を横澤に話していないこと。  どちらの意味で言ったのかは確認しなかった。横澤は元世話係の岡村だと本当のことを明かし、安心させてやることができないからだ。

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