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第2話 目が離せない
終電ギリギリまで残業して自分のマンションに帰宅しても、筒香は相変わらずノートパソコンと向き合っていた。
本当はもっと残っても良かったが、最後まで残っていた同僚の鳳が流石にもう帰るというので一緒に引き上げてきたという訳だ。
なるべく、一人きりにはなりたくなかった。
静まり返った部屋に、カチャカチャとキーボードを叩く音だけが空虚に響く。 明かりを点けることすら忘れ、暗闇の中で青白く光るモニターだけが彼の横顔を照らしていた。
一人が苦手だった。
一人きりになって目を閉じると、いつだってあの頃の泥のような記憶がフラッシュバックする。
──底冷えする四畳半の部屋。すり減った畳の上に転がる大量の空き缶。酒と借金に狂った母親が、子供だった自分を殴りつけながら放った金切り声。
『なんで男なんかで生まれてきたのよ!お前が女だったら、体を売らせてとっとと稼がせたのに!』
その母親に縋り付いて、お母さん、ごめんなさい、捨てないでと泣き叫ぶ幼い頃の自分。
…ああ、嫌だ。もうやめてくれ。
これ以上、記憶を遡らないように強くキーボードを叩きつけた。
今の自分だったらあの母親に反抗できるだろうか?……いや、出来ないだろう。
きっと、直ぐに子供に戻ってお願い、愛して!と縋りついてしまうだけだ。
思わずため息をついた。きっと、今日も一人では眠れないのだろう。
***
翌日、出勤すると真っ先に鳳に話しかけられた。
「おはよう筒香! あ、やっぱり寝不足? クマできてる。今日は出来るだけ早く帰ろう!」
デスクに鞄を置いた瞬間、まるで待っていたかのように爽やかな声が頭上から降ってくる。 手に持ったマグカップからは、香ばしいコーヒーの湯気が立ち上っていた。
「…おはようございます、鳳さん。大丈夫です、いつも通りですから」
筒香はあえて鳳と視線を合わさずに、淡々とPCの電源ボタンを押した。 けれど、胸の奥では小さな波紋が広がっていた。
(……この男は、他人を本当に良く見ている)
自分がどれだけ完璧に冷静な仮面を貼り付け、平然を装っていても、鳳はいつも真っ先に相手の微小な変化に気づく。
些細な顔色の変化や、呼吸のわずかな浅さ、ほんの少しの視線の迷いまで、まるで最初から自分だけを観察していたかのように見抜いてしまうのだ。
どれだけ堅固な壁を築き上げても、気を抜いたら直ぐに絆されそうになってしまう。
しかし、筒香にはそれだけは絶対に避けなればならない理由があった。
あの日、タワーマンションの最上階で抱かれた日の夜──あの男…白洲から託された「大仕事」をしに自分はここまで来たのだ。
情など持てば、自分の首を絞めるだけだとこれまで「様々な仕事」を通して痛いほど学んできた。
(だめだ…余計なことを考えるな。今はただ、白洲の言う通りに動けばいい)
自分にそう強く言い聞かせ、画面に集中しようとしたその時だった。
スーツのポケットに忍ばせていた私用のスマートフォンが、短く重苦しい振動を伝えた。 画面に浮かび上がった差出人のない通知。
一目見ただけで、心臓が跳ね上がり、全身の血の気が引いていく感覚に襲われる。
『ご機嫌よう、俺の可愛いファントム。今の会社にはもう慣れたかい?』
ただそれだけの短いメッセージだった。
だが、その文字を目にした瞬間、オフィスの喧騒や鳳の淹れたコーヒーの香ばしい匂いが、スーッと遠ざかっていくような錯覚に陥った。
(…白洲……)
思考が凍りつき、息が詰まる。 返信を躊躇していると、画面に二通目の通知が滑り込んできた。
『今日は早く帰っておいで。今度のお前の「大仕事」について話をしよう♪』
文字を目で追うと同時に、まるで目の前に本当に白洲がいるかのような強烈なフラッシュバックが襲いかかった。
あのタワーマンションの最上階、薄暗い部屋の冷たいベッド。 身体の最奥を突き上げられる激しい熱と、逃げ場のない快楽。そして、白洲から放たれる失敗を絶対に許さないという殺意すら感じる静かで重い圧力。耳元で囁かれたあの冷たい唇の感触と、喉元を締め上げられるような支配される感覚が、今も肌の表面を蠢いていた。
「…っ……」
呼吸が浅く乱れ、スマートフォンを持つ指先が小刻みに震えるのを無理やり抑えつけるように深呼吸した。 いくら小綺麗なスーツを着て、エリート商社マンの顔をして完璧なコードを書き連ねようと、自分がここにいる目的を思い出す度に吐き気を催しそうになる。
何とか自分を落ち着けようとしたその時、「筒香? どうかした? 本当に顔色が……」と声を掛けられた。
デスクの向こうから、心配そうに覗き込んでくる鳳の姿が見える。 そこには一切の曇りのない、真っ直ぐに自分を心配する瞳があった。
(……やめろ……そんな目で見ないでくれ…)
この男の真っ直ぐな優しさに触れるたびに、筒香は白洲に刻まれた傷口が痛む気がした。 自分のような泥塗れの人間に向けられる純粋な好意が、息ができないほど苦しかった。
「……大丈夫、です。少し…席を外しますね」
椅子を引く音も頼りなく、筒香はその場から逃げるように席を立った。 鳳の心配そうな視線を背中に浴びながら、誰の目もない洗面所の鏡の前へと駆け込むのだった。
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