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第3話 ガラス細工の壊れ方※
オフィスを逃げ出し、洗面所の鏡の前で冷水を何度も顔に叩きつける。
滴る水滴が冷たく肌を刺すが、首筋に残る感触も、白洲からのメッセージも頭から離れなかった。
(…大丈夫。白洲は俺をゴミ捨て場から拾い上げてくれた唯一の恩人だ…。言われた通りにすれば、今回だってきっと上手くやれるはず…)
その夜、終電を過ぎてからようやく筒香は例のタワーマンションの最上階へと向かっていた。
暗がりの中に広がる、東京の夜景。
インターホンを押す間もなく解錠されたドアを潜ると、ワイングラスを片手に白洲が、静かな笑みを浮かべてソファに深く腰掛けていた。
「思ったより遅かったね、ファントム。お前の事だから、とうとう逃げ出したのかと思ったよ」
フッと冷ややかな笑みを零しながら、白洲がグラスをテーブルに置く。
その言葉に、筒香の背筋に冷たいものが走った。
「お前はコードを叩かせればウチの最高傑作だが、精神の作りは相変わらずガラス細工並みに脆いからね。プレッシャーに耐えきれず、どこかで泣きながら蹲ってるんじゃないかって心配したよ」
慈悲のかけらもないその指摘は、図星だけに筒香の息を詰まらせた。
彼に抗う術など最初から持っていない。
筒香が観念したようにゆっくりと膝をつくと、白洲の冷たい指先が顎を掬い上げ、そのままねっとりと唇を重ねてきた。酒と微かにタバコの味がする。
逃げ場のない恐怖と、身体に刻み込まれた快楽の残滓。 喉元を優しく、けれど確実に締め上げるような手のひらの圧迫感に、筒香は既に身体を震わせ、吐息を漏らすことしかできない。
「それで? 新しい職場はどうだ?……例の鳳というお坊ちゃんとは、うまくやっているのかな」
白洲の口から「鳳」の名が出た瞬間、筒香の身体が小さく強張った。
「……別に。ただの同僚だ。…それ以外は、何も知らない……っ…」
「ふーん?でも、お前の顔、前より少しだけ人間らしくなっているよ。…それが少し気に入らないな」
白洲は整った切れ長の目を更に細めると、弄ぶように筒香の髪を強く引き寄せ、耳元でそう静かに囁いた。
その暴力的なまでの所有欲にさらされながら、筒香の記憶は、この男と初めて出会ったあの雨の夜へと遡っていった。
***
──今から13年前の、冷たい雨の日だった。
『なんで男なんかに生まれてきたのよ!お前が女だったら、体を売らせてとっとと稼がせたのに!』
母親にそう吐き捨てられた夜。
惨めさと、唯一の肉親である母親に捨てられたくない一心で、筒香は「男でも身体を売れないか」と必死に調べていた。
今思えば、本当に馬鹿な事をしたと思う。だけど、当時は母親に愛されたい、その一心で本気でもがいていた。
しばらくして、俺は初めて見知らぬ男に身体を売った。 今では顔も名前も覚えていない。
その男とどこかの公園の汚い公衆トイレの中で行為をしたのだ。
そんな世界の汚さも残酷さも全く知らなかった俺は、初めての行為で身も心もボロボロに引き裂かれた。
それでも、渡された金を震える手で握りしめ、ボロボロの体を隠して母親の元に戻った。
ただ母に愛されたい一心で──。
金を受け取った母親は、生れて初めて俺に笑顔を見せた。 そして、上機嫌で俺の頭を撫でながらこう言った。
『ーーいい子じゃない、お前もたまには役に立つね』
その言葉がもう一度欲しくて、欲しくてたまらなくて、俺は男に体を売った金を渡し続けた。
今思えば、なんと歪で、愚かな学習をしてしまったのだろう。 やがてその行為は日常になり、俺は「男に身売りをする少年」として、その界隈でひっそりと名前が広まっていった。
そんなある日、あの男が現れたのだ。
「君が母親のために健気に体を売ってるっていうウワサの子?」
冷たい雨が降る路地裏で、高級車から降り立ったその男は、俺を蔑むでもなく、ただ珍しい玩具を見つめるような奇妙な瞳で見下ろしてきた。
それが、白洲との出会いだった。
その名前が彼の本名なのか、今でも分からない。年齢すら知らない。しかし、見た目は13年前のあの日から変わらず30代半ばにしか見えなかった。
男に身体を売り、そこで得た金を母親に差し出すことでしか「頭を撫でてもらえない」と学習した俺の歪んだ生き方を白洲はあっさりと見抜いた。
「へえ、やっぱり学校に行ってないの?え、金だけあればいいと思ってる?あはは!バカの稼ぎ方は長続きしないよ。やっぱりお勉強が出来なきゃね」
そう俺に言うと、白洲は母親の手から俺を買い叩くようにして自分の手元へと引き取ったのだった。
その時の母親は俺に目線を向けることもなく、目の前に積まれた大量の札束をひったくるようにしてあっさりと俺を手放した。
母親に会ったのはそれが最後だ。
今は生きているのか死んでいるのかすら分からない。
確かな事はその日から、俺の「飼い主」は母親から白洲へと変わったという事だけだった。
***
回想から解き放たれるように目を開けると、 白洲の冷たい指先が筒香の顎を弄び、ねっとりとした口付けを繰り返していた。
上顎を執拗になぞり、舌を吸い上げ、時々甘噛みしながらジワジワと僅かに残った理性を嬲るようにして溶かしてくる。
その冷酷な生殺しの快楽に耐えかねて、筒香は自ら白洲の衣服にしがみつき、惨めに続きを懇願していた。それに応えるように、耳元で囁かれる「いい子だ」という甘く低い声と、首筋に落とされる優しいキス。
拒絶したいのに、白洲に触れられると、幼い頃から身体に刻み込まれた「愛されたい、捨てられたくない」という条件反射が、筒香の身体を強制的に快楽へと誘導する。
白洲の指先が肌をなぞる度に頭の中の雑音も、オフィスで見た鳳の眩しい笑顔も、すべてが白いモヤの中に溶けていく。
白洲の体温に侵食され、思考が快楽とこの瞬間だけに許された幻のような安堵の泥の中へと沈んでいった。
「……ぁ……っ、白洲、……!、もう、…早く抱いて……くれ…っ!抱きしめて、ぁ、っ、何も考えられないように、抱き潰してくれ、……っ…!!」
「……ふふ、お前は本当に可愛い子だ。よしよし、そうやってずっと俺に縋っていればいいんだよ」
そうして、筒香は懇願の末にようやく望んでいた快楽を致死量かと思うほどたっぷりと刻み込まれたのだった。
目の前の冷徹な男の昂りを容赦なく最奥まで打ち付けられる音とベッドが激しく軋む音。互いの体温と吐息。それしか考えなくていいこの時間が筒香の中で唯一呼吸ができる時間だった。
喘ぎ声すらも枯れ果てた今、もうこのまま意識を手放してしまいたい。そうしないと自分一人では満足に眠ることすらできないのだからーー。
しかし、白洲はそれを許さなかった。
腰の律動を僅かに緩めながら、筒香の耳元に寄せられた白洲の唇から、あまりにも冷酷な言葉が滑り落ちた。
「さあ、ファントム。仕事の話だ。仕掛けるタイミングが決まったよ」
「……え……っ?」
「お前が例の海外出張へ行って、現地の企業と最終交渉を迎える……まさにその日の夜だ」
「自社サイバーに攻撃を仕掛けろ」
その言葉を聞いた筒香の身体が一瞬で凍りついた。
「……っ!? な、なんで……っ!?」
あまりの衝撃に血の気が引き、筒香は白洲の腕の中で目を見開いた。
「どうして……っ、なんで俺が1人の時に……っ!?俺が現地に行ったら、お前はいないだろ……!? じゃあ、全部が終わったあと俺はどうすればいいんだよ……っ!」
突然の宣告にパニック状態になった筒香を見て、白洲はただ愛おしそうに微笑んだ。
「安心しろ、ファントム。お前は俺が直接教育を施した最高傑作のハッカーだ。パソコン一つあれば、お前はどこにいたって俺の命令をこなせる。…それに、お前はどんなに乱れていてもいつだって完璧に容赦なくターゲットを叩き潰してきただろう?」
白洲は冷たく、どこか面白がるような笑みを浮かべたまま、パニックで青ざめる筒香の身体を優しく抱きしめた。
(っ……やめてくれ…っ!今回は今までとスケールがまるで違う……!大勢の人生が一瞬で終わるような本当の大犯罪だ……!)
そんな状況で白洲の手を失う恐怖と、間近に迫った渡航。 逃げ場のない絶望に引き裂かれながら、筒香は白洲の腕の中で、ただ涙を零し狂ったように乱れることしかできなかった。
***
ーーかつて、白洲のベッドの中で繰り広げられていたのは、ただの快楽を求めた愛撫などではなかった。
ハッカーとして自らの手でターゲットの会社を崩壊させ、罪悪感で息もできず「俺は…俺はなんてことを……っ!」と赤子のようにぐずぐずに泣き叫ぶ筒香。
その乱れきった髪を優しく撫でながら、白洲は底冷えするような笑みを浮かべて筒香の身体の奥をねっとりと穿ち、そして声が出なくなるまで抱き潰した。
『よく頑張ったね、俺の可愛いファントム。まだ壊れなくていい、お前には俺がいるんだから───』
甘い愛撫と絶望的な支配。
白洲は、罪悪感で狂う筒香の精神をそうやって甘い毒のような愛撫で麻痺させ、「お前は私の所有物だ」と全身に深く刻み込んできたのだ───。
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