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第5話 運命の夜※
「っ、は……っ、ぁ……白洲……っ……白洲……!」
抱きしめて理性を溶かし、自分を正気から引き剥がしてくれる人はここにはいない。
あの温もりも、頭を撫でてくれる大きな掌も、この広くて冷たい海外のホテルには何一つ存在しない。
一人で放置された恐怖に頭が狂いそうになりながら、筒香は震える手でスーツケースの底から黒いノートパソコンを取り出した。
(…鳳が戻ってくる前に……、チャンスは今……今やるしかない……!)
キーボードに置いた指先が、小刻みに痙攣するように震える。
画面に映し出されるのは、自分がこの数ヶ月間、誰よりも身を削り、徹夜を重ねて築き上げてきた自社の強固なセキュリティシステム、その脆弱性を突くバックドアだった。
ファントムの正体───、それはゴミ捨て場の様な環境で惨めな行為を繰り返していた自分を拾ってくれた男への恩義に縛られ、飼い主である白洲の投資ファンドに莫大な利益をもたらすために送り込まれた、悪質な企業スパイだった。
今回のプロジェクトの裏で、自社のサーバーを内側から完膚なきまでに叩き潰す。
そうすれば、白洲の操るファンドが致命傷を負った自社を嘲笑うように買収し、圧倒的な勝利を収めるだろう。
これは単なる自社サーバーのダウンなどではない。
子会社、関連企業、さらには何千、何万という取引先データまでを連鎖的に食い荒らし、ネットワーク全体を機能不全へと叩き落とす不可逆の全滅プログラム。
明日になれば、確実にニュースのトップを飾るだろう。
何千以上もの人間の人生が狂い、何百の会社が倒れ、莫大な被害が社会を襲う。
そして自分は一瞬で人生が吹き飛ぶような大犯罪者になる。
───これは一体何のためだ?
これだけの泥をかぶり、血の滲むようなハッキング技術を尽くしてまで信じてくれた同僚や会社を裏切り、自分の精神を廃人レベルまですり減らしたその果てにあるのは、誰かへの崇高な復讐でも、巨額の報酬でもない。
全ては、白洲という化け物じみた男の「退屈しのぎの遊戯」でしかない。
ただ退屈を持て余したあの男が、人の人生を狂わせ、社会を壊し、筒香という自分が手掛けた最高傑作の玩具ハッカーが壊れる様を高みの見物で楽しむための、気まぐれな余興。
自分が白洲にとって都合のいい道具でしかないことなど、とうの昔に理解している。 それなのに、頭ではそれが「今の自分の苦しみの元凶」だと分かっていながら、それでもあの男に捨てられることは、死よりも恐ろしい事だった。
もし自分が白洲の役に立たなくなったら?
もしあの男が自分に飽きて、「お前はもう用済みだ」と切り捨てたら?
再び、あの泥にまみれた十代の夜に引き戻され、誰からも愛されない、あの惨めな「ゴミカス」に戻されるのだ。
そこにはもう、金を渡せば喜んでくれる母親すらもういない。
それが、何よりも、たまらなく怖かった。
「はぁ、っ、はぁ……、……!いやだ……っ捨てないで……っ、お母さん……っ!」
激しい動悸で視界がチカチカと明滅する。過呼吸で酸素が脳に回らない。
恐怖と狂気が限界突破し、血の気の引いた指先が、プログラムを実行する最後のキー、『ENTER』の上に覆いかぶさった、まさにその瞬間だった───。
ガチャリ、と重いドアの鍵が勢いよく開く音が響いた。
「あ! ごめん筒香、財布忘れてさあー」
買い出しに出たはずの鳳が、屈託のない声を上げながら部屋に飛び込んできた。
「…え……っ? 筒香……っ!?」
パッと部屋の明かりがついた瞬間、鳳の表情が凍りついた。 そこには床に倒れ込み、ノートパソコンを抱えたまま、全身をガタガタと激しく震わせて涙と汗に塗れている筒香の姿があった。
「おい、筒香、…!? どうしたんだよ、しっかりしろ!!」
慌てた鳳が筒香の元に一瞬で駆け寄り、身体を揺する。 その拍子に、床に転がったノートパソコンのディスプレイが、冷たく青白い光を放って鳳の視界に現れた。
(……え……?)
慌てて駆け寄った鳳の視線が、床に投げ出されたその画面に釘付けになる。
そこに表示されていたのは、企業システム全体を内部から完全に食い荒らす、取り返しのつかない恐ろしい全滅プログラムのコード、そして───、
『EXECUTE?(実行しますか?)』で止まったまま不気味に点滅するカーソルだった。
「……これ、は……っ!?筒香、お前……一体、何を……!?」
背筋が凍るような違和感と、何千人以上もの人生を一瞬で吹き飛ばしかねない「取り返しのつかない凶器」を目の当たりにして、鳳の血の気が一気に引いていく。
──もし、ほんの一秒でも遅かったら?自分が財布を取りに戻っていなかったら?この画面の先で、全てが取り返しのつかない破滅を迎えていたのか…?
その事実を悟りかけた瞬間、狂乱に満ちた筒香の手が、鳳のジャケットの襟を力任せに引き寄せた。
「っ、筒香……!?」
理性のタガが完全に吹き飛んだ筒香の瞳には、目の前にいる鳳が誰なのかすら認識できていなかった。
白洲の手がない恐怖と自分の人生全てを崩壊させても結局はあの男のただの退屈しのぎの道具に過ぎないという惨めさ、そして「すべてを壊してしまった(と思い込んでいる)」極限の自責とパニック。
そのすべての逃げ場を失った末に、筒香はすがりつくように鳳の唇へと無理やり自分の唇を押し付けた。
「んんっ……、!は……っ、ぁ……!」
「っ……!? な……っ、筒香、まっ……!」
鳳に拒絶する間すら与えない、縋り付くような貪るような口づけ。
汗と涙の味がする自暴自棄になっためちゃくちゃなキスに、鳳は息を呑んだ。上顎を荒々しくなぞられ、舌を絡め取られながら、頭の芯が徐々に痺れていくのを感じる。
「はあ、…っ!ぁ……っ!たすけて……くれ……っ、!誰か……っ!」
唇が離れた隙間から、筒香がボロボロと涙を零しながら掠れた声を絞り出した。
「もう、俺を……壊してくれ……っ!誰でもいい、!どこにも行かないで……俺を……一人にしないでくれ……っ!!」
理性を完全に狂わせたその瞳はあまりにも痛々しく、切なく、そして目が離せない程美しく危うい光を放っていた。
鳳は、先ほど目撃したノートパソコンの危険な画面のことも、得体の知れない恐怖のことも、喉まで出かかった筒香への問い詰めも──、その全てを頭の片隅へと無理やり追いやってしまった。
(まずい……!筒香が、壊れかけてる……!)
今この瞬間、何が起きているのかまるで分からない。でも、目の前で助けを求めて赤ん坊のように泣き叫んでいるこの男を、いま自分が突き放したら、本当に何かが二度と戻らなくなる気がした。
「……筒香……っ!」
震える息とともに、鳳はぎゅっと筒香の細い体を自分の腕の中に強く引き寄せた。されるがまま、必死に鳳に縋り付く筒香の背中に腕を回し、熱を帯びた唇を重ね返す。
荒い息遣いと、縋り付くような熱が部屋の空気を徐々に満たしていった。
「…んんっ……、はぁ……っ…!」
鳳の胸にしがみつく筒香の身体は、まるで高熱を出したかのように細かく震えていた。
先ほどまでノートパソコンの前であまりにも強過ぎる絶望に溺れていた反動か、今度は目の前にある温もりを、命懸けで求めている。
「筒香……、!落ち着いて……。僕はここにいるから……」
戸惑いと、胸を締め付けられるような切なさが入り混じった声で、鳳は筒香の背中を力強く辛抱強く抱きしめ続けた。
普段は誰にも弱みを見せず、天才と呼ばれ、完璧なコードを書き、他者との間に強固な壁を作っていた男が、今や自分の胸元で子供のように泣きじゃくり服の裾を強く握りしめて離さない。
そして、筒香は荒々しい息遣いのまま涙に濡れた瞳を上げ、熱を帯びた視線で縋るように鳳の顔を見上げた。
普段の筒香では考えられないような、その無防備なまでの他者への依存と精神の脆さに、鳳の理性のタガも音を立てて外れかけていた。
「っ、は……、ぁ……っ……!…だれか……っ……!」
白洲に拾い上げられ、囚われていた日々——恐怖と依存で心を狂わされながらも、自分に唯一価値を見出してくれたたった一人の男だった。
頭の片隅で、その冷酷な飼い主の幻影が囁きかける。
『───可愛いファントム、お前一人なんかじゃ呼吸をする事すらままならないだろう?…俺の手が離れたら、お前は一人で数日も生きられないよ、真也』
(……ッ…!!!…怖い……!白洲に捨てられたら、俺は……俺はまた、ただの無価値なゴミに戻ってしまう………!!)
しかし、その恐怖をかき消すように、鳳の大きな暖かい手のひらが筒香の背中から首筋へと回り、優しく、しかし確かな力で引き寄せられた。
「…もう一人にしないよ。だから…、お願いだから一人でそんな苦しそうな顔をしないで……筒香」
どこまでも優しく甘い囁きとともに、再び二人の唇が重なる。
それは先ほどまでの荒々しい縋りつきとは打って変わり、互いの体温を確かめ合うような、慈しむような深い口づけだった。
鳳の唇から伝わる優しさが、筒香の狂乱した心を溶かすようになだめていく。
それは確かな救いであり、同時に自分のような裏切り者が絶対に受けてはいけないものだった。
(……おお、とり………?……なん、で?あ……あぁ、だめだ…。こんなの知ったら……もう、元には戻れない…………)
罪悪感と快楽の渦に呑まれながら、筒香はもう完全に壊れてしまいたいと願った。
目の前にいる汚れの知らない光のような男に自分の息の根を止めてほしかった。
もう現実など何も見たくない。
今、自分に受け止められるものは目の前にいる男の熱しかなかった。
「……鳳………っ、!も、……おれ、を…壊して………!おお、とり……ッ…!!」
激しく自分の名前を呼ばれ、理性のタガを完全に外された鳳に身体を押し倒され、荒々しく筒香のシャツのボタンが外される。
あんなにロジカルで美しく天才的なコードを書く腕も、力ではこんなに簡単に負けてしまうのだ。
それが更に鳳の熱を加速させた。
すでに敏感になっていた白い肌に鳳の熱い指先が触れるたびに、筒香の口からは泣くような声にならない甘い嬌声が零れ落ちる。
ホテルの窓の外では、異国の冷たい夜風が吹き抜けているのに、この狭いベッドの上だけは、理性を焼き焦がすような熱に満たされていくのだった───。
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