8 / 12

【第2章 歪んだ花】第8話 高澤廉は気づいている

高澤廉は、自分が音痴であることを知った。 深夜のカラオケで、相沢涼にはっきり指摘されたからだ。 自分では正しく歌っているつもりでも、実際には音程が合っていない。昔、歌って笑われた理由も、今なら分かる。 問題は、そのあとだった。 相沢が作った曲だけは、なぜか外れなかった。 少なくとも、高澤の耳にはそう聞こえた。声がいつもより自然に曲の中へ収まり、音程もずれていない。 最初に試したのは、アトラボ五階のスタジオだった。 あの日、相沢は明らかに寝不足だった。凪に指摘されても大丈夫だと言い張り、仮の曲を流した。 相沢自身のガイドは、普通に聞けば少し歪んでいた。上がるはずのところで届かず、落ちる場所も妙に深い。 それでも相沢は、自分が歌っても変になるように作ったと言った。 高澤は、その意味を深く考えなかった。 何度かガイドを聞き、マイクの前に立った。 歌ってみると、声は思ったより素直に曲へ入った。いつもより、引っかかる感じがない。 歌い終えたあと、凪は高澤ではなく相沢を見ていた。 相沢も録音された波形から目を離さない。 高澤が改善したと言うと、相沢は否定しなかった。 その場では、それで納得した。 ただ、凪が何かを言いかけ、相沢に視線だけで止められたことは覚えていた。 二人は、あの時点でもう気づいていたらしい。 高澤には、まだ分からなかった。 数日後、相沢の個人チャンネルに『眠れる夜』が公開された。 概要欄には、《実験音楽》という短い説明が添えられていた。 RidgelineでもAurora公式でもない。 相沢涼個人のチャンネルに、小さく置かれた音だった。 高澤は後日の夜、自宅でもう一度それを聞いた。 間違いなく自分が歌っているのに、いつもの歌とは違う。 外れていない。 曲の中に、きちんと声の居場所がある。 コメントも少しずつ増えていた。 《普通にいい曲》 《どこが実験音楽?》 《寝る前に聴きたい》 《音が少し変なのに落ち着く》 《なんか癖になる》 高澤はもう一度、最初から再生した。 今度は自分の歌だけではなく、あの日スタジオで聞いた相沢のガイドを思い出す。 相沢の声で聞いた時は、どこか不自然だった。 それなのに、自分が歌うと収まる。 高澤は少し考えた。 自分が上手くなったわけではない。 相沢の方が、わざと外していた。 その外れたガイドを自分がなぞると、曲の中では正しく聞こえる。 そこで、ようやく分かった。 相沢は高澤の歌を直したのではない。 高澤が歌う場所に、先に曲を置いたのだ。 相沢は、かなり面倒なことをしている。 自分の不正確さを基準に、一曲を組み直した。合理的とは言いにくい。 けれど、相沢は最初から効率だけで動いていたわけではない。 歌えないなら直すのではなく、その声がそのまま置ける場所を作る。 画面には『眠れる夜』と表示されている。 眠れない夜から始まった曲だった。 高澤はもう一度、最初から再生した。 奇妙だった。 けれど、悪くない。 翌日も、相沢は何も変わらなかった。 朝からPCに向かい、昼前には凪と言い合い、午後にはゲーム側の進捗を確認している。 高澤の前で『眠れる夜』の話を必要以上にはしなかった。 高澤も聞かなかった。 相沢が言わないなら、今はそれでいい。 夜、自宅のリビングでは、相沢がソファに座っていた。膝の上のノートPCには、また何かの波形が出ている。 高澤が飲み物を持って通ると、相沢が顔を上げた。 「見た?」 「何を」 「コメント」 高澤は隣の椅子へ座った。 「少し」 「普通にいい曲って言われてる」 「そうだな」 「実験音楽なのに」 高澤はカップをテーブルへ置いた。 「実験音楽であることと、普通にいい曲であることは矛盾するのか」 相沢が少し考える。 「いや、しない」 「なら問題ない」 相沢は画面へ戻りかけて、またこちらを見た。 「でも、分かってないな」 「何を」 「これ、高澤用なんだよ」 少し得意そうだった。 高澤は頷いた。 「そうか」 相沢はまだ、高澤が気づいていないと思っているらしい。 高澤は訂正しなかった。 言えば、相沢はたぶん説明を始める。 どうしてこの位置に音を置いたのか。どこで下がると分かったのか。何度、高澤の声を聞いたのか。 それを今、聞く必要はなかった。 「高澤」 「何だ」 「もう一曲、作っていい?」 「俺用か」 「うん」 「好きにしろ」 相沢が少し笑う。 「いいの?」 「拒否権はあるのか」 「ある」 「なら、許可する」 相沢は満足そうに画面へ戻った。

ともだちにシェアしよう!