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第9話 片耳イヤホン
昼休みのアトラボ三階で、相沢涼が片耳にイヤホンを入れていることは珍しくなかった。
Ridgelineのラフも、Aurora関連の環境音も、ゲーム用の断片も、届いたばかりの仮ミックスも、相沢は空いた時間によく聞いている。
だから共有ラウンジの窓際で、カレーを食べながらイヤホンをしていても、誰も気に留めなかった。
昼のラウンジには社員がまばらに座っている。一階のカフェで買った昼食を広げる者もいれば、ノートPCを開いたまま休憩を取っている者もいた。
相沢の向かいでは、高澤廉が資料を見ながら水を飲んでいた。
「食べながら音源確認か」
「うん」
「仕事か」
「半分」
残りは趣味らしい。
相沢の趣味が広いことは、もう知っている。聞けば説明はするが、全部を理解できるとは限らない。
高澤はそのまま資料へ視線を戻した。
少しして、向かいから気配が伝わった。資料から目を上げると、相沢がスプーンを持ったまま肩を揺らしている。
「何を聞いている」
「音源」
「それは分かる」
相沢は少し迷ってから答えた。
「……実験音楽」
『眠れる夜』ではないらしい。
そのわりに、明らかに何かをこらえている。
高澤は資料を閉じた。
テーブルの上には、使っていない方のイヤホンが置かれている。
「聞いてもいいか」
相沢の手が止まった。
「え」
「まずいのか」
「いや、これは」
歯切れが悪い。
高澤はイヤホンを手に取り、片耳へ入れた。
流れてきたイントロには聞き覚えがあった。
Fluctuation Cross。
凪が作り、相沢の声で外へ出た曲だ。Auroraの中でも何度も聞いている。
けれど、続いて聞こえた声は相沢ではなかった。
自分だった。
しかも、ひどく外れている。
上がるところで届かず、妙な位置で力が入り、知っている旋律の中を違う角度で進んでいく。
高澤は黙って聞いた。
向かいでは、相沢の顔から少しずつ余裕が消えている。
「これは何だ」
「……参考用の録音」
「俺の声だな」
「うん」
「Fluctuation Crossだな」
「うん」
「かなりひどいな」
相沢は否定しなかった。
高澤はもう少し聞いた。
自分でも、今なら分かる。
『眠れる夜』とは違う。こちらには正しい旋律があり、その中で自分の声だけが明確に外れている。
「なぜ聞いている」
相沢はスプーンを置いた。
「……ごめん」
「なぜ謝る」
「昼休みに聞いて笑ってるから」
高澤はイヤホンを外した。
「笑うために聞いていたのか」
相沢が黙る。
少し待つと、諦めたように息を吐いた。
「おもしろい」
「そうか」
「あと、癒される」
高澤は眉を寄せた。
「この音程で?」
「かなり」
理解しにくい。
けれど、相沢は冗談で言っているようには見えなかった。
高澤はイヤホンをテーブルへ戻した。
相沢はまだ少し困った顔をしている。
「高澤が怒るなら消す」
「消す必要はない」
相沢が顔を上げる。
「いいの?」
「録音は許可した」
「でも、笑ってた」
「そうだな」
「怒らないのか?」
高澤は少し考えた。
相沢の笑い方は知っている。誰かを雑に扱う時と、面白いものを見つけた時では違う。
今の相沢は後者だった。
「笑いものにしているわけではないんだろ?」
「違う」
返事は早かった。
「ならいい」
相沢はまだ何か言いたそうだった。
「馬鹿にしてるんじゃない」
「それは分かる」
「分かるの?」
「本当に馬鹿にする時は、もっと雑だ」
相沢が少し笑った。
「それはそれでどうなんだ」
「事実だ」
高澤は資料を開き直した。
相沢がイヤホンへ手を伸ばす。
「本当に聞いていい?」
「癒されるんだろ?」
「うん」
「なら聞けばいい」
その返事のあとも、相沢はすぐには再生しなかった。
「嫌じゃないのか?」
高澤は資料の文字を追いながら答えた。
嫌なら、最初から歌っていない。
音痴であることも、Fluctuation Crossでどれだけ外れていたかも、もう自分で確かめている。
「俺の音痴でお前が癒されるなら、費用対効果は高い」
相沢がむせかけた。
「費用対効果」
「違うのか?」
「……違わないけど」
肩を揺らしている。
高澤はそのまま資料を一枚めくった。
「もう一曲作ると言っていたな」
相沢の表情が変わる。
「もう作り始めてる」
「早いな」
「まだ途中だけど」
今度はアップテンポらしい。
理由を聞くと、面白そうだから、と返ってきた。
「俺は実験台か」
「うん」
「否定しろ」
「できない」
高澤は息を吐いた。
相沢の指先は、もうテーブルの上で小さく動いている。頭の中では次の音を組み始めているらしい。
その間に、相沢の昼食はすっかり後回しになっていた。
「昼食は食べろ」
相沢が皿を見る。
「冷めた」
「自業自得だ」
温め直しに行くため、相沢がトレーを持って立ち上がる。
数歩進んだところで振り返った。
「高澤」
「何だ」
「本当に、消さなくていい?」
高澤はテーブルに残されたイヤホンを見た。
さっきまで、そこから自分の声が聞こえていた。
ひどい音程だった。
「消すな」
相沢の目が少しだけ大きくなった。
「ほんとに?」
「要望だ」
相沢は、今度は隠さず笑った。
高澤は資料へ視線を戻した。
さっき聞いた声は、まだ頭のどこかに残っている。
失敗した歌だった。それでも相沢は何度も聞き、癒されると言った。
なら、少なくとも相沢にとっては、もう失敗だけではない。
高澤はそれ以上、訂正する理由を見つけなかった。
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