7 / 19

第7話

 摩天楼を崖下に臨み東京とはまた違った明るさを放つ経済の中心地。男は思った、雲の上の存在だとしてもわずかな可能性があるのならば掴んでいたい。目の前に垂れ下がった蜘蛛の糸を自分以外の誰かが掴もうとも俺の方が上にいるのだから。 「社長、お申し付け通り光さんとアンジェロの二人を引き離しました」  男は片手を上げその淡々とした報告に目を向けることもなく了解の意を示す。配下で蠢く夜景、はめ殺しの窓ガラスにはほくそ笑む男の口元だけが写り込んでいた。 「明日って、また急だね」 「ああ、仕事が入っちゃって」  何の仕事してるの? 光は聞けなかった。申し訳なさそうに笑うアンジェロの波打った顔がそのときあまりにも時化ていたから。 「とにかくホテルに戻ろう、明日の準備しないと」  後ろを向き歩き出そうとするアンジェロの背中、冷めて固まったチョコのような質感のそれに光は手を伸ばす。だけど、自分の体温で溶け出すかも分からないそれに温度差を感じてすんでのところで引っ込めた。虚しく落ちる指先にアンジェロが気づくことは最後までなかったのだった。  翌日、彼が残していった置き手紙。みずみずしいフルーツの香りと土のような温かみのある大人な香り。紙に染み付いているそれが日に日に薄くなるのを光は収録中のラジオブースで確認する。  ラジオの仕事は週一の楽しみでもあったが、光の心は晴れない。天気なんて遮音吸音されたこの空間には響いてこない。雲の上が常に晴れていようとも、光の興味はすでに雨風吹き荒れる曲に向いていた。 「ハードロックだね」 「最近打ち込みが多いから新鮮だわ」  歪んだギターサウンドに自身の心情を重ねる。荒んだ音色とは裏腹にヴォーカルは煙を吐くような本音の漏れ出る歌い方だった。  水分補給をしながら曲に聴き入る景人(けいと)の隣で、光は先日のことを振り返る。天候は穏やかな冬の陽気だったのに心は吹き寒く凍て風のような気持ちで終わった。 「それ何?」  景人が手紙の存在に気づき、光の手元を覗く。 「なんでもないよ。それより景人、最近NYに行ってきたんだって?」  手元の匂い紙をさっと閉じて光は話題を変えた。 「ああ、そうそう。俺ここの香水のブランドアンバサダーになったんだよね、新商品発表会にお呼ばれしちゃってさ〜」  そう言って景人はきらびやかな照明の下で今にも洗練された大人な香りが漂ってきそうな商品と、それに付随したパーティーの様子を写した画像を何枚か光に見せた。 「へぇーすごっ僕でも知ってる有名人がいっぱい」  さほど興味もなさそうにスライドされる画像に目をやる光だった。しかし、景人の指が何枚目かを左から右へ流そうとしたそのとき 「……ちょっ、ちょっと待って! 今のもっかい見せて」  一枚の画像に目が留まる。いや、画像の中央に写ってる女優二人の並んだ瞬間なんてどうでもいい。その奥、左端にシャンパン片手に誰かと談笑している様子の男。キレのある酸味とイタリアパンのようなふくよかさを併せ持った姿に釘付けになる。  発酵させた生地は一晩で状態を変え、その膨らみを増す。途中ガス抜きがはいるが、焼き上がる過程でさらに膨張する。一次発酵だけで済んだこと、光は大いに感謝した。 「ここNYだよね?」 「え、だからそう言ってんじゃん」  光はしっかりと確認した。それは空港で保安検査員が何度も行き先や旅の目的を聞き出すような面持ちで。  目の前の保安検査場を突破したら、いよいよ会えるかもしれない。光は募る思いと飛び出す恋心を持って空港の磨き抜かれた床を踏み締めるのだった。

ともだちにシェアしよう!