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「あら、真汐くんありがとうねえ」 「いえいえ!」  掃除機をかけている真汐に気が付いた『希望の園』の園長先生がそう言ってくれた。すっかり忘れてたわあ、と彼女は額を押さえる。 「気にしないでください、ちゃちゃっとやっちゃいます」 「代休とってね」  昨日から、スタッフの一人がお子さんがインフルエンザだとかで休んでいる。たまたま清掃当番が空白になっていたので、真汐は非番だったのをいいことにひそかに買って出たのだ。真汐は住み込みで働かせてもらっているので、休みだったとしてもなんだかんだ園に来てしまうから問題なかった。  リビングエリアのテーブルについて、園長先生は郵便を整理し始める。彼女は片手でリモコンを弄り、点けっぱなしになっていたテレビのボリュームを上げた。 『──なお、今回の事件を担当したのは警視庁異能犯罪特別捜査官たちのチーム、通称EXASということで、近年増加する異能犯罪に対応するために作られた部門が本格的に指導し、成果を収めている模様です。現場の、……──』 「あッこれシュウくんやねえ」  ほらほらほら、と園長先生がテレビを指さすので、真汐も掃除機を止めて近づいた。  画面には東京だろうか、林立するビルに挟まれた路地が映っていた。異能犯罪特別対策室を示すEXAS──“Extra Ability of Sentinel”のロゴが入った深い青のフライトジャケットを着ている数名が、警官たちとともに車の傍に立っていて、そのうちの一人がシュウなのは真汐にもすぐにわかった。 「シュウくん、イケメンやしスタイルいいからすぐわかるねえ」  園長先生は涙もろい、大きくなって、とティッシュを掴み鼻を啜った。シュウの大きさ自体はここ数年でそんなに変わっていないし、こっちに来るたび顔を出しているからなんなら一週間前も会っている。けれど、園長先生はテレビやネットのニュースでシュウの活躍を知るたび、立派になって、大きくなって、と感極まっていた。  気持ちはわかる。  きっと大変な事件に携わっただろうに、いつも通り淡々とした様子で他の捜査官と話しているシュウの様子は落ち着いていて、あまりにも頼もしい。ガイディングが上手くいかないと悩んでいたとはいえ、こういう現場では順調に能力を発揮しているのだろう。  ──シュウはすごいなあ……。  真汐はテロップで流れる、センチネルの能力を使って逃亡を続けていた麻薬密売組織の一斉摘発、という重苦しい文字を眺めながらぼんやりと思う。  一週間前シュウが来ている際、真汐は実は覚醒していないセンチネル──レイタントだったと判明した。つまり今はセンチネルとしての能力が発現している状態だ。  しかし、何かが大きく変わったという実感はほとんどなかった。  言われるまま行政にも届け出を出したし、専門病院でセンチネルとしての検査もいくつか受けた。数値に関しては『すごい数値ですよ!』と言われたが、それがどのくらいすごいのか真汐には全く分からない。穏やかな港町の、児童福祉施設の日々はいつもと変わりなく進む。  時折メールに、センチネルとしての力を生かして働きませんか、みたいな求人が送られてくるようになったけれど、ここの仕事を辞めてそちらに行くポジティブな理由はない。お世話になった施設だし、センチネルとして、が具体的に何をどう指すのかもさっぱりだ。 『続いてのニュースは、センチネルを覚醒の前から判定することができる新薬の治験が終了、認可がおりたため来月から全国の幼稚園、小学校にて健康診断などで使用される見込みです。この新薬を発明したチーム長である医師の林原伊助氏は、亡き先代院長の遺志を継ぎ──』 「あれ?」  真汐のぼやきに、どうしたの、と園長先生が再びテレビを見る。  真汐はテレビ画面に映った白髪交じりの医者を指さす。 「この人の顔、どこかで見たことある気がして」 「ああ、林原医院の息子先生ね。数年前、っていっても、十年くらい前か、駅の反対っかわで総合病院やってたのよ。お父さんと代がわりしはったんやねえ。うちにも院長先生、あ、お父さんのほうね、健康診断でたまに来てくれてたわあ、懐かしい」  あらあらお化粧してまあ、と苦笑する。 「テレビ出るからやろか。当時からなにかと新しいこと好きの印象あったけど、あらまあ、新しい薬? すごくなっちゃって。まあ、シュウくんには敵わないけどねえ」  うふふ、と園長先生は老眼鏡を得意げに直す。  ──健康診断……。全然覚えてないや。  テレビ画面がニュースからグルメ特集に変わったところで、真汐は掃除機を掴みなおした。が、すぐにポケットの中でスマートフォンが鳴動したので、慌てて取り出す。  知らない番号だった。03から始まっているから、東京だろう。 『七瀬真汐さんの携帯電話でお間違いないでしょうか』 「はい、そうです」 『お忙しいところ失礼いたします、わたくし警視庁異能犯罪特別対策室室長の灰谷と申します』  ──いのうはんざい、とくべつたいさく、エッ……。  先ほどテレビで見聞きしたはずの単語が、まるで知らない言葉のように頭の中を舞った。真汐の反応が気になったのか、園長先生がテレビの音量を下げてくれた。  灰谷と名乗った男性は、流れるように物を説明した。 『ようするに、センチネルとしてうちの対策室に来ていただけませんか、というお誘いです、ははは』  とても分かりやすくて、穏やかな声音がまだ何も知らないのにいい人なのかもと思わせる。もしも急に知らない人から『センチネルとしての能力値が高いから、力を貸してくれないか』と言われていたら、自分に自信がないタイプの真汐は特殊詐欺か何かかもと思ってしまっていたかもしれない。  それに加えて。 『実は後出しで申し訳ないのですが、広(ひろ)野(の)紫羽(しゅう)捜査官から、お知り合いだと伺っています。彼からあなたの人となりは信頼に値すると聞いていたのも、今回の件の後押しになりました』  広野紫羽はシュウのフルネームだ。彼の名前を出してそんな風に言われてしまったら、真汐に断る理由は見当たらない。 「あ、あの、ええと、俺で力になれるなら、そのお話、」  お受けします、と言いかけ、こちらを気遣って心配そうに見ている園長先生の柔らかな視線に気が付く。  真汐は、 「もう少し、詳しくお伺いすることは、できますか」  と問うた。灰谷は、もちろんです、と少しだけ声を明るくした。なんとなく警察の偉い人は横暴な話し方をしそうなイメージが勝手にあったのだけれど、灰谷の口調は始終穏やかだった。  こんな人がシュウの上司なら、よかった、とよくわからない安心をしてしまう。  灰谷はその後も二、三事務的なことを説明し、後ほどシュウのほうから連絡がいくからと言った。  通話を終えた真汐に、園長先生が近づいてくる。 「……、シュウの上司の人からで、その、俺のセンチネルの数値が高いから、一度捜査官としての適性検査を受けてみないかって」 「すごいじゃない」  手を握ってくれた。昔は大きくて分厚いと思っていた園長先生の手は、いつの間にか自分よりも随分と小さい。 「ね、うちのことは気にしないでいいの。真汐くんが一番やりたいことをやってね。あ、気が早いかな」 「いえ、ありがとうございます」  嬉しい。園長先生はいつも誰にでも優しくて、みんなのお母さんとかおばあちゃんみたいな存在だった。職員として働く側になった真汐にとっても、それは変わらない。 「シュウからも話があるみたいなんで、それを聞いていろいろ考えてみます」  とりあえず掃除機かけちゃいますね! と真汐は再三掃除機を握りなおした。  ◇  そこからの話はトントン拍子に進んだ。  灰谷の言ったように、真汐はまず異能犯罪特別捜査官としての適性を見る検査を受けるために上京した。その際、ホテルをとるつもりでいたのだけれど、 『は? 東京来るのにわざわざホテルなんてとらなくても、うち来ればいいだろ』  とシュウが言ってくれたので、真汐はシュウの自宅に泊まらせてもらうことになった。  本来警察官は独身の間寮に入ることがセオリーらしいが、センチネルやガイドなどの異能者は感覚が敏感であることへの配慮から、防音などの基準をクリアしたマンションや一軒家を社宅のような形で借りることができるそうだ。  シュウの部屋もいわゆるタワーマンションというやつで、のんびりとした尾洗の港町で過ごしてきた真汐にとってはまるで未来にタイムスリップしたような気持ちだった。  二日ほどかけて試験を受け、一度尾洗に帰り、そして。  ここにまた、戻ってきた。 「その、改めて、お世話になります」 「そんなかしこまらなくていい」  広いリビングに入ってぺこりと腰を折った真汐に、シュウは困った顔をした。  そう、真汐は今日から改めて候補生として、研修を受けながら一人前の異能犯罪特別捜査官になるための訓練を積むことになった。  適性検査での真汐の様々な数値は、検査官や灰谷曰く歴代のセンチネルたちを大幅に上回るものだったらしい。ただ、大事なのは能力の数値だけではなく本人の性格や気質、その他諸々様々な条件がそろわないと捜査官には向かないのだという。真汐はそれも合格なのだそうだ。  これはすごいことだよ! と灰谷らに熱弁されても、真汐は全くピンとこなくて。唯一なんとなくわかることは、  ──これで、やっとシュウの役に立てるかもしれない……。  ということだけ。 「でも、こんなすごいところに、住ませてもらうって実感がなくて……」  真汐はパノラマビューと言えばいいのか、窓から見下ろせる東京の街並みとその向こうに広がる海に視線をやる。数日前に初めて見たばかりなので、まだ一向に慣れる気配がない。  結果を待つ間一度尾洗に戻ったが、のんびりとした港町の景色にとてもホッとした。やっぱり自分にはここが落ち着く、という気持ちと、シュウと過ごすことへの複雑な執着が、まだ真汐の中でグチャグチャと絡み合ってほどけないまま、合格通知が来て今に至る。  アイランドキッチンと言うらしい、独立した台みたいなところに立ってコーヒーを淹れながらシュウは、 「俺も別に、自分の給料で買えるような部屋じゃねーし」  とケロリと言う。だがそんな彼の姿はあまりにも様になっていて、真汐はショルダーバッグのストラップを握り締める。  夜勤明けだからかけだるそうなシュウは、ゆったりとした長袖のカットソーとデニム姿でリラックスした雰囲気だけれど、つやつやのシルバーのワークトップや黒い壁とあわさると立っているだけでそういうアート写真みたいだ。頭が小さくて手足が長いからだろう。  結果と手続きのために本部に行く必要がある真汐を、迎えに行くとシュウは言い張った。けれど夜勤が終わった彼にそこまでさせられないと一人で行って帰ってきた。寝ていると思っていたのに、シュウは起きて待っていてくれたらしいのだ。 「今日はもう何もないんだろ、上着脱いでこい。あの部屋そのまま使ったらいいから」 「う、うん……」  真汐は、この部屋使っていいよ、と洋室を丸ごと貸してもらっていた。もともとベッドが置いてあったので客間だったのかもしれない。追加で届いたハンガーラックやチェストは、いつの間にかシュウが注文してくれたものたちだ。 「その、俺が候補生になること、先に灰谷さんから聞いてた?」  リビングに戻って問うと、マグカップを差し出しながらシュウは頷いた。 「昨日の夜にな。正式には今日内示だったから、黙ってた。悪ィ」 「あ、それはいいんだよ、全然」  自分のことを先にシュウが知っているのは、特に何とも思わなかった。真汐は深い藍色のマグカップを受け取る。この家に食器は少ないけれど、シュウの選んだものは全部おしゃれだと感じる。ざらりとした手触りのそれも、温かみがあってコーヒーが凄くおいしく思えた。 「いろいろ、その、用意してくれたんだなと思って。ラックとか」 「ああ、まあ、いるだろ」  ここで暮らすなら、と付け足される。  うん、と返した。  ──ここで暮らす……、シュウと。  湯気で目の周りがぽわんと温かくなる。外は寒いので、気温差もあるのだろう。園の古い設備と違って、この部屋の大きなエアコンは駆動音が静かでほとんど聞こえない。 「ちょっと仮眠とる、起きたら買い物行こう」 「ありがと」  シュウは少しだけ口元を緩めて微笑むと、そのまま洗面所の方へ行ってしまった。彼の歯を磨く音がガツンと耳の奥に飛び込んできて、真汐は慌てて深呼吸する。顔が熱い。  シュウとまた一つ屋根の下で暮らしている、そのことがただただ嬉しくて舞い上がりそうになる。子どもの頃からずっと一緒に居て、彼が上京する時に全て手放した。悲しくて寂しくて、でもシュウの活躍を応援したくて。真汐はその時、マイナスな気持ちを一人で必死に封印した。  それが今、こんな形でまたかなってしまうなんて。  とはいえ。  音ひとつひとつ拾って喜んでいるなんて、なんだか恥ずかしい。シュウはいつもどおり淡々としているのだし。  ──コントロール、できるようにならないと……。  今日も改めて言われた。センチネルは五感が発達している。この世に溢れている音や色、においといったありとあらゆる情報はあまりに膨大だ。例えば雑踏の中で友達の声だけを集中して聞き取ることができるのは、脳がある程度フィルタリングをしているからである。  普通の人であるミュートに比べて感覚が鋭敏なセンチネルは、さらに流れ込んでくる情報が多くて強い。自分で能力を使うタイミングやレベルをコントロールできないと、外界の情報に押しつぶされることになる。  真汐のセンチネルの能力が高いということは、つまりなだれ込んでくる情報量も平均よりも多いということらしい。なので、まずは自分を守る方向に訓練を積むのが先決だと。  繰り返し深呼吸をする。  訓練として正しいのかは不明だが、昔から大きな音に晒されたときに真汐は水に潜る想像をして乗り越えていた。プールやお風呂、海、水の中は大きな膜で真汐を包んでくれる。音の衝撃から、真汐を守ってくれるような気がするのだ。  頭の中、水に包まれているのをイメージする。すう、と音が遠ざかって、耳の奥の痛みが消える。  灰谷にその話をすると、センチネルたちは皆自分に合った方法で自分を守っているのだと教えてくれた。灰谷はガイドだ、その言葉には説得力があった。  その、己を守る膜のことを文字通りシールドと呼ぶ。センチネルは己の精神に盾を作ることで、バランスを保つというのももちろん教科書に載っていたので知っている。  この水の膜が自分にとってシールドだったのは、わかっていなかった。  ──常時シールドをきちんと展開して、急激に情報過多になることを防ぐ……。  読んでおくように言われた資料にあった文言を頭の中で繰り返し、真汐はゆっくりとソファに座った。シュウが寝室のドアを閉めた音が微かに聞こえたので、 「はぁぁ……」  と長い溜息がこぼれる。  ──機嫌悪い、とかは、ないよなあ。  ふかふかのソファに背中を預け、真汐は高い天井を見上げる。映画などでしか見たことがないファンがくるくる回転していて、どうやって掃除すんのかな、なんて思った。  そう、なんとなく、シュウの様子がおかしい、気がする。ほんの少し。  初めて灰谷から連絡が来た後、ほどなくしてシュウからも電話があった。真汐は高揚した気持ちのまま、俺もシュウと同じところで役に立てるかもしれない、と言ったら。 『……そっか。こっち来るときは連絡するんだぞ』  そう返ってきただけだったのだ。  真汐の膨らんでいた気持ちは、あっさりとしぼんだ。  そして反省した。  シュウは、警察官になるために高校の頃からずっと努力を重ねていた。特待生で合格したとき、いつもクールで落ち着いているシュウにしては珍しく嬉しそうにガッツポーズをしていたのを真汐ははっきり覚えている。  それなのに、自分はたまたまセンチネルで検査の数字が高そうだというだけで、シュウと同じ場所に行けるだなんて。  ──迷惑、だよなあ……。  だから、ホテルも自分でとろうとしたし、暫く東京で過ごすならアパートか何かを探そうかと思っていた。灰谷も家賃手当を出せると言ってくれていたし。  候補生とはいいつつも、対策室のスタッフとして給料は出してもらえるそうだ。それならわざわざシュウに迷惑をかけなくても。真汐はそう思ったのだけれど。  ──なんだかんだ面倒見いいんだもんな……。  シュウが入れてくれたコーヒーの水面を眺める。真汐は牛乳が多めで砂糖はスティック一本、言わなくてもシュウはその配合で出してくれた。部屋を整えてくれるのも、送り迎えをしようとしてくれるのも、昔から変わらない。どちらが年上なのかわからなくなるくらい、シュウは真汐に親切だ。  ──でも、全然うれしそうじゃない。  今日もそうだ。あらかじめ灰谷から聞かされていたとはいえ、正式に真汐が候補生になったと合格の旨を電話しても、そうか、のひとこと。園長先生に知らせたら、おめでとう、すごいわね、と涙ぐんでくれた。  祝ってほしかったとまでは思っていない。だが、期間限定かもしれないとはいえまた一緒に住めるし、仕事場まで同じになれたのに。 「嬉しいの、俺だけか……」  思わず口に出すと、広いリビングに声が霧散してよりさみしさが増した。真汐はソファの上で足を抱えた。  子どもの頃は、同じ部屋で、手を繋いで眠っていた時期もあった。お互いの感情が筒抜けなんじゃないかと思うくらい、隠し事や秘密は全くなくて。  わかっている、自分たちはもう大人だ。  それに、そういう温かなものを手放す覚悟は、シュウが東京に行くと決まった五年前にしたはず。いまさらうじうじするなんて情けないにもほどがある。シュウは二十四歳、真汐は二十七歳になった。もう自分は、立派な成人男性に他ならないのだ。  幸い、シュウははっきりと真汐が候補生として学ぶことに反対だとは言っていない。  大喜びはしてくれなかったものの、シュウは 『専門的にセンチネルとしての振る舞いを教えてもらえるのは、いいことだと思う』  というふうには言ってくれた。  通常、センチネルは第二次性徴を迎える手前には覚醒、判明することが多い。その時期を逸したセンチネルをレイタントと呼ぶわけだが、それこそシールドの張り方やメンタルの保ち方、能力のコントロールの仕方は大人になってから習得するほうが難しいそうだ。  シュウの言葉通り、しっかりとした勉強をさせてもらえる環境は真汐にとってただただありがたい。  真汐は気を取り直して、ガラスのローテーブルにマグカップを置いた。部屋に置いたばかりのリュックから、もらった資料の束とノート、筆記具を取り出す。  ──しっかり勉強して、早く役に立てるようになるしかない。  認めさせたい、みたいな強い気持ちがあるわけではないが、せめて迷惑や足手まといにはならないようにしなければ、そう思った。

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