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第3話

 まさかあのレポートが、こんな形でまた僕の役に立ってくれるとは思いもよらなかった。  入社のために制作した商品のレポートが功を奏して、秋生さんとおなじ会社に勤めることができた僕はマーケティング事業部に配属された。  直接的な営業をするわけではなく、顧客のニーズをリサーチし、それに合致する商品の提案をしたり広告の方向性を考えたりする部署だ。  新人の僕はとりあえず先輩からここでのやり方を教えてもらい、歯車のひとつになるための訓練をする段階にいた。  当然だ。  入社したてなんだから。  それに不満はまったくない。あれほどのレポートを仕上げたのだからと意欲に燃えて、先輩方をないがしろにするとか、上司にアピールして出る杭になろうなんて気はさらさらない。僕の入社目的は秋生さんと付き合うためだったから、企業愛もなければ商品に特別な感情も持っていない。ただ、秋生さんを手にいれるために必要なことをしただけだ。  そんな僕を上司も先輩も謙虚だと評した。僕のレポートの件は誰もが知っていたから、どんなにギラギラしたヤツがくるんだろうと思われていたらしい。そして実物を見て、とても普通だったから拍子抜けをしたとか、安心したとか言われた。  どうでもいい。  僕が評価を得たい相手は秋生さんだけだから。  そんな心の奥にある感情が、知らないうちに体中の毛穴という毛穴から流れ出ていたのかもしれない。  僕は上司から提案された。  新商品開発のプロジェクトの参加する気はないか、と。  そのプロジェクトは別部署の人間とするのだと言われて、どこですかという質問に返ってきた答えは営業部。理由は在庫管理をしているので、リアルタイムの受発注推移を確認しながら商品の動向が把握できるから、らしい。そして商品開発部とのつながりもマーケティング事業部と同程度にあるのも理由のひとつだそうだ。  秋生さんのいる部署だ。  僕は前のめりに聞いた。 「あの、相手は誰か決まっているんですか」 「ん? いいや、まだだ。上から打診があってな、おまえが受けるんなら、同年代の若い奴を相棒にする。おまえが断ったら人選は妥当なところから選ぶようにと言われているんだ」  森田という名の課長は「若い感性をぶつけ合えば新しいものが生まれるのではという、神田部長の考えだ」と言った。 「それなら、ベテランの方をお願いできますか」 「うん? なんでだ」  秋生さんがいいと名指しができたらいいのに。そうなるようにと祈りを込めて、該当しそうな人物像を伝えるしかない。 「僕みたいな新人が商品開発部にハッキリと指示を出したりするのは、ちょっと……」  それもそうだなと森田課長が理解の色を示したので、すかさず遠慮がちに見えるよう気をつけながら希望を伝えた。 「できれば会社に長く貢献をしていて、資料を集めやすい立場の人がありがたいです。……その、独身であれば特に」 「なんで独身なんだ」 「食品の消費は主婦という目線が強いなって、入社前に調べているときに思ったんです。けれどいまはひとり暮らしだったり、共働きだったりする人が増えてきているので、そういう人たちに向けての商品を強化したらどうかなと考えていて」  差し出がましい意見ですが、と雰囲気で付け加えた僕は好意的な印象を与えられたみたいだ。森田課長は「なるほどな」と「まかせておけ」を混ぜた顔で、神田部長に伝えておくと答えてくれた。  失礼しますと頭を下げて、自分のデスクに戻りながら考える。  営業部にいる年上で独身の社員は秋生さんか、お局状態の女性社員のふたりだけ。秋生さんが抜擢される公算は高い。  すぐさま辞令が下りないかと、ワクワクしながらふたたび森田課長に呼び出されるのを待った。  はたして事態は僕の思惑通りに動き、森田課長に連れられて入った会議室には秋生さんがいた。 「こちらが、営業部の久永秋生くんだ。入社して二十年ほどのベテランだから、わからないところはなんでも遠慮せずに聞くといい」 「岩井琢磨です」  はじめて会うフリをして頭を下げる。秋生さんも僕とただならぬ関係だなんておくびにも出さず、初対面の顔で右手を差し出してくれた。 「やあ。ウワサは聞いているよ。すごいレポートを提出して内定を決めたんだってね」 「いえ、そんな……」  謙遜と誇らしさを混ぜて握手に応える僕に、森田課長が満足そうな顔をする。 「それじゃあ、久永くん。これから岩井をよろしく頼むよ。岩井はまだ会社に入って日が浅い。午前中は通常業務に従事してもらい、久永くんとの新プロジェクトは午後からということになるから」 「ええ、森田さん。俺は午前中に必要な資料をまとめて、岩井くんとスムーズに調査が行えるようするつもりです」 「そうか。では、俺は部署に戻らなければならないから、あとはよろしく頼む」  さっさと帰れと心の中で追い出しながら、笑顔を浮かべて「お疲れ様です」と頭を下げる。森田課長が去っていく靴音を聞いていると、秋生さんがわざとらしくため息をこぼした。 「まさか、君とふたりで新プロジェクトをしなければならなくなるとはね」 「僕はとてもうれしいですよ。必然という名の偶然だと思います」 「なにか手回し……、ができるような立場でもないか」 「ええ。――きっと僕の想いが強すぎて、引き寄せてしまったんでしょう」  僕は秋生さんに手を伸ばした。スーツ姿の秋生さんばかり見ているから珍しくもなんともないれど、会社の会議室でふたりきりというシチュエーションは目新しくて興奮する。秋生さんはおとなしく僕に顔を引き寄せられた。唇を寄せて軽くついばみ、そのまま深いキスをしようと舌を伸ばすとやんわりと手のひらで肩を押された。 「なにを考えているのかな?」 「秋生さんのことだけしか考えていませんよ」 「光栄だけれど、いまは仕事をする時間だ」 「きっちり仕事をすれば、空き時間はなにをしてもいいじゃないですか」 「まだなにもはじめていないのに、すごいことを言うね」 「仕事のはじめは秋生さんが僕のレポートを読んで、それについて意見をもらうことです。秋生さんはもう僕のレポートを読んでいるし、とっくに感想ももらっています。だから、今日のぶんの仕事は終わっているんですよ」  秋生さんのネクタイに指をかけて、ほどく。秋生さんはいつもの穏やかな笑みを浮かべたままで抵抗はしない。 「誰かがきたらどうするつもりだ」 「誰かが来るんですか? お茶を運んでくれるような人はいないでしょう。ベテランでそつなく仕事をこなす秋生さんがいるんだから、上司が様子を見に来る必要もない。誰だって余計な仕事なんてしたくない。――自分の仕事で手一杯で、僕たちがどうしているのかなんて誰も気にしていませんよ。仕事の終わりに報告を上げれば終わりです」  だから、と僕はささやきを秋生さんの唇に当てた。 「大丈夫ですよ」 「若いね」 「若いですよ。――僕はとても若い。秋生さんが欲しくてたまらないんです」 「とんでもないプロジェクトに抜擢されてしまったな」  前髪をかき上げる秋生さんに胸がときめく。体が熱くなって、このままじゃ終われない。 「秋生さん」 「止まれと言っても、無理そうだな」 「ええ。無理です」 「分別というものを覚えたほうがいい」 「そんなものは若いころに無茶をしながら、だんだんと身に着けていけばいいんですよ」 「俺は諭す側なんだけどな」 「諭されても止まれません」  熱く滾った僕を秋生さんの太ももに押しつける。秋生さんは苦笑して、僕の胸を押しのけると会議室の鍵を閉めた。 「あまり人が来ないフロアだけれど、念のためにね」 「秋生さん」  期待で胸が高まる。 「それでは仕事どころじゃなさそうだから、頭を冷やしてやらないとな」  優雅な足取りで僕の傍に来た秋生さんは膝をつき、僕の股間に指を置いた。ベルトが外され下着ごとズボンを引き下ろされると、僕の分身が元気よく飛び出した。 「はは。元気だな」 「秋生さんを前にしているから」 「もしもそうなら、これからずっと仕事にとりかかる前に、俺は琢磨くんを落ち着かせなくちゃならなくなる」  苦笑しながら秋生さんは僕を口に含んだ。丁寧だけれど性急な動きで愛撫され、息が上がる。秋生さんの髪に触れかけて、髪を乱してしまっては困るだろうと肩に手を置いた。 「っ、は……、秋生さん」  僕の股間で秋生さんの頭が揺れる。薄く形のいい唇から、僕の欲の象徴が伸びている。秋生さんのすぼめられた頬を、僕の熱が不格好に内側から押し上げていた。 「ああ――、秋生さん」  うっとりと名を呼べば、秋生さんの目じりがとろけた。幼子を見守る庇護者の顔だ。  愛されている喜びと、子ども扱いされている口惜しさが半々。  それを快楽がやんわりと包んでいる。 「んっ、ぁ」  僕はあっけなく秋生さんの口内に放ち、秋生さんは筒内に残ったものもすべて吸い上げて嚥下した。 「ふう。それじゃあ、仕事をはじめようか」 「秋生さんは」 「ん?」 「秋生さんは、しなくていいんですか?」  問いの答えだと、秋生さんは僕の身なりを元に戻した。 「俺は君ほど若くはないし、それほど飢えてもいないんだ。――ああ、浮気をしているという意味ではないから安心してくれ。琢磨くんと付き合うようになってから、誰ともキスすらしていない」  それまでは多くの相手とキスもそれ以上もしていたと言外に匂わされて、お腹のあたりが嫉妬で重たくなった。  わかっている。秋生さんは僕よりもずっと大人で、経験豊富な人だって。  立ち上がった秋生さんがテーブルに置かれた僕のレポートを手に取り、パラパラとめくる。 「これを読んだ感想をまとめて、上司に報告書を提出しなければな。――進行状況をきちんと目に見える形で示さなければ、文句を言われるだろう? バレないようにイタズラするには、それなりの体裁を作っておかないとね」 「秋生さん――っ!」  それじゃあ毎日、仕事の合間にキスやそれ以上をしてもいいんですね。  言葉に出さずに伝えた僕は、秋生さんの隣に座る。 「だったら僕は、秋生さんからどんな意見やアドバイスをいただいたのかを、森田課長に報告しなくちゃいけませんね」  もう一部コピーされていた僕のレポートを開いて筆箱を開く。マーカーを引き、ボールペンであれこれと書き込む僕の手元を、秋生さんが愉快そうにのぞき込んだ。 「俺はまだ、なんの意見も言っていないんだけどな」 「前にいただいた意見を書いておきます。ねえ、秋生さん。これから僕と秋生さんが一緒に退社してご飯を食べに行っても、誰も変には思いませんよね。だって僕と秋生さんは仕事の相棒になったんですから」 「相棒か。うん、まあ……そういうことになるのかな」  なんて幸運を引き寄せたのかと、僕は感動に打ち震えた。これから毎日、秋生さんを独占できる。毎週金曜日だけだったキスが毎日できる。もちろん、それ以上も。 「ただし、きちんと節度を守って仕事をするように」 「えっ」 「ずいぶんとイヤらしい顔をしていたぞ」  からかわれて首のあたりがカーッとなった。秋生さんは笑いながら、僕のレポートに思ったことを書き足していく。それを見ながら、僕もメモ作業に戻った。  これからどうやって秋生さんと過ごそう。  うわの空でも僕の手はきちんと動いた。目と手は秋生さんの書き込みを追ってメモをするのに、意識は今後の計画に没頭していく。  汗を絡めて踊る光景を思い出し、満ち足りた秋生さんの無防備な笑顔にニンマリとする。あの顔をもっと見たい。乱れた後にしか気を許してくれないのなら、理性を壊してしまえばいい。本能をむき出しにさせて、僕を求めさせればいい。そのために必要なものはわかっている。  状況は僕の味方だ。

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