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第7話

 まいったな。  親しみを込めたあきれを、秋生はこぼした。  胸の上でスヤスヤと眠っている琢磨に目を細め、そっと前髪を額から払う。ほんのりと湿った肌は彼が必死に自分を求めた証だった。  まいったな。  秋生はウキウキと困惑をもらす。  まさか、こんなことになるなんて予想外だ。  わずかに体をずらして琢磨を起こさないよう胸からベッドに下ろし、寝顔にキスをする。無防備な彼の寝顔に秋生の心がほっこりと温まる。  まいった。……降参だ。  肩をすくめてぎこちない足取りでシャワールームに入り、琢磨の名残を落としながら出会ったころの彼を思い出す。  大人の世界を知らない顔で、怖気づいていた琢磨はかわいかった。はじめて見た相手を親だと思うひな鳥のように、彼が自分を信頼していると気づいて庇護欲が湧いた。怖い思いをしなくて済むなら、それに越したことはない。彼が慣れるまで傍にいて守ることとしよう。  そう決めて、金曜の夜には店にいるからと教えた。金曜以外にもバーには通っていたが、彼にかまってばかりはいられない。自分の楽しみの時間も必要だから。  琢磨は毎週金曜日、かならず店を訪れた。喜々として隣に座る彼のことを、店の常連客たちは子犬だと言っていた。そうと知ったら、琢磨はどう思うだろう。  店の誰もが琢磨を子どもと見ていた。実際、あの店に通う者たちからすれば、二十歳そこそこの青年など子ども同然だった。それを守ろうとする秋生の気まぐれに反対するものはなく、むしろ協力的だった。だから琢磨が現れると傍から離れ、秋生がいないときも琢磨にちょっかいをかけなかった。  そう、ほんの子どもなんだ。  シャワーを手に取り、首に、肩に、胸に、腹に――順番に湯をかけていると、琢磨の指や唇の熱を肌が思い出した。 「……はぁ」  天井にくゆる湯気を見上げる。琢磨の真摯な瞳が自分を見つめている。  ――愛しています。  まっすぐな言葉。あんな目を向けられたのは、どのくらいぶりだろう。まだもっと若いころ、愛に情熱をかたむけられていた昔の話だ。そのころは自分も、琢磨とおなじ顔で愛を信じていたのかと面映ゆくなる。 「若かったんだ」  そして琢磨は、まだ若い。  彼を完全に侮っていた。まさかここまで気持ちを持続させるとは。憧れと恋を混同する年頃なんだと考えて、彼の告白をうまくはぐらかしたつもりでいた。おなじ会社に入社ができたら付き合ってあげるなんて傲慢なセリフだった。あきらめると見越した断り文句を、琢磨は約束だと受け止めた。 「入社のために奮闘をしているなんて、まったく気がつかなかったよ」  シャワーを止めてバスタオルに手を伸ばす。体を拭きながら、琢磨につけられたしるしを目にすると唇が勝手にほころびた。  いつから彼にほだされていたのかと、秋生は心地いい困惑に酔いしれた。裸身のままベッドに腰かけ、起きる気配のない琢磨を見下ろす。時計に目を向け愛し合った時間を確認し、意外に体力があった自分に感心した。  指になにかがあたり、視線を落とす。シーツのシワに埋もれたアナルプラグをつまみ上げ、クスリと鼻を鳴らした。 「まさか、こんなものまで用意をしていたとはね」  わずかな距離も離れていたくないんですと、必死の形相で訴えてきた琢磨に流される形で挿入を許した。会社のトイレでこっそりと吐露された彼を処理しようと考えながら。血気盛んなことだと年上ぶりつつも、求められる喜びを燃え立たせて昇りつめるとすぐにこれを埋め込まれた。  ――これがあれば、こぼれませんよね。  狂気じみた純真さに胸が疼いた。  ――ずっとこれを着けていてください。秋生さんが僕のものだという証拠として。 「ふっ……、ク、クク」  肩を震わせて横たわる。琢磨の背中に腕を乗せ、彼の髪に顔を寄せた。 「まったく……、君はとんでもないな」  どうせすぐに飽きられる。そう考えて“約束”を守った。深入りしすぎない距離を保っていれば、現実を知った琢磨は年相応の新しい恋に目覚めて離れる。そのために土日をフリーにしておいた。ある程度の期間が過ぎれば浮気をするつもりだった。  肌に残された所有の証に指を乗せ、つまらなくて愛おしい主張だなと想いを味わう。こんなものがあったとしても、気にせずに秋生を抱く男はいる。いつから明確な恋人を作らなくなったのかと考えて、恋愛に情熱をかたむけなくなったころからだと思い至った。  深入りしすぎない、居心地のいい距離を保った関係が当たり前になっていた秋生に、体当たりの想いをぶつけてくる琢磨。飽きて落ち着く日を待っているのに、琢磨の情熱はますます激しくなっていく。 「わかっているよ」  泣きながら訴えられた気持ちは、とっくに胸に届いている。――深く突き刺さっていると表現するべきか。 「琢磨くん」  秋生の声は意図せず震えた。 「……俺は、君の父親と変わらない年じゃないのかな」  聞いたことはないけれど、そうであってもおかしくはない。琢磨と自分の年齢差より、彼の父親との差のほうが短いはずだ。それなのに、そんな相手にこれほど夢中になるのはどうしてなのかな。  聞いてみたい。けれど聞くのが怖かった。藤岡の誘いに乗って、日中に琢磨と街を歩いた。年の離れた兄弟か、若い父親とその息子にしか見えないなと苦笑した瞬間の胸の痛みが、鈍く後を引いている。藤岡家族の温かなもてなしの中にいた琢磨は、本当に若かった。社会人一年目の初々しさに、胸の痛みが苦味を引き寄せ甘いものが欲しくなった。  だから、彼をホテルに誘った。  必死に高めようとしてくる琢磨の愛撫は濃すぎるほどに甘く、脳の芯を麻痺させる。首輪を着けられ、飼い主になると宣言されたときの衝撃がよみがえり、秋生は甘美な記憶に身震いした。  ――調教じゃありません。飼い主として、躾をするんですよ。僕の誰にもなびかないように、主人が誰かを教え込むんです。  ――俺は犬かい?  ――いいえ……。久永秋生という名前の、唯一無二の獣です。  どういう心理から、琢磨はそんなことを言いだしたのか。 「俺が藤岡になびいているとでも勘違いしたのかい? 琢磨くん」  眠る琢磨に話しかけ、飽きることなくキスをする。なんて愛おしいのだろう。これほど愛らしい相手に無心に求められて、喜ばない人間なんているはずがない。それを素直に返せる若さはないのだと、秋生は失ったものに羨望を向ける。 「真剣な恋愛は、とても疲れる」  体力も気力もごっそりと削り取られて、それでもなお大きな喜びを得られるものだと知っている。得られなかった、あるいは失った場合の絶望感も覚えている。そこから立ち直るために、どれほどのエネルギーが必要であるのかも。 「琢磨くん」  やわらかな頬に指を乗せ、閉じられた瞳をじっと見つめた。 「俺は……」  心が揺れる。  彼の気持ちに真正面から応えたら、どうなってしまうのだろう。  いっそ、獣に落としてくれ。  君の手で本能のままに快楽を求め、愛しさを発露する獣に成り下がらせてくれ。  秋生は静かに、心から激しく躾けられたいと願いながら、眠る琢磨に寄り添った。

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