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第9話

 オフィス街にあるチェーンのコーヒーショップは、土日のほうが空いている。  土曜日の午後三時。  僕は藤岡さんと待ち合わせをしていた。予定よりもはやめに到着して、奥の席を確保しておく。今日は会社が休みだから誰かに会うこともないだろうけれど、自主残業をしている人がいるかもしれない。僕が知らないだけで、僕を知っている人はいる。なんせ僕は入社前に卒論並みの市場調査レポートを作成した有名人だから。  しばらく待っていると藤岡さんが人なつこい笑みを浮かべてやってきた。席を立って頭を下げると、藤岡さんはカウンターでコーヒーを購入してから僕の前に座った。 「待たせたか」 「いえ」  時刻は待ち合わせ二分前だ。 「私服でこのあたりに来るのは、なんだか新鮮だな」 「そうですか?」 「わざわざ会社の近くになんて、仕事もないのに来ないだろう」  そういうものか。  あまり意識をしていなかった。藤岡さんと僕の両方が知っている店はどこかと考えて、ここしか思いつかなかっただけだ。 「すみません、わざわざ」 「いや。かまわないさ。むしろ、相談役に俺を選んでくれて誇らしいな。頼られるというのは、気分がいいもんだからな」  朗らかな笑顔に緊張がほぐれる。素直に“いい人”だなと感じた。だから秋生さんも、あんなにくつろいだ表情を藤岡さんに見せたのか。  軽い嫉妬にみぞおちが疼いた。 「それで? ああ、なんというか……、言いづらいのなら適当な話をしてからでもいいし、いきなり聞いてくれてもいい。遠慮しないで、自分の言いやすい態度でいてくれ。俺は気が利くほうじゃないから、岩井の具合でいてくれると助かる」  率直な、自分を大きく見せようとも過小でいようともしない藤岡さん。こういう態度でいれば、秋生さんが自然な姿を示してくれるのかな。 「あの……」  言いかけて、唇を噛んでから続ける。 「教えてほしいんです。久永さんのことを」  きょとんと藤岡さんがまばたきをする。 「前に藤岡さんの家にお邪魔したときに、久永さんはとてもくつろいでいました。すごく自然だったっていうか、なんていうか」  なんと表現すればいいのだろう。 「僕といるときは、大人の男って感じであしらわれるというか、子ども扱いをされている気がするんですけど、藤岡さんの家に行ったときはそうじゃなかった。……単純に、仕事とプライベートの違いかもしれないんですけど」  僕と秋生さんが付き合っているとは言えない。 「仕事に支障があるわけじゃないんです。でも、遠慮をしてしまうというか、まだまだ未熟なんだってことを意識してしまって、うまく……、その…………」  なんと言えばいいのだろう。 「それで、久永さんが藤岡さんとは僕の年齢とおなじくらいの付き合いがあるって言っていたんで、久永さんがどんな人なのかを教えてもらえたらな、……と」  まったくまとまっていない、へたくそな僕の相談を聞いた藤岡さんはコーヒーをひと口飲んでから首をかしげた。 「岩井はいくつだっけ」 「……二十三です」 「たしかに、久永との付き合いは入社してからだから、そのくらいにはなるな。――だが、特別に親しいってわけじゃない。同僚ではあるが、友達と呼べるかどうかは微妙なところだ。アイツの趣味とか、休日はなにをして過ごしているのかとか、俺はさっぱり知らないからな」 「それでも!」  前にのめって訴える。 「それでもいいんです。ほかに聞けそうな人がいないから……。藤岡さんといたときの久永さんは、とてもくつろいで見えたから、だから…………、なんでもいいので教えてください」  お願いします、とテーブルに額がつくほど頭を下げる。うーんと藤岡さんがうなった。目を上げると、藤岡さんは困った顔で頭を掻いていた。 「岩井は久永と仲良くなりたいのか?」 「はい」 「そんなに気まずいのか」 「気まずいというか、隔たりを感じるというか……そう、ですね……」  秋生さんの藤岡さんに対する笑顔と、僕に向けられる笑顔を思い出して比べる。 「一線を引かれている気がします」 「それは、会社の先輩としてアイツも気を張っているからなんじゃないか?」 「気を張っている?」  秋生さんが? 「後輩の前では恰好をつけたくなるもんだろう」  ニヤリと歯を見せた藤岡さんは、いたずらっ子みたいだった。 「藤岡さんもそうなんですか?」  そうは見えないけれど。 「俺は、つける格好がないからなぁ」 「久永さんは、あるんですか」 「そりゃあ、あるだろう。あいつは男前だからな。――男前がなかなか結婚できないっていうのは、男前ってイメージを崩せないからだと俺は分析している」  秋生さんは結婚できないんじゃなくて、しないんですと反論をしかけてやめる。藤岡さんは秋生さんの恋愛対象が同性だとは知らないのか。それとも知っていてとぼけているのか。 「男前の弊害ってやつだな。仕事もそつなくこなす奴だし、新人と組んでの新プロジェクトの企画だろう? 気負って当然じゃないか」 「そういうものですか」 「そういうものだ。そういう岩井はどうなんだ。久永に遠慮をしたり、背伸びをしたりしてないか」  背伸びは――。 「…………しています」 「だろう」  したり顔で藤岡さんはコーヒーを飲む。僕もコーヒーに口をつけた。 「魚心あれば水心ってことわざは知っているか」 「ええと……、こっちの出方で向こうの出方も変わるってやつですよね」 「そうそう。だから、久永とへだたりがあるって感じているんなら、まずは岩井が気負うのをやめたらどうだ?」 「僕が、ですか」 「結果を出さなきゃとか、ベテラン社員に負けないようにとか、そういう意識があるのかどうかは知らないけどな。背伸びとか遠慮とか、しないでみたらいい。それでなにか問題が起こったら、とりなしてやるから」  当たり前の顔でいる藤岡さんが、とても大きな存在に感じられた。気負わずにそんなことが言えるくらい、器の大きな男になりたい。そうなれたら、秋生さんは――。ああ、違う。これじゃあアドバイスと逆じゃないか。 「遠慮しないで、それで嫌われたりしませんかね」 「はぁ?」  バカかお前は、と藤岡さんに顔で言われる。 「そんなもん、どこまで大丈夫か試してみないとわからないだろう? そんなふうに警戒をしていたら、縮まる距離も縮まらないぞ」  そうかもしれない。 「でも、不安で……」 「だから、とりなしてやるって言っているだろう? 俺がけしかけたって久永に言ってやるよ」  とりなしてもらえるはずがない。仕事のことじゃないんだから。でも――。 「やってみます」  このまま、平行線のままよりは、ずっといい。 「そうか」 「はい。――休みの日に呼び出して、すみませんでした」 「こういうときは、ありがとうございましたって言うんだぞ? 覚えとけ」  青春漫画の熱血教師みたいに、ニカッと歯を輝かせる藤岡さんは頼もしい。こんなふうに強くなろう。  よしよしと藤岡さんは首を縦に動かして、コーヒーを飲み干すと席を立った。 「これからどうする? なんだったらウチに来て、晩飯を食っていくか」 「いえ、大丈夫です」 「なんだ。遠慮ならいらないぞ」  そうじゃなくて。 「秋……、久永さんとのこと、ちょっと自分の中で振り返ってまとめたいので」  下の名前を呼びかけた僕に、藤岡さんはひっかかりを覚えたようだけれど追及はされなかった。 「そうか。そうだな、そうしろ」 「今日はほんとに、ありがとうございました。あの、これ」  用意していたお土産――有名店のクッキー缶――を差し出す。 「は? そんな気遣いは無用だぞ、岩井。そういうところがあるから、久永としっくりこないんじゃないのか。まあ、相手にもよるだろうが。すくなくとも俺には必要のない遠慮だな。久永も、そういうものは必要のない奴だぞ」  そうなのか。 「でも、買ってしまったので」  受け取ってもらえないと、クッキーの行き場がない。 「そんなら、今日はまあ、ありがたくもらっておく。けど次からは、こんな気を回さなくても相談でもなんでもしてくれればいい。甘えるのは新人の特権だぞ?」  ぐしゃっと髪を撫でられて、胸の奥が笑った。頼もしい兄貴ができた気分だ。 「はいっ!」 「うん、いい顔になったな。その顔でがんばれ」 「ありがとうございます」  立ち上がって頭を下げれば、よせよと照れながら藤岡さんは帰っていった。見送って、ストンとイスに座り込む。  甘えるのは新人の特権、か。  だとしたら、年下の特権として甘えてもかまわないよな。  なんとなくの習慣で金曜の夜にしか秋生さんと過ごしていなかった。土日の誘いも乗り気じゃない顔をされてから言わなくなった。遠慮なく秋生さんを乱そうなんて思いつつ、気が引けたのと僕が我慢できなくなったのとで中途半端になっている。  スマートフォンを取り出して通話ボタンをタップする。履歴の上部をタップして耳に当て、コール音をなんとなく数えながら待った。 『……はい』 「秋生さん、僕です」  機械越しの声は、冷たく感じて好きじゃない。 「いま、どこですか?」  わずかなためらいの後に、自宅だと答えられる。 「これから、どこかに行く用事とかありますか?」 『いや……、特にないが』 「じゃあ、いまから行きます。いいですよね? 用事がないんなら、お邪魔しても」 『――え』 「会いたいんです。いますぐに」 『いや、それは……』 「都合が悪いんですか? なにも用事がないんですよね。だったら、僕が行ってもかまいませんよね」  席を立ってトレイを返却口に置き、店を出る。 「いまから行きますから。だから、待っていてください。すぐに行きますから……」 『……わかった』  了承の声はとても低くて、僕の強引さを嫌悪しているのかもと怖気づく。でも、了承はしてくれたんだ。行きたくても行けなかった秋生さんの家へ向かう許可をもらえた。 「いま僕、会社の近くなんです。だから秋生さんのところへ着くのは――」  どのくらいになるんだろう。  重要なことに思い至った。 「あの、秋生さん。……秋生さんの家って、どこにあるんですか?」  電話の向こうで噴き出した秋生さんが、駅まで迎えに行くよと最寄り駅を教えてくれた。 「よろしくお願いします」  意気込みとおなじ熱量の羞恥に見舞われながら、喜びに浮き立つ足を動かして秋生さんのもとへと駆けだした。

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