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○第59話○
「おはよう、千秋ちゃん」
「おはよ」
朝の始まりのいつもの挨拶。でも今日それを交わしたのは千秋ちゃんの家の前で、いつもよりも2時間近く遅い時間。
千秋ちゃんといる時間の増えた幸せな1週間が過ぎ去って、また土曜日が戻ってきた。
「あら、拓海くんお早う。いつも千秋がお世話になってごめんなさいね」
「いえ、そんなことないです。むしろ僕の方が千秋ちゃんには助けられてばかりですから」
「まぁ……ほんとに拓海くんはいい子ね。せっかくお隣なんだからもっと頼っていいのよ?」
「ありがとうございます。でもほんとに、千秋ちゃんからは充分すぎるほどのものを貰っているので」
そんなやり取りをしていると、褒められた恥ずかしさからか貶された悔しさからか、千秋ちゃんが早く上がれと視線で訴えてくる。彼の母親に軽く会釈をして階段を上り、僕は過去に行き慣れた扉の前へと立った。
「入らないのか?」
中学時代に逃げ込んで、最近は行くのを躊躇っていた場所。千秋ちゃんの家はあったかくて、色んなものが欲しくなる。
優しい親の愛情。
誰かの作ってくれたご飯。
そして、千秋ちゃん自身。
「入るよ」
千秋ちゃんが開けた扉に吸い込まれるようにして中に入ると、ふわっと漂う彼の香り。バレないようにゆっくりと深呼吸をして、肺の空気を入れ換える。
「懐かしいね」
基本的な物の配置や、全体の雰囲気は変わらないまま。でもキャラクターものだった時計は、シンプルな文字盤だけのものに変わっている。よくよく見ると本棚の中身も変わっていて、学校でよく聞く名前の漫画が並べられていた。
「最近は拓海の家に行ってばっかりだったからな」
「……うん」
くるりと部屋を見回して、もう一度深く息を吸う。浄化されると感じていた千秋ちゃんの家の気が、今日はよく自分の身体に馴染むような気がした。
2人で机を挟んで座れば、自然と視線がぶつかり合う。千秋ちゃんの視線と香りと。全てに包まれる感覚が心地よくて逸らさずにいれば、彼が先に音を上げた。
「えっと、なんか飲む?」
「大丈夫」
「……ゲームでもするか?」
本当はこのままでいたいけれど、気をそらそうと必死な千秋ちゃんが可哀想になって頷く。それなのにいざコントローラーを差し出されると、彼の視線がテレビに向かうのを寂しいと思ってしまう。
2人でいる時間は、まだ始まったばかりなのに。
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