72 / 96

第73話

「ごめんなさい、まだ持っていた合鍵を使って……」 「……ううん」 何しに来たんだ。 俺を置いて、新しい家族と幸せに暮らしていた母さんがいる。 何年も会っていないのに不思議と分かる懐かしさ。 少し皺が増えて、肌も白くなった。髪の毛もあの頃より色が薄くなっただろうか。 でも、変わらない。優しい笑みも、声も。 辺りを見回すと、ゴミが片付いていた。床も綺麗に拭かれていて殴られる前と同じようだった。 「この家、売るんでしょう?最後に見ておこうと思って来たのだけれどあの人、片付けも出来ないのね……凄く驚いた」 「………」 「一人だけ逃げて、ごめんなさい。 本当は貴方も連れていこうとしたの、でも………あの人の血が流れてる貴方の成長を近くで見るのが、怖くなったの…………。 息子にぶたれるかもしれない、蹴られるかもしれない。 そう考えてるうちに、貴方を置いていってしまった」 語る母の肩は、小刻みに震えていた。 ずっと、俺が嫌いだから見捨てたんだと思ってた。 本当の心を言ってもらえて、良かった。 「……母さん、俺は母さんの子で良かったよ。 嬉しくはないだろうけど白い肌でいられるし、頭だって数学とかよく満点取れる。 父さんに殴られるのは嫌だったけど、おかげで好きな人と関わる事も出来た」 「綺月……」 「ありがとう、俺を産んでくれて。 新しい家族で、幸せになってね」 「……っ」 俺を抱きしめた母さんの身体は、温かった。 懐かしい匂いと懐かしい温もりに顔をうずめる。 会わない方がいいと思ってたけど、最後に会えてよかったのかもしれない。 さよなら、母さん。 どうかお元気で。

ともだちにシェアしよう!