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毛糸

 真紅に染まったモミジの葉はすべて木の根元に落ちて、今朝は窓ガラスに霜が付いた。  晴れた日が続き、乾いた冷たい風が庭を吹き抜けていく。  二人は茶の間の掘り炬燵に足を入れ、それぞれ静かに自分の手元を見ていた。  舟而は鼻の上に眼鏡を乗せ、太い竹の棒を一本ずつ左右の手に握り、白い毛糸を棒の先に絡げては、編み目を一つずつ左から右へ移していく。一目すくう度に右肘は大きく上下し、呼吸は止まって、一段編み終えると大きく深呼吸した。 「やあ、原稿用紙のマス目を埋めていく方が、つくづく楽だと思うよ」 「表編みと裏編みの繰り返しだけですから、なかなか飽きますでしょ。私なんかそのくらい頭を使わずに、手先だけでできることのほうが楽ですけれど」 ふふふっと笑う白帆も最近は眼鏡を使い始めて、二人は互いにぐっと顎を引き、眼鏡の上から上目遣いに相手を見て笑う。 「でも、もう少しで出来上がりじゃありませんか」 白帆が舟而の膝の上に手を伸ばした。舟而はその手をそっと掴む。 「頼むから眼鏡を外して、うっすら見てくれ」  首を振り振り言う姿に、白帆は小さく笑い、眼鏡を頭の上に載せてから、改めて編まれた白い毛糸を見るが、少し眼を眇め、自分の手に取った編地を顔から遠ざける。 「そんなにご謙遜なさらなくても、きれいに編めてらっしゃいますよ。出来上がりが楽しみです」 「本当かい? お前さんは、僕に甘いからなぁ……」 舟而も銀色に光る髪の上へ眼鏡を押し上げ、白帆とは逆にぐっと顔を近づけて、改めて自分の編み目を眺める。 「うーん、まぁ初めて挑戦したにしては、というところだろうかね」 「師匠の教え方がいいんですから、大丈夫ですよ」 編み物の師匠である白帆は笑って、編みかけのチョッキの身頃を舟而の背中に当て、大きさを確かめる。 「同じ毛糸から出来上がっているとは思えないね」  舟而が自分の背中を振り返って口を突き出すと、白帆はその唇へ自分の唇をちょっと触れさせた。 「私の大切な先生に、そんな意地悪をおっしゃらないで下さいまし」 「そう言われたら黙るしかないけれど。うーん……」  右に左に蛇行するマフラーを顔の前に掲げて舟而はまた口を突き出す。 「濡らした手拭いを乗せて火のしをあてると、毛糸がふっくらして編み目も揃いますから」 白帆がまた突き出された口にキスをすると、舟而は白帆の肩をぐっと抱き寄せ、強く自分の唇を押し付けた。 「その言葉を信じて、あと少し頑張ることにするよ」  相変わらずたどたどしい手つきの舟而の隣で、白帆は脇を締めたまま、編み棒の先を小さく動かすだけで、次から次へ毛糸が右の編み棒に溜まっていく。  あっという間に身頃を編み終えて、編み棒を綴じ針に持ちかえると、前後の身頃を中表(なかおもて)に重ねて、脇をすくい綴じできれいに綴じた。  舟而はその頃、ようやく白帆の首に巻くことができる長さへ辿り着き、大きく息を吐いた。 「ご苦労様でござんした」 「ああ。『編み物をしている』と、ト書きに書くたった一行が、こんなに大変なものだとは思わなかったよ」 舟而は仰向けに倒れ、窓の外を見て慌てて起き上がった。 「しまった、もうこんな時間か。ケーキを買いに行かないと」 「うにゃっ」 「ごめん、餡子。いたのか」  舟而が炬燵布団を持ち上げて中を覗くと、世代交代しても相変わらずさらし餡のような色をした猫の餡子が、のっそりと炬燵の中から出てきた。 「あら餡子。いつの間に来ていたの」 当代餡子はあんころ餅のようにたっぷりした身体をしていて、どうやら機敏さに欠けるらしく、ちょいちょい今のような人の足との衝突事故を起こす。  餡子は大きな欠伸をして、上体をかがめてお尻を突き出し、次に上体を前へ突き出して左右の足を一本ずつ交互に後ろへ伸ばすと、茶の間を出て台所へ行き、勝手口の扉を引っ掻いた。 「隣へ帰るのかい。僕も一緒に出るよ、ちょっと待ってくれ」 舟而は傍らに置いてあった綿入れ半纏を着て、腹の前で紐を結びながら勝手口の下駄に足をつっかける。  扉を開けると餡子は悠々と歩いて銀杏家へ帰っていき、舟而は街灯が光る道を走った。  上野駅ではなく、鶯谷(うぐいすだに)駅に向けて走るのは、白帆の好きな洋菓子店がその駅前にあるからだ。  店はもうシャッターを下ろし始めていて、舟而は「待ってくれ!」と店員を大声で呼び止め、店の中へ駆け込んだ。 「はあっ、はあっ。……ケーキ、ケーキをくれたまえ。あの、丸いやつ!」 膝に手をつきながら、ガラスケースの中に一つだけ残っていた丸いケーキを指さすと、店員はすぐに箱へ入れてくれた。 「やれやれ。昔はもう少し早く走れたような気がするんだけどな。走っても走っても前に進まないんだから参るよ」 夜道を歩いて家に戻ると、白帆がアイロンを使っていた。  白帆が編んだチョッキは、濡らした手拭いを重ねた上からアイロンを掛けると、縦横の編み目が整列し、舟而の身体にぴたりの形になった。  舟而が編んだマフラーも、白帆がピンを打って形を整えながらアイロンをあててくれたので、だいぶ行儀よくはなったが、それでも目の大きさの違いは誤魔化しきれないようだった。 「……やっぱりデパートで買う方がよかった」 「そうですか? 売り物のマフラーよりずっと温かですよ」  白帆はマフラーを首に巻いて微笑む。 「頼むから、コートを着る日に、その内側によく押し込んで使ってくれ」 舟而の言葉に白帆は口を丸く開けて笑った。  夕食を終えて、冷蔵庫にしまっておいたケーキの箱を取り出し、切り分けるためにその箱を開けると、白帆はまた口を丸く開けて笑った。 「私、とても偉い人になっちまいました」  舟而も台所へ出て見ると、白帆の手元のケーキには、ウエハースで作った家とモミノキが乗っかり、桃色に染めたクリームでMerry X’masと書かれていた。  今日は一二月二五日。昨日まで街はクリスマスの飾り付けで華やかで、今日は潮が引いたように静かな一日だったのだ。 「ごめん。毎年気を付けていたのに……。ああ、今年は何もかも上手くいかないな!」 舟而はまた膝に手をついて項垂れた。 「あら、よろしいじゃありませんか。私、今年のお誕生日は絶対に忘れません。マフラーも、ケーキも、先生の心尽くしです」 「来年はもっとすらりとしたやり方で心を尽くすよ」 項垂れた舟而の頭を覆う銀色の髪を見て白帆は小さく微笑むと、ケーキの上に絞り出されたバタークリームを指先で少し掬って、舟而の顔を覗き込み、その唇にちょんとつけた。  「ねぇ先生、来年のことは来年考えることにして、早く甘いクリームを私に食べさせてくださいまし」 舟而は苦笑して白帆の肩を抱き、自分の唇を白帆に与えた。 「白帆、誕生日おめでとう」 「ありがとうございます。来年も、再来年も、ずっとずっとお祝いしてくださいましね」  抱き着く白帆を抱き締めて、舟而は黒く染めた髪に頬を擦りつけた。 「ああ。来年も、再来年も、ずっとずっと祝ってやるよ。約束する」  蛇口から落ちた一滴の水が、蛍光灯の光を受けてきらりと光った。

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