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冬扇幻談-とうせんげんだん-(1)

「やあ、三十(さとう)さん、むにさん。お待ち致しておりました」  二人が脱いだコートとショールを腕に掛け、肩から掛けたハンドバッグの紐が滑り落ちてきそうになるのに気を使いながら、受付で名前を書き、取り置いてもらったチケットを受け取っていると、作家の渡辺舟而(しゅうじ)が現れた。  舟而はロマンスグレーという言葉を体現した銀髪で、年齢を感じさせないしっかりした身体にツイードの三つ揃いを着て現れた。 「ごきげんよう」  三十はパーマネントをあてたショートヘアを天鵞絨(ビロード)の手袋を嵌めた指先で無意識に直し、むにはパニエで膨らませた黒い落下傘型ワンピースの裾を黒繻子の手袋を嵌めた手で無意識に調えてから挨拶をした。  舟而は二人の姿を見て目を細める。 「お二人とも素敵ですね。三十さんの水色のジャケットとタイトスカートのスーツは、大人の女性らしさを引き出すし、むにさんの襟と袖に白いヌメがついた黒いワンピースは高貴さを引き出す。どちらもとてもよくお似合いだ。……失礼。僕なりに女性を褒めたつもりなのですが、また身に着けていらっしゃるものしか褒めていない。だから僕は白帆に怒られるんです。ええと……、そう。『そういったファッションを着こなす、お二人のセンスは素晴らしい!』そう言うように白帆から教わりました。褒められた気分になっていただけましたか?」 銀髪をさらっと揺らして問い掛けられても、ただ白帆に仕込まれた台詞をオウムのように口にされたところで、褒められた気分になるのは難しい。  二人はハンカチで口元を隠しながら曖昧に微笑んだ。 「さあ、お席へご案内致しましょう。中央より少し上手寄りの席ですが、今日の演目では、この席が一番、白帆が美しく見えます。僕がゲネプロのときに客席中を歩き回って見つけた席です」  足音を吸い取るロビーの絨毯の上を、二足のハイヒールと一足の革靴で歩き、案内係の女性を手で断って、舟而がうやうやしく重いドアを開けて二人を客席に案内する。 「この席です、どうぞ」 ニッコリ笑って座席を手で示し、その隣へ舟而は座った。 「今日は僕も座って観ようと思います。いつも二階席から見下ろしてばかりで偉そうですから、たまには一階席から見上げてやらないと」  隣に座った舟而からは、よく日に当てた布団のような温かな匂いがした。 「今日の演目は『冬扇幻談(とうせんげんだん)』。白帆が扇子に立派な書と絵を頂いたそうでありがとうございました。冬なのに家の中で広げてぱたぱたとやってまして、面白かったものですから」  幕が上がるのを待つ高揚感なのか、一方的によく喋って、そのうちに一ベルが鳴り、二ベルが鳴った。 「劇場は空気が悪いですからどうぞ」 ベルの音と入れ違いに客席が闇に沈んでいく中、舟而はベストのポケットからキャラメルの箱を取り出し、スライドさせて差し出した。 「ありがとうございます。一粒いただきます」 「いつもの白帆ちゃんのキャラメルですね」 蝋引きの紙を剥いて甘い箱を口の中へ入れる。キャラメルは舌に痺れるほどの甘さを与え、柔らかく溶けた。  緞帳がゆっくり上がると、既に舞台の上は明るく、紫色の縞の着物を着た白帆が家の中で長火鉢の縁に肘をつき、煙管を吸っている。  やや着物の内側で膝を開いて身体の幅を出し、恰幅がいいように見せながら横座りをして、爪先まで伸ばせば美しい足を、わざと足首を直角に曲げ、足の指も丸めずにいて、若さや可憐さと引き換えに手に入れた年増の貫禄が出ていた。  そこへシンプルな桃色のワンピースを来た若い娘が入ってくる。 「おばさま、見て! あちら様から扇子を頂いたの。扇屋の嫁になるんだから、ひとついい物を持って、目を養いなさいって」 客席の隅々にまで立派な扇であることが分かるように、広げた扇子は金の地に咲き誇る桜と、色づいた紅葉を描いてあった。 「はんっ。そんなキンキンギラギラした扇子。何の骨だか、誰の紙だか知らないけど、冬に扇子を贈るだなんて、センスがないね!」  客席から失笑が漏れる中、白帆は煙管の先を打ち付けて灰を落とし、火鉢の縁に両手をついてどっこいしょと立ち上がり、こぶしでとんとんと叩きながらゆっくり腰を伸ばす。 「おつれあいからの贈り物っていうのはね、そんなに派手に振り回すもんじゃないよ。そっと手渡されて、そっと受け取って胸に抱くものだよ。最近の若い娘は情緒がないねぇ」 「おばさまは古いんだわ。いただいたものは賑やかに喜ぶ姿を見せてこそ、可愛らしい女と思ってもらえるのよ」 娘はぽんぽんと言葉を投げて口ごたえし、白帆は両手を腰にあてて伸ばしながら、黙って聞き流した。 「聞いていらっしゃるの、おばさま?」 「うるさい子だね。ようやく年を取って耳が遠くなったんだよ。聞きたくない話は聞かなくて済むようになったんだから、その耳に無理矢理に捻じ込んで来るんじゃないの」  娘が頬を膨らませ、肩を竦めたとき、舞台下手側から声がした。 「ごめんください、呉服屋です」 「ふふっ、打ち掛けの仮縫いができたんだわ! はあい、ただいま!」 娘は扇子を長火鉢の縁に置いたまま、くるぶしで三つ折りにした靴下を履いた足で、部屋を出て行った。  白帆は振り返ってその姿を見送ると、また長火鉢の前へ戻る。よっこらしょと座って、土瓶へ手を伸ばそうとして、置き去りになった扇子に気付いた。  一度は目を逸らしたが、また目玉だけを動かし、次第にあごを向け、肩を向け、覗き込むように頭を下げ、また目を逸らす。しかしちらっちらっと視線を送り、スッポンのように首を伸ばして周囲を見回すと、扇子に向けて手を伸ばす。 「どうぞ、奥へご案内しますわ!」 娘の声が聞こえ、白帆は慌てて手を引っ込めて、鉄瓶の銅に手が触れて飛びのき、自分の手にふうふうと息を吹きかける。客席からは笑いが起きた。  廊下を通る娘と呉服屋の姿を見送ると、白帆は立ち上がって廊下の左右を見てから、そっとそっと襖を閉め、袖の中に手を仕舞うと飛び跳ねるように歩いて扇子の前に座る。両手を擦り合わせ、まずは人差し指でちょっと突く。  胸の前で手を合わせ、もう一度、人差し指で突き、引っ込め、もう一度突いて、引っ込め、次第に大胆になって、とうとう扇子を自分の手に乗せ、するすると広げた。   「ふふ。懐かしくなっちまうわね」 白帆は右手に開いた扇子を持って、まっすぐ前へ向けると、そのままどこにも手をつかず、掛け声も掛けずに、真上から糸につられるように静かに立ち上がった。

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