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冬扇幻談-とうせんげんだん-(2)
「さくら、さくら……」
白帆は楽しそうに歌いながら、広げた扇子の端と端を持って左右交互に足を出す。
首を傾げ、肩を下げ、しかしその動きは安定した腰を過ぎると反対側へ流れて、まるで白帆の身体そのものが右へ左へひらりひらりと舞い落ちて行く桜の花弁のようだった。
「あら、結構覚えてるものね。懐かしい」
流れ始めた唄と三味線、琴、鼓の豪華な劇伴に合わせて、白帆は本格的に踊り始める。
「やよいのそらは、みわたすかぎり」
持っている扇はたちまち淡い春の空になって白帆の頭上へ掲げられ、白帆は目を細めてその空を見上げる。長火鉢が置かれた冬の舞台だが、白帆の周りだけ黄色や紫の花が足元に咲く春のように見えた。
「かすみか、くもか。あさひににおう」
白帆がゆっくり上を見れば、そこには水色の空と咲き誇る桜の花を照らす黄金色の朝日が見え、温められ始めた朝の空気が胸に沁みる。
「すてきねぇ。さすが白帆ちゃんだわ」
三十が呟くのに頷いて、むにが舟而の姿を覗き見ると、舟而は意外なことにまったく表情を緩めることなく、腕を組んで、まるで何かを見極めようとするような厳しい目で白帆を見ていた。
さらには、客席のほとんどの人が白帆に注目しているだろうに、舟而は舞台の下手から上手まで、板からライトの上のバトンまで、くまなく目を動かし、背もたれに寄り掛かって全体を見渡す。さらには客席に座る人の表情まで、厳しい顔のままで見ていた。
強く瞬きをしたむにの視線に気付くと、舟而は小さく頷いた。
「悪くない出だしです」
その言葉が聞こえた三十もにこやかに頷いた。
白帆が踊りを終えると、紋付き袴姿の男が拍手しながら現れた。
「やあ、素晴らしい。この傘は私が作りました。よろしければ今度『鷺娘』を踊るときに、使っていただけませんか」
白帆は両手で傘を受け取ると、ぎゅっと胸に抱いて身体ごと相手から顔を逸らしながらも、しっかりと頷く。そこへ三下がりのしっとりした曲が流れ始め、いつの間にか白帆の足下に控えていた黒衣たちの手によって、白帆の着物は白一色になり、頭には綿帽子が乗せられた。
鷺娘の衣装になった白帆は、曲に合わせて傘をかたげ、ちらつく雪の中で静かに踊る。落とされた照明、白帆にあてられるスポットライト、その中で静かに踊る姿を見ると、客席の空気まで冷えたように感じ、白帆の細い手を、今すぐ両手で包んで温めてやりたいような気持ちになった。
舞台の上手側で白帆の踊りを静かに見ていた、紋付き袴姿の男がゆっくり白帆へ歩み寄った。
二つあったスポットライトは一つに重なり、男は傘を持つ白帆の手を両手で包む。
「私のところへ、来てくださいませんか」
「ええ、参ります」
二人の姿は紗の傘の向こう側で重なり、舞台が明るくなると祝言が始まった。
金屏風の前に二人が座ると拍手が沸き起こり、三々九度の盃が交わされる。双方の親戚が並び、和やかに宴は進む。次第に歌い出す人、踊り出す人が出てきて、拍手喝さい、にぎやかになった。
「あーら、えっさっさー!」
番頭の男性が部屋の中央へ躍り出たとき、緊迫するサイレンが鳴る。
「防空壕へ! 防空壕へ!」
部屋の明かりが消され、人々は部屋からまろび出て行く。
白帆も男と介添えの女性に手を取られ、花嫁姿のまま防空壕へ身体を押し込んだ。
「大丈夫か」
「はい。少々驚きましたけど」
「とうとう、東京にもやって来たか」
男は白帆の肩をしっかり抱いた。
爆撃の音が止んで明るくなると、白帆は『武運長久』と書かれたさらしと赤い糸を通した縫い針を持ち、『千人針』のたすきを掛けて立っていた。
「千人針、お願い致します」
声を掛けると、数名の人が足を止め、さらしに赤い糸で玉止めを作ってくれる。布は引っ張り合われていた。
「私、寅年です。お手伝いしましょう」
「ああ、ありがとうございます。お願い致します」
寅年の女性は自分の年齢の数だけ玉止めを作ってくれた。
「ご親切に、感謝いたします」
「どうぞお大切にね。お身内の方?」
「はい。主人が……」
声を震わせる白帆に、寅年生まれの女性は強い笑顔を向けた。
「ご武運をお祈りいたします。どうぞしっかりね。私の主人も、南沙へ行ってます。手紙が来るわ。大丈夫」
「はい……、はい……」
俯く白帆に、女性は強い声で囁いた。
「泣いちゃだめよ! 自警団だわ」
木刀を持ったおやじたちが数名で徒党を組み、声高に何かを叫びながら歩いてくる。集まっていた女たちは押し黙り、視線をそらしたが、おやじたちのうちの一人が白帆に目を留めた。
「こんなお国の一大事に、ずいぶん派手な身なりじゃねぇか!」
木刀の先で頭を小突かれ、はっと顔を上げる。
白帆の頭にはピスタチオグリーンの鮮やかな布が巻かれていた。
「今がどういうときかわかってんのか! 女、不敬だぞ! 外せ!」
茶ばんだ手が伸びてくるのを、白帆はすんでのところでかわした。
「避けるんじゃねぇ!」
「やめてください! この布は、明治天皇様の写真をお包みしていたものです! 引っ越しの時に明治天皇様の写真をお包みして、お運びしたんです。そのお力を頂くために、この布を頭に巻いてます。自分の気持ちを引き締めるのにも、防火訓練で気合を入れるにも、ちょうどいいんです。皆様にもお勧めしたいくらいですわ!」
胸に晒しの布を抱き、腰は引けて、背中を丸めながら白帆は叫んだ。
「ふ、ふん。……行くぞ」
鼻白んだおやじたちは歩き去り、白帆は大きく深呼吸した。
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