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冬扇幻談-とうせんげんだん-(3)
電灯の周りを風呂敷で覆って、ちゃぶ台の上だけがぼんやりと丸く明るい部屋の中で、国民服を着ている男が持つ茶碗へ、白帆は静かに酒を注ぐ。
「この配給の酒を飲んだら、もう後戻りはできない。そんな気がするな」
男の穏やかな笑みから、白帆は顔を逸らし、徳利を胸に抱いて背中を丸めた。
「門出を祝って、一ツ踊ってくれないか」
白帆は小さく肩を揺らしてから、ゆっくりと男を見た。
「お前のために作った、雲錦手のあの扇子は、もうどこかへと流れてしまったかも知れないが……」
「いいえ、ございます。ちゃんと、ちゃんと、ございます」
白帆は立ち上がり箪笥へ駆け寄ると、軽く開く抽斗から変色した和紙に包まれた扇子を取り出した。
「『さくらさくら』がいい。お前が空を見上げるときの、あの仕草が好きなんだ」
白帆は扇子を胸に抱き、畳に膝をついたまま、しばらく躊躇っていたが、男にもう一度「頼むよ」と促され、小さく頷いた。
「こんなことしかできなくて。冬の扇と同じ、何の足しにもならないことしか……」
「食い物は消える。でもお前の踊りは目に焼き付き、私が散るまで心の中にあり続ける。冬だって、桜の花を感じることができるんだ」
「一緒に飲まないか」
白帆は最初はゆっくり、次にしっかりはっきりと首を横に振った。
「い、いえ……。あなたのお召し料です」
「いいじゃないか。祝言の日のように、盃を交わそう」
ぐっと手首を掴んで引っ張られ、白帆は男の腕の中へ倒れていた。さあと口元へ茶碗を出され、白帆は茶碗を持つ男の手に自分の手をおそるおそる添えて、ゆっくり三回、唇を触れさせ、それきり白帆は懐から出した手拭いを噛んで声を殺し、両手で顔を覆って泣いた。
男も白帆の肩を抱いたまま歯を食いしばり、こらえきれずにそのまま嗚咽を漏らして、白帆の肩をきつく抱いた。二人の嗚咽だけが客席へ響き、遠くに空襲警報のサイレンが聴こえる中、舞台は少しずつ暗くなっていった。
「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」
暗転が終わって明るくなったとき、男は白地に赤い日の丸と、黒々とした文字で武運長久と書かれたたすきを掛けていた。
「皆様、行って参ります。お国のために戦って参ります!」
男は集まった人たちに、大きな声で言った。
「もう一度、万歳三唱だ!」
集まった人の中から声が上がった。
「ばんざーい! ばんざーい! ばんざーい!」
皆が両手を挙げて唱和する中、白帆だけは両手で自分が穿いているもんぺを、指の色が真っ白になるほどきつく掴んで、深く、深く、頭を下げた。万歳はしなかった。
「非国民だったかも知れません。でもね、自分の亭主が負けると分かっている戦争へ、死にに行くのを見送るんです。万歳なんて、言えませんでしたよ……」
白帆は雪が降り積もる庭で、縁側に座る男に話し掛ける。
男は何も言わずににこにこしていた。
「紙切れ一枚、死んだと言われましてもね。……お弔いの気持ちで、あの扇子は菩提寺に納めました。再婚する気持ちにもなれず、ただなんとなく踊りを踊り続けて、ここまで来ちまいましたよ」
白帆が冬の空のような鈍色の綿入れ半纏を羽織り、背中を丸め、指先ですっと髪を撫でるとほつれて、一気にお婆さんの姿へ戻った。
姿勢と仕草だけで歳月の変化を表す技に人々が目を奪われている間に、気づけば庭の桜の木には薄紅の花が咲き誇っていた。
そして桜の花を見ていた観客が白帆の存在を思い出して目を戻すと、白帆は柱に寄り掛かり、だらりと手を垂らして目を閉じていた。
美しい扇子は庭に落ち、そこへ若い娘の声が響く。
「戦争なんて古い話よ。年寄りはすぐそう言うから嫌んなっちゃうわ。レコードを聴くほうが、よっぽど建設的よ」
甘いジャズの調べが流れる中、若い娘が登場し、落ちた扇子を拾い上げる。
「やぁねえ、おば様ったらこんなところで寝ちゃったのぉ?」
目の前の結婚に華やいだ娘はそれだけ言うと、家の中へ戻っていってしまい、老いた白帆だけが残されて終演となった。
「若い人にとっては、年寄りの思い出など冬の扇のようなもの。それでも扇ぎたい気持ちになるのは、白帆も僕も歳をとったからかも知れません」
舟而は片頬を上げて笑うと、二人を楽屋へ案内した。
銀杏鶴が飛翔する藍色の地へ銀杏白帆丈江と書かれた楽屋のれんをくぐる。
丸くて大きな電球に囲まれ、鏡台に向かっていた白帆が振り返った。
かつらは外され、頭には羽二重を巻いただけ、衣装も浴衣に替えられていた。
「まぁまぁ三十さんもむにさんも、お疲れ様でござんした。どうぞお座布団をあててくださいまし。これ、到来物ですけどどうぞ」
菓子鉢の蓋を開けてぼうろを差し出し、さらに
「この部屋、暑くありませんか。お顔をするのに電球を使ったり、衣装も重ねて来ますでしょう」
と団扇を差し出す。
「お二人は衣装は着ていないよ」
舟而が笑えば、今度は手炙りを手繰り寄せて二人の前に差し出した。
「少しは落ち着きなさい」
白帆は小さく舌を出して肩を竦めた。
「私ったらついあれもこれもと思っちまって、先生に怒られるんです。下町生まれはせっかちでいけませんね」
そう言いながらも白帆は忙しなく弟子が持ってきた茶を勧め、配り物の手拭いと扇子を差し出し、にこやかに笑う。
「舞台の上からお二人の姿がよく見えました。あすこが一番、視線が行く場所なんです。三十さんとむにさんが観ていて下さるって思うと、芝居にも熱が入って、今日は反省するところが少なく済んだように思います。舞台にいますと、突然、この世に自分が一人っきりなんじゃないかって思うことがあるんです。そんなときにお客席に皆様のお顔があるとほっと致します。拍手をいただきますとね、本当に嬉しゅうございます」
舞台がはねた興奮のまま一気に話す姿は子供のようにも見える。
「白帆、話はあとにして、顔を落としなさい。予約の時間に間に合わなくなる」
舟而が窘めると白帆は楽屋の掛け時計を見て、失礼しますと鏡台に向かった。
白帆の背を見守りながら舟而は目を細め、その笑顔のまま三十とむにを見た。
「僕たちはいつまでも相変わらずです。最近、白帆が作るコロッケの次に美味しいコロッケを出すレストランを見つけました。白帆の支度が済んだら参りましょう。積もる話も、思い出話も、たくさんしようじゃありませんか」
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