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第124話-入学編-

「如月ーっ! せんせーっ! ハッピーバレンタイーン!」 研究室のドアを開けた遥は、ダッフルコートを着て、巻きつけたロングマフラーの端をふわふわと揺らしながら、ムートンブーツを履いた足でるんたった、るんたったと歩いてくると、ぴょこんとデスクの上に座った。 「ようやく先生と呼ぶ気になったか」  如月は、ノートパソコンに向かって資料を整理しながら、天地幅の狭いスクエアフレームメガネの奥の目を細める。 「せんせーっ!」 遥は高々と右手を挙げた。 「だから何だ。話ぐらいは聞いてやる」 「だからせんせーなんだってば。学務課ってところからお手紙が来たのん。遥ちゃんは入学生総代で、入学式の日にせんせーってするんですって」 話しながらマフラーをぐるぐる外し、内ポケットに筆記体でR.Watanabeと刺繍されたダッフルコートを脱いで、静電気を帯びたミルクティ色の巻き髪を振る。 「入学生宣誓と言いたいのか」 「そうなのん! でもでも稜而が、運動会の『せんせーっ!』とはやり方が違うよって。和紙に筆ペンで宣誓文を書いて読むんだよって教えてくれたのん。昔のお手紙みたい! ロマンチックよねー!」 「どうだか」 「今日は学務課の課長さんに、原稿の添削をしてもらいに来たのよー」 「わざわざ?」 「遠くに住んでる場合はメールと郵便だって。でも遥ちゃんは近いから、『はるか、行きまーす!』って言って、がたんごとーんって来ちゃった。♪いま、はるかきてー、きみーは、うれしくーなったー、きのうよりー、ずっとー、たのしくーなったー♪」 遥は満面の笑みを浮かべ、如月に両手を向けて歌う。 「別に嬉しくも楽しくもない」  スキニージーンズを穿いた脚を開かせ、引き出しからタバコを取り出すと、ライターで火を着けた。 「ひねくれたことを言わないのんっ!」 ライターを奪い取ると、遥は研究室を出て行き、再びドアを開けるなり部屋の明かりを消した。 「♪ Joyeux anniversaire(ジョワイユーザーニヴェーセール)   Joyeux anniversaire(ジョワイユーザーニヴェーセール)   Happy Birthday Dear きさらーぎー!   Joyeux anniversaire(ジョワイユーザーニヴェーセール)♪」 遥の手には小さなチョコレートケーキがあり、3と8をかたどったロウソクに火がともっていた。 「さあ、願い事をしながら、一気に吹き消すのん!」  如月はわずかに目を見開いたが、顔の前に差し出されると、ふっと息を吹きかけて火を消した。 「お誕生日おめでとうなのん! これから一年も、いいこといっぱいなのよー!」 「なんで俺の誕生日を知ってる?」 「稜而が知ってたのん。稜而が『これでケーキを買って、如月と二人で、一緒に食べて』って、お金をくれたのん」 如月の目はほんの一瞬だけ遠くを見て、少しだけ表情が緩んだ。 「稜而にありがとうと言ってくれ」 「自分で言えばいいのん。連絡先知らないのん?」 遥はプラスチックのフォークを差し出しながら首を傾げた。 「お前から伝えてくれれば、それでいい」  如月はそう言うと、受け取ったフォークをチョコレートケーキに突き刺し、削り取って口に運んだ。遥もケーキを口に運び、口角についたチョコレートを舌先で舐めながら笑顔になった。 「うふーん、美味しいのん。いいお誕生日ねー!」 「如月ーっ! 入学ありがとうなのーん! ネクタイ結んでーっ!」 遥が桜色のネクタイを手に研究室へ乗り込むと、ちょうど如月がワイシャツの襟を立てて、ネクタイを結んでいた。  如月は髪を整え、カミソリをあてたばかりの肌は艶があり、体のラインに合ったスーツを皺なく着ている。 「朝からうるさいな。ネクタイ、結べないのか」 「あーん。いつも稜而が結んでくれて、遥ちゃんは、その輪っかをかぶってきゅってするだけなのん。今日は稜而が夜中にオンコールで呼ばれて、それっきり帰ってこなかったんだわー!」 磨かれた革靴で、るんたった、るんたったと研究室を進み、ぴょんっと机の上に座ると、膝のあいだから引き出しを引っ張り出して、如月のタバコを一本取り出し、唇に挟んだ。 「このタバコ、おっさんくさいのん。遥ちゃんは可愛らしく、一ミリのメンソールがいいのよー」 「てめぇで買え!」 「まぁ吸えなくもないから、許すけど」 ライターで火をつけ、気持ちよさそうに吸って、紫煙を吐き出す。 「お前、本当に稜而のパートナーなのか」 「もちろんなのーん。昨日もロマンチックで素敵な寝バックだったわーん。稜而の逞しい腰使いに翻弄されちゃったのんっ」 「左様で」 如月は足許の段ボール箱から缶コーヒーを取り出し、笑顔で手を出している遥の手に気づいてため息とともに乗せてやり、改めて自分の分を取り出してプルトップを引くと、また遥が手を出している。  遥は反対の手でこれ見よがしにタバコをふかしていて、如月はもう一つため息をつくと、開けた缶コーヒーと交換してやった。 「あの稜而が、よく我慢してるな」 「どの稜而か知らないけど、初日に病室のベッドで、遥ちゃんが大人のおもちゃをぶちまけた時点で、いろいろ諦めたんだと思うわー。夫婦って早く諦めるのが肝要っていうのん」 「渡辺稜而も地に落ちた」 「やーん! 稜而はこれからよー! 遥ちゃんはアゲケツマンなのん! 稜而を立身出世させるアゲケツマンレーッド! なんだから!」 指先にタバコを挟んだままヒーローのようなポーズを決める遥を、タバコを咥えながら鼻で笑う。 「お前なんかに持ち上げられなくても、医療法人社団渡学会の理事長は既定路線だろうが。稜而なら自分で布陣を作れる」 「どうかしらーん。案外、人嫌いよ、彼は。人当たりよくしてるけど、人懐っこくないのん」 遥は短くなったタバコをもう一口吸ってから、灰皿へ押しつけた。 「『自分一人でできることを、なんでわざわざ分担しなくちゃいけないの。お金と仕事を分かちあえってこと?』」 「なあに、それ?」 缶コーヒーを飲みながら、若草色の瞳を横へ動かす。 「学生時代の渡辺稜而の、チーム医療に対する見解」 「ふふっ。稜而らしいのん。愛してるわ」 缶コーヒーの最後の一滴に音を立てたキスをして啜ると、遥はナイロンのビジネスバッグから、ドラッグストアのビニール袋をごそっと取り出した。  ミントタブレットを口へ放り込み、ヘアフレグランススプレーを髪に振りまき、布用消臭スプレーをスーツに吹き掛けると、本棚の隣にある如月のスチールロッカーを開けて勝手にスプレーをしまい、ミントタブレットのケースと、一ミリのメンソールのタバコは机の引き出しに放り込んだ。 「自分のを持っているなら、そっちを吸えばいいだろう」 如月の言葉は無視して鏡に向かい、ワイシャツの襟を立てると、桜色のネクタイを引っ掛ける。 「如月、ネクタイの結び方、早くぅ!」 盛大なため息をつき、自分のネクタイを外して遥の隣に立つと、同じ鏡の中に如月も映った。 「プレーンノットという結び方を教えてやる。いいか、ネクタイの太いほうが大剣、細いほうが小剣。プレーンノットに結ぶときは、大剣側を長めにしろ。上に重ねて、小剣側に一周半。首元から出して、巻きつけてできたループの中に大剣を通す。以上だ」 「あら、簡単ですのん。これで遥ちゃんも立派な大学生よ! さて、遥ちゃんは行くわ。入学生総代は、予行演習があるので八時五〇分に学務課へ参集のことなのよー」 ナイロンのビジネスバッグを手に、研究室を出て行きかけて、遥は振り返った。 「ねぇ、如月。『入学おめでとう』って言って!」 「まだ式は終わってない。式が終わったら言ってやる」 「おーいえー!」 遥はウィンクを決めて、研究室のドアを閉めた。

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