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第127話

 遥は給湯室へ行き、スープに湯を注いで戻って来て、いつも通りに机の上に座ると、パリジャンサンドをかじりながら、如月が投げ出したノートを広げた。 「ふむふむ。面白い実験してるのん。これは生理学じゃなくて、発生学の分野になるのねー」 「今、生理学は華やかだよな」 「iPS細胞は画期的だったわー。それでも研究費に喘ぐなんて、日本の金銭感覚はどうかしてるのん。いずれほかの国にやられるわ」 「ノーベル賞をもらってもそんなもんだ。生殖発生なんて、推して知るべし」 「如月は、なんでこんな臨床教育中心の大学にいるのん? 東大にいればよかったんじゃないのん?」 「稜而から聞いてないのか? 東大は非常勤だった。それと比べたら、大学の専任教員という安定したポストはありがたい。肩書きを失ったら、調べ物一つにも苦労する」 如月の言葉に、遥ははあっと深いため息をついた。 「ごもっともなのん。遥ちゃんも十七歳の予備校生だった頃に、ちょっと調べ物がしたくて、とある大学の図書館へ行ったのん。でもでもすぐにつまみ出されたわ。ちくしょう。フランスの大学は退学したあとで、学籍がなかったから紹介状も手配できなくて。どんなきれい事を並べようとも、所属や肩書きって、ないよりあるほうがいいと思ったわー」 「その意見には賛同する」 ぽんぽん飛び交う会話をハシバミ色の目で追いつつ、パイプ椅子に座ってハンバーグ弁当を食べていた四月一日(わたぬき)を見て、如月がニヤリと笑った。 「こんなところまで連れてこられて、ご苦労だな」 「いえ、そんな。遥を見てるの、好きですし」 四月一日は俯いて、首を赤くしながら、蚊の鳴くような声で言った。 「なるほど」 遥は二人の会話を無視して、ばりばりとパリジャンサンドに噛みつき、パンくずをこぼしながら如月の実験ノートを繰って、手を止めた。 「ねぇ、如月。この手順で繰り返しても、発光しなくない?」 「しない。そう書いてあるだろ」 「これ、たぶんあと千回繰り返したって無理なのん」 「お前ならどうする?」 四川風麻婆丼を口に運びながら、遥をぎろりと睨め上げる。四月一日は思わずハンバーグの塊を飲み込んだが、遥はものともせず、パリジャンサンドを咀嚼する。 「ふうむ。遥ちゃんなら、試液AとBを逆の順番で使うかもかも。先にAを掛けたらコーティングしちゃうのん。あとからBを掛けたって、カプセルは発光しないと思うのよー」 「あ?」 如月は実験ノートを遥の手からひったくった。 「如月が先に試液Aを使いたい理由はわかるのん。ただ外側から使ってもダメじゃないかしらと思うのよ。そんなのが存在するかわかんないけど、超々極細の注射針で試液Aを注入できれば、如月の思い通りの結果になると思うのん。ハイホー教授の矮小リンゴの実験と同じと思うわー。♪はいほう、はいほう、ガスこうかん。けつえきのガスを、いざ、こうかん♪」 如月は四川風麻婆丼を掻き込み、立ち上がった。遥はのんびりパリジャンサンドを食べていたが、如月が急かす。 「お前も来い」 「もー、なんでも食べましょよく噛んでって習わなかったのーん?」 言いながら如月が飲み残した野菜ジュースでパリジャンサンドを飲み込み、手の甲でぐいっと口を拭く。不満そうな口ぶりのくせに、若草色の瞳は大きく見開かれ、キラキラと輝いていた。 「四月一日、これ、この研究室の鍵。食べ終わったら戸締まりして、この鍵を中央共同研究室まで持ってきてくださいませませなのよ。あでゅー」 研究室の鍵を勝手に如月のキーホルダーから外して四月一日の手に預けると、二人は研究室を出て、別フロアにある中央共同研究室へ移動した。 「うーん、逆にするとカプセルが溶けちゃうのん……。目的が台無しなんだわー」 紺色のジャケットを白衣に替えた遥は、如月の斜め後ろで腕を組み、モニター画面に向かって不服そうに唇を尖らせる。 「やっぱりコーティングはできていないとダメなんだ」 「そうなのねー。いい思いつきだと思ったんだけどー……」 黒くて丸いラボ用椅子に座り、ぐるんぐるん回り始めた遥は、不意に如月の腕に掴まって回転を止めた。 「ねぇ、如月。カプセルって本当に必要かしらん?」 「どういうことだ?」 「最終的な観察対象はカプセルじゃないのん。カプセルへ作用する神経が残れば、カプセルじゃなくてもいいのん。カプセルは溶かしちゃって、代わりに発光する何かを流し込んでもいいんじゃないかしらん!」 如月はまっすぐ遥の目を見て、真顔で言った。 「お前、最高にバカだな」 「よく言われるのん♡」 遥は顔を突き出してニッコリ笑った。 「キスしてやる」 両肩を掴まれ、左右の頬にキスされて、遥は眉尻を下げて笑いながら、白衣の両袖でキスされた場所を左右同時にごしごし擦った。 「あのう、如月先生の研究室の鍵を持ってきました……」 細く開けたドアの隙間から四月一日の声がして、遥は鍵を受け取りに行く。 「ありがとうなのん」 「そろそろ終わる? もしよかったら、駅まで一緒に……」 「遥、始めるぞ!」 如月の声が飛んできて、遥は振り返った。 「はいなのーん! ……ええと、なんだっけ?」 「なんでもない。実験、頑張って」 四月一日は笑顔を作り、如月のほうを手で示した。 「ありがとうなのん。火曜日のガイダンスでお会いしましょうなのよ。ごきげんよう!」 遥は白衣を翻し、大股で如月のもとへ歩いて行き、四月一日はそっとドアを閉めた。 「久しぶりの実験は、とってもとっても楽しかったわー! 再現実験は如月にお任せだけど、上手くいってるみたいなのん。何度かやって全部上手くいったら、製薬会社の研究所にいる先生にも再現実験をお願いして、それも上手くいったら、くるくるしてないお寿司をごちそうしてくれるって!」 バスタブの中で、遥は稜而の脚の間に座り、胸に寄りかかって、黄色いアヒルちゃんをびゅーんと泳がせた。 「入学生宣誓から、クラスコンパの提案、如月の実験の手伝いまで、楽しい一日だったみたいだね」 頬にキスされて、遥は嬉しそうな笑顔で頷き、振り返って稜而の頬へキスを返す。 「楽しい一日だったわー! 如月とは、遥ちゃんもいい友達になれそうなのん」 「よかった。如月は不器用なところがあるけど、いい奴だから」 稜而は目を弓形に細め、再び遥の頬へキスをした。 「クラスにも友だちもできたみたいだし、よかったね。ええと、シガツツイタチくんだっけ?」 稜而が名前を出すと、遥の表情が曇った。 「なにかあった?」 遥は首を横に振る。 「ないのん。なにもないのん。なにもないから、遥ちゃんは、ちょっぴりお困りなんだわ……」 「話して。ちゃんと聞くよ」 耳にキスしながら告げられて、遥は腹に回されている稜而の手に自分の手を重ねながら頷いた。 「遥ちゃん、うぬぼれやさんなのん。勘違いかも知れないんだわ。ううん、きっと勘違いなのん。でも。でも、四月一日からは、いつも『好きだよ』って言われてるみたいな、変な感じがするのん……。遥ちゃんには稜而がいて、死ぬまで稜而だけなのに。これから六年間同じクラスの四月一日から変な感じがするのは、お困りなのよー……。何か言われれば言えるけど、何もないのに『ぶっぶー』とは言えないのよ……」 「遥はモテそうなのに、今さら、そんなところでつまずくなんて。意外だったな」 稜而はふっと前髪を吹き上げるように息を吐いて笑った。 「モテないのん。遥ちゃんは芋虫よ。キャベツに出会う前日までの遥ちゃんは、青白くてひょろひょろした、ガリ勉メガネくんで、キャベツに出会う日を夢見て妄想とオナニーしかしてなかった、ただのはらぺこいもむしだったのん」 「つまり遥は、恋愛経験が少ないから、恋愛感情を向けられて戸惑ってるんだ?」 「恋愛感情かわからないけど……。でも、『あ、ガイジンだ!』とか、『コイツ面白いな』とかじゃない、真剣な感じがあって……」 稜而はうんうんと頷く。 「遥が感じ取っているとおり、四月一日くんは遥に恋愛感情を抱いているんだと思う。俺がいるって知っていても諦めきれないくらい、遥を見てときめいてるんだ、きっと。俺も遥のことを見るたびにときめくから、四月一日くんの気持ちが少しわかる気がする」 「困るのん……」 「四月一日くんを好きになってしまいそう?」 「ないわ! それは絶対にないのん! だから本当に迷惑で困るのよー! 稜而にいくら思われたって、それはもうハッピーで幸せで身も心も蕩けちゃって、天にも昇るような気持ちよ。でも、四月一日のご好意は、感じるたびに胃が漬物石になっちゃうのん。できれば会いたくないし、連絡ももらいたくないわ。せっかくの新しいスマホがえっちっちーなバイブレーションでぶーんって震えて、わくわくして画面を見たときに『Mon chou(私のキャベツ)』じゃなくて『WATANUKI』って通知されてるのなんて、本当に最低よっ!」 「ひどい……」 思わず口から漏れてしまった稜而の一言に、遥は天井に向かって口を開けた。 「あーん、あーん、わかってるのん。ごめんなさいなのよー! でもでも嫌なの、重いの、怖いの、目の上のこぶたさんなのよー」 ぽろぽろ涙をこぼし始めた遥を、稜而はそっと抱き締めた。 「入学初日からいろいろありすぎたかな。俺にいい考えがある。ベッドに行こう」

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