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第129話

 遥は如月研究室の机に座り、リュックサックから取り出した丼型の弁当箱を太腿の間に置く。 「今日のお弁当は、天丼、どーん! 天ぷら油が跳ねちゃいましたのーん!」 鵜のように首を伸ばし、絆創膏を貼った首筋を強調して見せる。 「天ぷらなんてよく作る気になるもんだ」 如月は四川風麻婆丼から顔を上げずに言う。 「如月は外食派なのん?」 遥は話しつつ、如月に向かって首筋の絆創膏を指先でとんとんと叩き始めた。 「納豆かけご飯が自炊に含まれるなら、自炊派だ」 如月は相変わらず四川風麻婆丼だけを見て食事を続ける。 「納豆かけご飯だって、立派なお料理ですのん。遥ちゃんは自炊派で、天ぷら油が跳ねちゃいましたのよ、ここ! ここ!」 如月は天地幅の狭いスクエアフレームのメガネ越しに、ちらりと遥を見て鼻で笑う。 「どうせ稜而の入れ知恵だろうが。『どんなに白々しくても、天ぷら油が跳ねたって言い張るんだよ』とでも言われたか」 「すごーい! さすがキスしちゃったお友達ですのん!」 「あ?」 「如月はキス魔なんですって? でもでも如月がキスしたところは、全部全部、遥ちゃんが上書きのキスをしてやりましたのよ! ふはははははは!」 「『遥に出会った瞬間に、過去は全部忘れた』」 「あーん、遥ちゃんは如月と出会っても、大切な思い出は忘れてないのん! パパが読んでくれた絵本は今でも宝物よー!」 「大切な思い出があるなら、覚えておけ」 如月は食べ終えた弁当ガラをビニール袋に放り込んで口を縛った。 「如月の大切な思い出は?」 遥の問いに、如月はメガネの内側の目を伏せた。 「……夏休みにオヤジと縁側で、スイカに塩を掛けて食ったこと、かな」 「ふふっ、素敵な思い出なのん。絵本とか、スイカとか、そういう普通の出来事が、実は大切な思い出になるんだと思うわー」 そう言って天丼を頬張る遥の口許を見ながら、如月は頷いた。 「普通、当たり前、日常。そういうぬるま湯があって、人はようやくチャレンジ精神や向上心が湧く。お前もしっかりぬるま湯に浸かっておけ」 「お、おーいえー?」 「稜而は、普通や当たり前や日常を身につけているし、その中で生きていける男だ。稜而から離れるなよ」 「もちろんなのん! 愛しいキャベツなのよ!」 「キャベツ?」 「フランス語で愛しい人に呼び掛ける、Mon chou(モン シュー)は、僕のキャベツって意味なのん。春のキャベツはふわふわで柔らかくて甘くて可愛くて食べちゃいたいのん。だから愛しい人をキャベツって呼ぶのよー」 「マイハニー、みたいなものか」 「おーいえー! 別に愛しいものだったら、なんでもいいのん。僕の天ぷら、僕の麻婆丼、僕の納豆、僕の回転寿司。……稜而は遥ちゃんのことを、Mon chenille(モン シュニーユ)、僕の芋虫って呼んでくれるわ。愛しいキャベツにくっつく、芋虫ちゃんなのよ♡」 「なるほど。しっかりキャベツにくっついて、離れるなよ、芋虫」  如月は遥の頭にぽんっと手をバウンドさせて、研究室を出て行った。 「あたりまえださんのクラッカーなのん」 「♪コンパをしようー! はりきって、のもうー! クラスメイトとっ、いざかやさんでっ、みりょくてきなっ、おとく、のみほーうだい♪」 ガイダンスを終え、居酒屋へ移動する道すがら、遥はるんたった、るんたったとスキップしながら、いい加減な歌を口ずさんだ。 「遥は歌を歌うのが好きなんだね」 四月一日に話し掛けられて、遥はるんたったを止め、普通に歩き始めた。 「小さい頃、おじいちゃん、おばあちゃんに混ざって、カラオケサークルに入ってたから」 「じゃあ、趣味はカラオケ? 今度一緒に……」 遥は首を左右に振る。 「今の趣味は茶道。御広敷(おひろしき)流っていう、小さな流派で、週に三日、親戚のミコ叔母さんに習ってるのん」 「週三日も?」 「ミコ叔母さんは駅ビルのカルチャースクールでも教えてるのん。そこに週一回行って、残り二回は自宅の茶室で習ってるのん。遥ちゃんが時間に余裕のある学生のうちに、基礎を叩き込んでくれるって。それから毎日晩ご飯と、朝はお弁当を作ってるから、なかなか忙しいんだわー」 「忙しそうだね……」 遥はがくがくと頷いて、さらにまくし立てた。 「これからは、アルバイトもしたいのん。でもでも夜は稜而と過ごしたいし、勉強する時間も必要だから、朝、フランス語会話の先生をしようと思ってますのん」 「はあ」 「ですから、申し訳ないけど、四月一日と遊ぶ時間は、たぶんないと思うんだわー」 「ああ、うん……」 遥はそれだけ言うと、居酒屋へ続く階段を駆け上る。  しかし、遥が案内された和室の隅に一番乗りで座れば、階段を歩いて上ってきた四月一日は自然、遥の隣に座り、遥は手招きで如月を呼んで上座に座らせて、三人は並んだ。  二〇人の学生と担任の如月が集まって、それぞれにオーダーした飲み物を持つ。如月は稜而が一滴も酒を飲まないと言ったとおり、ウーロン茶のグラスを手にして、立ち上がった。 「改めて、入学おめでとう。最初に言っておくが、担任なんていうのは、添え物の千切りキャベツだ。自分がメインであることを自覚し、主体性を持って自学自習に励め。こちらも千切りキャベツなりの応援はする。迷ったとき、困ったときはいつでも十二階給湯室隣の研究室へ来い。六年間、たくさんの学びを得られることを祈る。乾杯」 「カンパーイ! 如月もキャベツなのん」 遥はカンパリオレンジのグラスをウーロン茶のグラスにぶつけた。 「俺はキャベツじゃない、千切りキャベツだ。期待するな、ばーか」 「あーん、つれないのん! 却ってパッションに火がついちゃうわーん!」 遥が笑って、べえっと如月に向けて舌を出し、如月はその姿を横目で見て、自分も小さく舌を出す。 「仲がいいんだね」  四月一日はそっとウーロンハイに口をつけた。

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