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第131話
「本当にバカップルなんだわー……。こんなところでマジイキしちゃったのよ……」
個室から出て洗面台へ向かって一歩踏み出したとき、男子トイレのドアが開いて、四月一日が入って来た。
「遥。大丈夫? かなり飲んでたみたいだから」
「ああ……、へ、平気」
遥は顔を背け、洗面台の前に立った。
「でも、すごく顔が赤いよ。だいぶ酔いがまわってるんじゃない?」
鏡を見ると、頬だけでなく、額も、首筋も赤く火照り、瞳は潤んでいた。
「だ、大丈夫。酔ってない」
遥は洗面台にかがみこんで、冷たい水でざぶざぶと顔を洗い、ペーパータオルで押さえて水分を拭き取った。
手櫛で髪を梳かして頭を振るい、ゴージャスな巻き髪を復活させる。
「きれいな髪だね」
「ありがとう」
歩き出そうとして、放った直後特有の倦怠感でふらついた。
「つかまって。転んだらせっかくの美貌に傷がつくよ」
「ほ、本当に平気なのん」
振り切って座敷へ戻ったが、如月は別の学生と話しているし、双子のさつきとメイも少ない女子学生たちの輪の中で盛り上がっていた。
頭の中が妙に冷静になっていて、グラスを持って騒ぐ気にもなれず、閑散としている自分の席で壁に寄りかかり、カンパリオレンジを飲む。
「無理しないほうがいいよ」
四月一日が差し出すウーロン茶を断って、さらにカンパリオレンジを飲み続けた。
倦怠感でぼんやりし、眠気で小さくあくびが出ると、また四月一日が口を開く。
「ほら、やっぱり酔いが回ってるよ。眠くなってるんだろ?」
「大丈夫だってば。そうじゃないのん」
「そうじゃないって、じゃあ、なんなんだよ」
「ええと……。違うの、酔ってないのん」
「酔っ払いは、絶対に酔ってないって言うんだから」
「本当にそうじゃないのよー……」
遥はため息をついたが、その先の言葉は出てこなかった。
「遥ちゃん、顔が赤いよ」
「うんうん、遥ちゃん、顔が赤いね」
席に戻ってきたさつきとメイにも畳みかけられ、遥は力なく笑った。
「遥はこれ」
有無を言わさずトマトジュースを渡され、遥は一気に飲み干すと立ち上がった。
「一服してくる」
口の近くで人差し指と中指を揃えて動かして見せ、リュックサックのポケットからタバコとライターを取り出して、座敷を出た。
喫煙席の隅のテーブルで唇の真ん中にメンソールのタバコを咥え、ライターで火を着ける。深く肺まで吸い込み、天井に向かってゆっくり煙を吐き出していると、四月一日が遥を回り込み、目の前の椅子に座った。
「はい」
冷たい水のグラスを差し出された。
「ありがとう」
形式ばかりの礼を言って、遥は斜 に座り、片肘をテーブルに掛けて四月一日と目を合わせないようにしながらタバコをくゆらせた。
四月一日はテーブルの上で両手を組み、その手を黙って見下ろしていたが、唐突に口を開いた。
「リョージさんって言うの?」
「そう」
「素敵な人、なんだろうね。ちゃんと顔を見たことないけど」
遥はスマホを取り出し、Ryojiと名前をつけたフォルダを開いて差し出した。
「このフォルダの中なら、好きなの見ていいよ」
入院中にリハビリ公園で撮った写真から、車を運転している横顔、パリの街角や観光地、セーヌ川沿い、地下鉄で撮った写真、両親の結婚式の日の正装。温泉旅行での浴衣姿やおばあちゃんとの写真。何でもない日に、稜而が自宅でカレーを煮込んでいたり、テレビゲームに熱中していたり、読書していたりする何気ない姿、そしてシャッター音に気づいて遥に向けられた笑顔などが写っていた。
「…………そっか」
「うん」
それだけでまた沈黙の時間が流れ、遥は二本目に火を着けた。肺へ吸い込むこともせず、口の中に溜めるだけで白っぽい煙を吹き出す。
「たまに如月先生からも、リョージさんの名前って出るよな」
「如月の元教え子」
「この大学の卒業生なんだ?」
「いや、東大」
「でも如月先生って、この大学の出身だよね」
「そうなの? 知らない。東大で非常勤講師やってて、そのときの教え子ってことなんだと思うけど」
「遥は、如月先生の紹介で稜而さんと知り合ったの?」
遥は煙を吐きながら、小さくかぶりを振った。
「稜而とは、オレが事故に遭ったときの主治医として知り合った。如月は関係ない」
「リョージさんは、お医者さんなんだね。ここに白衣姿の写真もある」
「ん。整形外科医。本人はまだ駆け出しだって言ってるけど、オレは信頼してる」
四月一日はスマホの画面に指を滑らせ、稜而の非の打ち所のない爽やかな笑顔や、バラの花が咲き誇るような遥の笑顔を見ては、フリックする指を止めていた。
「いい笑顔だね」
「ん。毎日楽しいよ。新婚だしね」
灰皿に落とす灰を見ながら、遥は頷く。
「結婚指輪はしないの」
遥は胸元のペンダントを持ち上げて見せた。
「結婚生活ってどんな感じ?」
「楽しいよ。親からも親戚からも公認で、ずっと一緒にいられる。夜、『じゃあ、またね』なんて言わなくていいし。別れの言葉は『いってらっしゃい』って、帰ってくるのが前提で。親友と兄弟と恋人のいいところだけを集めてくっつけたような感じ」
「喧嘩はしないの?」
「話し合うことはあるけど、感情にまかせて怒鳴るようなことはないかな。向こうがいろいろ『遥だからしょうがない』って、諦めてるんだと思うけど。結婚って、過剰な期待をしたり、されたりしないくらいが丁度いいらしいよ」
二本目のタバコも、じぶじぶとフィルター近くまで燃えたとき、四月一日はすっと息を吸った。
「俺、諦めたほうがいいよな?」
遥はタバコの先を見ながら頷いた。
「うん。ごめんね」
四月一日の顔は見れないまま、タバコだけを見て最後の一口をゆっくり吸った。
「いや、謝るのは俺のほう。迷惑掛けて悪かった、ごめんな。……もしよかったら、友達になってほしいんだけど。その、まずは友達からとか、そういう意味ではなくて、ちゃんと、ずっと、普通の友達」
遥はゆっくり煙と吐き出しながら笑った。
「いいの? オレ、相当変わってるよ? 友達になったら苦労すると思う」
「いいよ。そういう友達も一人ほしいと思ってたんだ」
「いいよ。オレも、そう言う友達が一人ほしいと思ってたんだ」
遥は灰皿でタバコをもみ消すと、四月一日に向かって右手を差し出し、四月一日は遥の手をしっかり握った。
「よろしく、四月一日」
「こちらこそ」
二人はしっかり視線を合わせ、笑みを交わした。
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