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第134話

「はい、では、お名前の確認を一緒にお願いします。渡辺遥ラファエルさん、ね? お名前よし。血液型はB+で合ってるかな?」 「うん、合ってる」 「はい、血液型もよし。……遥ちゃんは、右利きだったよね? 左手首にしよっか」 遥が頷くと、細い手首にバーコードや氏名、血液型、生年月日が印字された、入院患者認識用バンドが巻き付けられた。 「遥ちゃん、医学部に入ったんだって? 稜而先生が嬉しそうに話してたよ」 「うん」 特殊なホックでバチンと留められ、余分はポケットから出てきたハサミで切り落とされて、遥の手首に収まる。 「じゃあ、パジャマは持ってきてるんだっけ? じゃあ、それに着替えて、荷物はあのクローゼットに入れてね」 「うん」 「じゃあ、術前検査も終わってるし、今日の予定は、夕方頃に麻酔科の先生が来るだけかな。あ、稜而先生も来ると思うけど。じゃあ、何かあったらナースコール押してね。じゃあねー」 前回の入院時にもいた、『じゃあさん』とあだ名されている若い女性のナースは軽やかにそう言うと、遥に手を振って部屋から出て行った。  遥は着ていたポロシャツとハーフパンツを脱ぎ、持参した紺色の甚平に着替える。 「『病院のレンタルパジャマは胸元がはだけやすいからダメ』、『いつものシルクのパジャマは身体のラインが透けるから、俺以外の人の前で着ちゃダメ』なんて心配しすぎなのん。遥ちゃんのぺたんこどころか、肋骨のあいだが凹んでるおっぱいなんて、稜而以外の人は興味ないんだわー」 脱いだ衣類とキャリーケースをクローゼットに押し込んで、スポーツサンダルを履いた爪先で扉を閉めると、病室内を見回す。  鏡と洗面台、その前に手すりのついた木の椅子、壁際に折り畳めるパイプ椅子、シャワールーム。  遥はベッドの上に乗って、リモコンを使って背を起こすと、そこへ寄り掛かって脚を伸ばす。 「ふうむ。遥ちゃんは今、とっても、入院患者になったって気がしてるわ」 手首に巻きついた塩化ビニール製のバンドをしげしげと眺め、それから、窓の外の輝く夏空を見た。 「主治医が許可を出して、手続きを終えるまで、遥ちゃんは病院からは出られない、お見舞い客に髪を垂らすだけのラプンツェルちゃんなのよ。……はあっ、こうやって入院患者さんってできあがるのね。なんというか、この寂しくて不安な気持ちは、将来患者さんに接するときに、覚えておかなきゃいけない気がするんだわ」 切なげな溜め息をついて、ミルクティ色の髪を片耳の下に束ねてシュシュでまとめていると、トン、トトトンと独特のリズムでドアがノックされた。 「あーん、キャベツぅ!」  稜而は立ち襟のケーシー白衣と白のスラックスに、白いスポーツシューズを履いて、颯爽と病室へ入ってきた。 「ミコ叔母さんに見立ててもらった甲斐がある。よく似合ってる」 しじら織りの甚平を着た遥に目を細め、襟を直す手の甲で、ふわりと遥の頬を撫で、手を返して温かな手のひらで頬を包むと、親指の腹で目の下を撫でながら、遥と視線を合わせ、微笑んで、唇を重ねる。 「気分はどう?」 「今、観察してるところよ。なんというか、寂しくて、ジョンとむきーって喧嘩することすら懐かしく思うの。これはたぶんホームシックで、ホームシックを感じるってことは、環境が変化して、しかも早くもちょっぴりベッドに馴染んで、変化に戸惑う余裕も出てきてるってことなんだと思うわ。……遥ちゃんは、入院患者になってしまって、寂しい気持ちよ。ええと、ええと」 遥の手に自分の手を重ね、稜而は根気よく遥の言葉に付き合う。 「ええと、ええと。自分からは好きな人に会いに行けない寂しさと切なさを感じるわ。入院って、とても不便で不自由よ」 「不便や不自由を感じさせて申し訳ない。でも、インプラントを入れたままだと、万が一再骨折したときに、折れた骨の中から曲がったインプラントを取り出せなかったりして、最悪切断の可能性もある。いろんな考え方があって、先生によってご判断は違うこともあるけど……」 何度も繰り返した説明なのに、稜而が誠意を込め、改めて言葉を選びながら話す姿に、遥はバラの花が綻ぶように笑う。 「わかってるのん。遥ちゃんってば、身体の動かし方が唐突で、いつも楽しく飛び跳ねてて、思いつきで飛び出すのん。そういう人は交通事故に遭ったり、骨折したりするリスクが高いわ。再骨折する前に、抜釘術を受けたほうがいいのよー」 遥は稜而の額に自分の額をくっつけ、若草色の瞳で稜而の目を見ながら笑う。 「棒を挿れたり抜いたり、棒から抜かれたりするのは、超気持ちいいって知ってるから、大丈夫なのん」 二人は肩を震わせて笑い、重ねている手を握り合って、再びキスを交わした。

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