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第135話

「さて。ラウンドして、カルテ書きして、診断書にサインしたら、また戻って来るよ」 遥の頭をぽんぽんと撫でていたら、ドアがノックされた。 「はい」 遥が答えると、大福餅のようにふくふくとした笑みを浮かべた五十代と思われるの男性が入って来た。  年齢相応よりやや落ち着いた色柄のワイシャツとネクタイ、スラックスに、糊の利いたドクターコートを羽織っていて、遥に向かって真っ直ぐ歩いてくるのに、圧迫感も不安感も与えない。 「お加減はいかがですか?」 大福のようにふくふくした笑顔のまま話しかけられて、遥は甘いものを食べたときのような笑顔を浮かべた。 「元気です! 手術を受けたら、痛くて元気がなくなると思います!」  背筋を伸ばしてお利口に返事をすると、男性は笑顔を深め、ゆっくりうなずいた。 「そうですか。なるべく元気がなくならないように、麻酔しますからね。がんばりましょう」  稜而はベッドサイドから立ち上がり、手を体側に伸ばして、丁寧な会釈をする。 「お世話になります。弟の遥ラファエルです」 「ごきげんよう、遥ラファエルです。兄がいつもお世話になっております」 遥もベッドの上から丁寧に頭を下げると、男性は柔らかな笑顔で返す。 「ごきげんよう、渡辺遥ラファエルさんでよろしいですか。私は麻酔科の大谷(おおたに)といいます」 掲げて見せられたIDカードには、『大咲ふたば総合病院 麻酔科 部長 麻酔科医 大谷福次郎』と書かれていた。 「大谷福次郎……。あ、大福先生?!」 遥の口から漏れた言葉に、壁際に控えていた稜而は苦笑いし、えんじ色のスクラブ姿の青年も笑った顔を俯いて隠す。 「そうですよ。大福です。如月先生から聞いたのかな?」 大福先生はニックネームの通り、大福餅のようにふくふくと笑う。 「ええと、記憶が定かではないのですが、たぶん……?」 「如月先生は、私の教え子なんですよ。彼は大変勤勉で、努力家で、信念と熱意を持って研究に取り組み、後進の指導にあたっている。彼が自分で育ったんですが、私の教え子ということで、私はその巡り合わせに得をして、鼻を高くしています。自慢の教え子です」 まるで子煩悩な父親のように目を細め、またふくふくと笑った。遥も一緒に笑顔になる。 「今の言葉を如月先生が聞いたら、とても喜びそうです」 「では、どうぞ遥さんの口から如月先生に、大福がたいそう褒めて自慢していたとお伝えください。褒め言葉というのは、直接言われるより、噂話のようにほかの人の口から聞くと効果が高まるそうですから」 遥はしっかり頷いた。 「はい」 「褒め言葉は何度聞いても嬉しいものですからね、何度でも言ってあげてください」 「わかりました。そうします」 「頼みましたよ。……さて、明日の麻酔の話をしましょう。もう術前検査は全て終わっていますね。結果はいずれも問題なし。今回は手術時間が短く、術後の痛みもさほど強くないと予想されますので、『脊髄(せきずい)くも膜下(まくか)麻酔』という方法で下肢のみに局所麻酔をします。この方法は少ない麻酔薬でしっかりとした麻酔効果が得られます」 遥は大福先生を見ながら、しっかりと頷いた。 「さあ、豆つきもやしを思い浮かべてください。豆が脳で、もやしが脊髄です。その豆つきもやし全体を包んでいる袋が髄膜(ずいまく)。髄膜は外側から硬膜(こうまく)・クモ(まく)軟膜(なんまく)という三層から成っています。そして、その髄膜の中は髄液(ずいえき)という弱アルカリ性の透明な液体で満たされています。……さて、ちょっと背中を失礼」 紺色の甚平の上から背骨を触って数え、腰の一点を指で押さえた。 「このL3/L4、ってもう習いましたか? 骨学(こつがく)は後期でしょうか? ええと、第3腰椎(ようつい)と第4腰椎。この間を目標に針を刺して、脳と脊髄を包んでいる髄膜の中に麻酔薬を入れます」 「はい」 「そのあとはベッドに寝て頂いて、頭の高さを調整して、麻酔薬が下肢に作用するようにします。脳まで全部つながってますから、髄液の濃度と麻酔薬の濃度の比重、そして重力を使って、狙っている場所へ麻酔薬を行き渡らせる。と、まあ、こういう訳です。意外に泥臭くて面白いでしょう?」 ふくふくと笑う顔に、遥も一緒に笑顔になって頷いた。 「麻酔科医は、しびれ薬を注射してるだけと思われがちですが、麻酔薬を適切に、的確に使って、なおかつ、術中は様々な副作用と闘います。出血したとき、輸液するのは麻酔科医の仕事です。稜而先生を前に失礼かも知れませんが、『外科医は出すだけでいいよな、入れるのは麻酔科医の仕事なんだぞ』と。まぁそんなことを思いながら薬剤室へ内線して、赤十字社へオーダーする血液の単位を計算し、緊急時には自分も輸液用のバッグを抱えて走り、間に合わなければ直接手でバッグを持ってポンピングしたりする訳です。もし手術室で、血液が固まらないようにバッグを腰に下げてお尻を振って踊っている人がいたら、それは麻酔科医です」 「ふふっ」 遥が笑う顔に、ぽっちりとウィンクして見せてふくふく笑う。 「麻酔が効いたかどうかは、コールドテストで確かめます。アルコール綿で皮膚に触れて、冷たく感じるかどうかで調べます。テストしてから手術を始めて頂きますから、麻酔が効く前に、稜而先生が遥さんの膝や足首にメスを入れてしまうことはありませんよ。ちゃんと私が『お願いします』と言うまで、待っていてくださいますからね。……そうですよね、稜而先生」 「もちろんです」 稜而が爽やかな笑みを浮かべて頷いた。 「副作用はおこりうるものとして、私たちは準備しています。もちろん何事もなければ一番ですが、何があってもいいような準備だけはしていますから、ご安心ください。……さて。私は麻酔のことになると、際限なくしゃべってしまいますのでね。気をつけなければいけません。ご不安やご心配な点は、何でもおっしゃってください。ご不明な点はありませんか」 「あのぅ、麻酔薬って、何を使いますか?」 「今のところ、シップカミンを使う予定ですよ。大咲製薬の麻酔薬は使い勝手がいいです。シップソムとシップカミンを、私は第一選択にしています」 「はい。教えてくださってありがとうございました。……明日の手術が楽しみになりました」 「そうですか。それはよかったです。明日は手術室でお待ちしております。一緒に頑張りましょう」 大福先生は、やはり大福のような柔らかな手で遥の手をしっかり握ると、それではと光る後頭部を遥と稜而に見せて会釈して、ふくふくと病室から出て行った。 「大福先生、素敵なのん」 「そうだね」 稜而は再び遥の頭を撫でてから、お大事にと病室を出て行った。

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