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第136話
廊下から雷鳴のような音が聴こえてくると、遥はいそいそと手を洗い、テーブルをセットして、ベッドの上にぴょんと正座した。
「手はお膝!」
程なくして病室のドアが開き、夕食のトレイが運ばれてきて、遥は両手をパチンと合わせる。
「いただきますのん! これぞ上げ膳据え膳、食わねば男の恥ですのよー!」
茶碗いっぱいに盛りつけられたご飯を左手に、ぎせい豆腐、切り干し大根煮、金時豆をテンポよく口へ運び、可愛らしい手毬麸が浮かぶ青菜のお吸い物を飲み干し、スイカを食べると、ウェットティッシュで丁寧に手と口を拭き、胸を張った。
「まぁ! 遥ちゃんったら、好き嫌いせず全部食べて、とってもとっても偉いのよ! ありがとう、遥ちゃん! 褒めてもらえて嬉しいのん! 遥ちゃんも、お手々とお口もきれいに拭いて、ますます偉いんだわ! あーん、嬉しいわ! 遥ちゃんに褒められちゃったのーん!」
自分のミルクティ色の前髪を何度も撫でてから、ナースステーション前の配膳車までトレイを返却して病室へ戻って来ると、また前髪を撫でる。
「なんということでしょう、遥ちゃんったら、自ら率先して、お片付けができたの?! なんて素晴らしいのかしら! アメージング! ブラボーよ!」
ひとしきり手を叩き、自分の頭を撫でて、「はーい、自画自賛タイム終了ー!」と、満足げな笑顔で頷くと、改めて病室内を見回した。
「遥ちゃんは知ってるのん。手術が終わったら、仰向けになったまま、このお部屋へ帰ってくるんだわ。そして天井と窓とテレビくらいしか見るものがないのよ。全部が四角いのん。授業中にくじらぐもを探した遥ちゃんでも、さすがにそればっかりは飽きるし、何より四角いのは本当に好きじゃないのん……。だから、明日の可哀想な遥ちゃんのために、今日の遥ちゃんから、お見舞いをしてあげようって思うわ」
遥はクローゼットを開け、百円均一の店のロゴが入ったビニール袋を引っ張り出す。
「ヒャッキンは楽しいのよー。遥ちゃんの購買意欲を刺激されちゃうのん」
がさごそと袋の中を探ると、鼻に掛かった声を出した。
「てれれれってれー♪ フラワーペーパー!!!!! キャベツみたいな黄緑色と黄色と白ーっ! 遥ちゃん、これでもう心配はいらないよ! あーん、ドラちゃん! ありがとうなのん!」
着色された薄紙をテーブルの上に十枚ほど重ねると、ざくざくと蛇腹折りにして、中心を輪ゴムで留め、両端を半円状に切り落として、一枚一枚薄紙を剥いでいく。
「じゃーん、黄緑色のお花ができましたのん。色や大きさを変えて作って飾ったら、ホドラーさんの絵みたいにリズムがいいんだわー」
遥はベッドの上にあぐらをかいて、テーブルの上に積んだ薄紙で、大きさや色の違うペーパーフラワーをいくつも作る。
「♪りょーじとーのであいをー、おもいだしてごーらんー、くるまにー、ひかれてー、あーったでしょー。すきになったこーとー、キャベツってよんだこーとー、いーつにーなーってもー、わーすれーないー♪ キャベツ、愛してるわー」
歌いながら、壁やテレビの角やクローゼットの側面に、さまざまな大きさと色のフラワーペーパーを貼っていく。
「ふうむ。キャベツ畑みたいにふんわり甘くて、素敵なお部屋になりましたのん。さーて、仕上げは窓よ」
遥が向き合った窓の向こうはすっかり日が暮れていて、リハビリ公園の水銀灯が鋭く光っているのが見えた。
「楽しい部屋になったな」
窓ガラスに稜而の笑顔が映る。
「あーん、稜而! お疲れ様なのん。これから仕上げに、窓を楽しくするのよ」
遥は百均のビニール袋から、グミのような感触のジェルシールを取り出して稜而に見せた。
「これを貼るのん」
「たくさんあるね、手伝おうか」
「おーいえー! このいっぱいのハートを、打ち上げ花火の形に放射状に貼りたいのん。火花が外に向かって大きくなるみたいに」
「わかった」
遥が花火の中心を決めると、二人は台紙から赤やピンクやオレンジのハート型のジェルシートを次々剥がし、窓に貼りつけていった。
「♪りょうじのゆめから、よなよなほしぞら。はるかちゃんは、ゆれるゆれる。りょうじのむねから、ドキドキしんぞう。はるかちゃんも、ドキドキする♪ 離れて寝るのはしょっちゅうなのに、今夜はとっても寂しい感じがするのん」
「俺も。でも、明日は手術日だから、さすがに付き添いはちょっと、な……」
「わかってるのん。明日は、遥ちゃん以外の患者さんも手術するのん?」
「うん。ポジションはいろいろだけど、八件だったかな。日帰りの小さな手術が多い。あ、でも、俺は件数は少ないほうだよ」
「皆さん、コマネズミちゃんみたいに働くのん」
「手術室の稼働率を考えて、なるべく無駄がないようにスケジュールを組むからね。麻酔科の先生方はオペ室の転換もされるから、もっとコマネズミのような気分じゃないかな」
「大福先生もくるくるしてるのかしらん?」
「無駄な動きをしないから早い、という感じかな。先生が麻酔されてるとき、こっちは画像を見て確認をしたり、手洗いをしたり、術野を見たりしてるから、よくわからないけど。明日、遥が観察してごらん」
稜而は窓にジェルシールを貼りながら、目を弓形に細めた。遥は窓ガラスに映る稜而の笑顔と、ジェルシールを貼る指先を見て、作業する手を止め、それからちょっと肩をすくめて笑った。
「稜而、お父さんにそっくりなのん」
「そう? まぁ、親子だからな」
「パパが入院してたときも、遥ちゃんはジェルシールを窓ガラスに貼ったのん。高い場所に貼るのを、お父さんに手伝ってもらったんだけど、そのときの窓に映ったお父さんの顔を思い出したわ。今は家族になってるなんて、不思議な巡り合わせね」
稜而はうんうんと頷いた。
「俺も、まさか患者に手を出すとは思わなかった。人生は、何が起こるかわからない」
「ふふっ。先に好きになったのは遥ちゃんよ。救急車のハッチバッグが開いた瞬間に一目惚れだったんだわ」
「そう? 俺も、遥に一目惚れだったけど」
窓に向かい、ジェルシールを貼る手を動かし続けたまま、稜而は言った。
「うっそーん。超、不機嫌だったのん」
「仕事中だったし、あの日は究極の寝不足だった。遥にいいところを見せたくて、緊張もしてた。それに職場で、周りに同僚がたくさんいるのに、そんなの照れくさいだろ……」
隣に立つ稜而の耳は真っ赤に染まっていて、遥の視線に気づいた途端、その赤は首筋まで広がった。
「ひゃあ! 真っ赤っかーなのん!」
遥が指先で耳に触れると、稜而は少し身体を引いて、その指先から逃れた。
「兄をからかうな」
「あーん。ずるいのーん、そういうときにお兄さんになるのはダメよー!」
「とにかく早く貼ろう。カーテンを閉めたい」
「あ、はいなのん」
残りの数枚をぺたぺた貼ると、仕上がりを確認するより早く稜而はロールカーテンを下ろし、カーテンが窓枠に触れた瞬間、遥の肩を抱いてキスをした。突然のキスに見開かれた遥の目には、稜而の真っ赤な耳が映っていた。
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